第八話


 昨夜はよく眠れなかったせいで、関節の節々が疲労を訴えている。授業中も意識は宙に浮いていた。

 眠気は常に付き纏っており、今も頭に張り付いて離れないまま放課後を迎えた。一瞬で一日が過ぎていたことに今更気付く。


 まるで遠足が楽しみで寝られない子供みたいだった。

 もう何かを楽しみにして物事が疎かになる年齢では無いのに。


「叶、今日カラオケ行こうよ」


 教室が一気に騒がしくなってから声をかけられる。

 純は自転車の鍵を指先でくるくると回して軽そうな鞄を肩にかけていた。


「……ごめんしばらく遊べない」

「なんでだよー、最近付き合い悪くないか?」

「もうすぐ試験なの忘れてない?」

「叶まで桜みたいなこと言うじゃん。その桜も今日は部活らしいしさぁ」

「ほんと、ごめん。埋め合わせはするから」


 口を尖らせて不満顔を全面的に出す純に手を合わせる。


「はぁー、仕方ないな。なに、今日なんか予定あんの?」

「うん、勉強」

「はあ!? 叶、いよいよこの暑さで……」


 純が大げさに驚く。軽く頭を叩いてその場を後にした。


 廊下を歩く途中、一呼吸置いてスマホの時間を見る。約束まであと二十分くらいだ。

 目的の人はもうとっくにここにはいない。一番に教室から出ていったのを見届けた。私を見ることもなく出て行く背中に、本当に約束していたのか不安になる。


 『時間差を置いて来て。絶対誰にもバレないで。場所は後で送っておく』


 彼女から届いたメッセージは淡白で、無色だ。そこに天野さんの感情が見えることはないし、文章だと尚更何を考えているのか分からない。


 私に絡まれるのは嫌だと思っているかもしれない。面倒だと内心考えているかもしれない。

 いくら私が弱みを握っているからと言って、言い返すくらいしたらいいのに。


 だけど、彼女から連絡が来た事実に昨日の夜はあまり眠れなかった。

 否定の言葉がないことに本当は安心している。

 私は天野さんとどうなりたいんだろう、なんて考える時間はもうあまりなさそうだった。


 『ここに来て。多分、十五分くらいで着くと思うから』


 スマホのバイブが鳴って見てみれば、天野さんから位置情報が届いていた。

 マップで確認してみると私の家の方向に近い。天野さんのバイト先で会うものだと思っていた。場所を見る限り何かのお店というわけではなさそうで、それが私を余計に緊張させる。


 大きく深呼吸をして、また歩き直す。


 誘った私がびびってどうするんだ。勉強、そう私は天野さんと勉強するだけ。ほとんど話した事もない彼女に微かな興味を抱いただけ。


 誰かに言い訳でもするように考えながら校舎を出る。グラウンドにはだらだらと走るサッカー部員の姿が見えた。こんな暑い中ご苦労さまと、勝手に労って校門をくぐる。

 校門を出てすぐには大きく長い坂があった。たまにこちらでも坂ダッシュといって駆け込みをしている運動部員をよく見かける。本当に運動部員にならなくてよかった。


 入学して最初の三ヶ月は絶対にどこかの部活に入らないといけないという変な校則があったが、私はテニス部に入ってすぐにやめた。運動はしんどいとすぐに気付いたし、女しかいない部活は怖い。特に人間関係が。


 両親からはどこかの部活には入ってなさいと苦言を呈されたので、仕方なく楽そうな生徒会に入っている。実際私みたいなやつに仕事を任されることもないので部活自体最近は顔を出していなかった。


 天野さんは何の部活をしていたんだろう。というか、今は部活に入っているのか。アルバイトしているし、やめてるかも。


 やっぱり私は天野さんのことを何も知らないんだなって、胸に重いものを抱く。

 何度目かも分からないそんな後悔は別に、私にとって関係なんかないのに。


 坂を下って左に曲がると、私の通学路となる。その道をしばらく歩いていれば、マップのピンが目的地に着いたことを表していた。


「ここって……」


 スマホから顔を挙げて自然と首が傾く。


 お店でないことは予想できていたけれど、目の前には随分と古めかしい二階建てのアパートが建っていた。

 風化しているように見える天井は白く色あせていて、建物自体も安心できる強度は見込めない。木造で出来た茶色い壁は、これまでの雨等で変色してしまっている。


 この道を歩いたことは何度もあるのに覚えていない。それくらい印象に残らない。

 まさかここが天野さんの家なのだろうか。

 あんなバイトをしているからお金は持っているものだろうと思っていたけれど。多分これは偏見だ。


 思わず腕の肉を摘まむ。

 痛いけれど、頭の中がすっきりしてスマホに文字を打っていく。


 『着いたけど』


 簡単にそう送れば、既読が着く前にアパート二階、一番左のドアが開いた。出てきたのは制服姿の天野さんで、本当にここが天野さんの家だと理解する。

 天野さんが手を振ってくる。遠慮がちに階段を進む足は歪んでいるように上手く歩けない。ぼろぼろの階段は今にも穴が空いて落ちてしまうのではないかと思った。


「ぼろいと思った?」


 ドアの前に着いた瞬間、そんなことを言われる。頭の中身が全部漏れているのではないかと疑って身構えた。


「そ、そんなことないけど」

「そう? 思ってそうな顔してるから」

「そんな分かりやすい? 私の顔」

「うん、とても。とりあえず入って」


 希薄な会話を交わして中に促された。

 中に入ると、天野さんが強まる。それはあの日貸してもらったハンカチと同じ匂いで、これが天野さんの……とまで考えてやめた。少し変態じみている。


 入ってすぐ右のドアの向こうには洗面所とトイレが併せて見えた。風呂場は分かれているらしい。


 廊下を歩いて一枚の扉を開けて見た部屋の中は、外見と違い綺麗な印象を持った。白い壁に囲まれた狭い個室には、青いベッドと大きな本棚が置いてある。

 窓からは日が差しており、立地的には悪くなさそうだ。


 綺麗だが、とにかく物が少ない。物が少ないから綺麗だとも見える。小さいテーブルには数冊の教科書が積んであり、私がここに来た意味を思い出す。


「一人暮らし?」

「うん。だからまあ、自由にして」


 自由にしてと言われても。クッションみたいなものもなくどこに座ればいいか戸惑う。ベッドの上に座るのは気が引けて、カーペットの上に座り込んだ。珍しく教科書が入って重い鞄を床に置いて一度落ち着く。


 天野さんの家の天井を見上げるのは不思議な気分だった。

 なにか悪いことをしているような気持ちになる。


「麦茶くらいしかないけどいい?」

「うん、ありがとう」


 天野さんは最低限の物しか入らなさそうな冷蔵庫からお茶のボトルを取り出して、グラスに注いでくれる。


「まさか家に入れてくれるとは思わなかった」


 用意してくれた麦茶を少し飲んで喉に潤いを待たせる。

 天野さんはテーブルの向かい側に座って教科書を整理していた。


「今日バイト休みだから」

「そっか」


 素っ気ない声に気まずい時間が過ぎていく。

 なんとか話題を探そうとするが見つからない。


 私と天野さんの間には共通点と言えるものはなく、自然と無言の時間が増えてしまう。


「それでなんの教科やるの?」

「えっ」


 天野さんは机の上に置いてある教科書を撫でて、勉強の開始を合図する。


「勉強、しに来たんでしょ」

「いやそうだけど、なんかもっとさ。軽いお話してからにしようよ。外暑かったし」


 理由にならない言い訳を並べて天野さんを見つめた。


 エアコンはついているし、もうとっくに肌の上は涼しい。ただ、体の中から湧き上がるような熱が蝕むように暑かった。


「話ってなに? 軽いとか重いとか分からないんだけど」

「……私も分からないけど」

「じゃあ勉強するから」

「あ、そうだ。天野さんってきょうだいとかいる?」


 昨日の夜から気になっていることを問うてみる。

 予想は一人っ子で、三人家族だろうか。でも、高校生で一人暮らしをしている人は聞いたことがない。何か事情があるのだろうけど、それを私が踏み込んでもいいものか悩んだ。この場合返ってくる答えはあまり良い内容ではない気がする。


「いるけど……前にも言ったよね」

「え、そうだっけ」


 心臓が跳ねたのかと思った。目の奥がちかちかとして背中に汗が滲む。

 頭の中を巡らせて思い出した。


「体育の時に」


 確かあのときは天野さんの正体がのぞみさんだと気付いて慌てて聞いた質問だった。

 つくづく自分の記憶の薄さに嫌になる。あれだけ知りたいと思っていた天野さんの情報も、結局はすぐに忘れてしまうのか。


 惨めな気持ちが目頭まで到達する前に言葉を紡ぐ。


「ごめん、お姉さんがいるんだっけ」

「そう。末原さんは?」

「私はわがままな妹が一人いるけど。中学生の」

「意外」


 たいして興味もなさそうに天野さんが微妙に反応する。


「そう?」

「末原さん妹っぽいから」

「……それ別にいい意味じゃないよね?」


 妹っぽい、と言われて並べられるのは幼いだとか、自己中心的とかマイナスなイメージが多い。年下のように素直な可愛さなんて持ち合わせている訳がないから、天野さんの本心が気になってくる。どうせ、そこには意味なんてないのだろうけど。


「想像にお任せします」


 小さく笑う天野さんの表情が目に映る。その笑顔に嬉しくなって、段々と特別なものに感じてしまう。


 それは良くない。

 天野さんにちょっとだけ近づきたいとは確かに思っているけれど、何も特別な存在にしたいわけではない。

 触れたいけれど、触れたらきっと良くないことになる。

 無理に触れあうとお互い摩耗するのは目に見えていた。


 なにも天野さんだけではない。人との構築は疲れるし、傷を避けるのは難しい。どこかで必ず衝突して、摩耗していた心や身体は砕けて元には戻らない。親密になればなるほど近づく距離感が難しい。


 だから私は天野さんとそういう普通の関係になることも嫌だと思う。

 最初から近づかなければ、摩耗することもない。


 彼女の体温が分かるほど、近くにいたいとは思わない。

 それはきっと、彼女も同じ。


「そろそろ勉強しよっか」


 伸ばせば触れられる距離の彼女から目を外して鞄の中を探る。今日は数学の課題が出ていたはずだ。ファイルの中から一枚のプリントを取りだして机の上に置く。テーブルはそれだけで埋まってしまうほど小さい。プリントを寄せて天野さんの分のスペースを譲る。私が勝手に侵略してきたものなので少し、いや結構気を遣う。


「もう少し広く使ったら」

「でも天野さんが狭いでしょ」

「宿題終わってるし、元々私は末原さんに勉強を教えるためにいるんでしょ?」


 天野さんが髪を耳にかけて、私のプリントを真ん中にずらす。

 課題が終わっているなんて嘘だろうと思ったけれど、クラス一番の言うことだ。私の基準で考えちゃいけない。


「分からないとこあったら教えるから」


 勉強というのはただの口実で、なにも家庭教師みたいなことを頼みたいわけではない。それなのに天野さんは目の前で、私のことだけを見つめていた。


「そんなに見られると緊張するんだけど」


 人に注目されることすら苦手なのに、天野さんといるとそれが顕著になる。

 天野さんは私の容姿に点数をつけるような真似はしないだろうけど、私の行動一つにどう思っているかは気になった。


「末原さんの恋人ってどんな人だったの?」

「はあ!?」


 天野さんの突飛な発言に思わず声が飛ぶ。

 じっとしていられなくて机を投げ飛ばしそうなほど動揺した。


「うち壁薄いから大声出すのやめて」


 最初は冗談かと思ったけれど、彼女の目は真剣そのものだ。茶化していないことは分かるけれど、言葉の真意が見えてこない。なんでそんなことを聞くのだろう。


 だってその話はあの店で出会ったのぞみさんしか知らないことで。

 お店のことをだしに使った私が言うのもおかしいけれど。こいつ、すました顔でなんてことを聞いてくるんだ。


 言う必要ない。

 これはプライベートなことで、私の踏み込まれたくない部分だ。

 私は天野さんに聞けないことでいっぱいなのに。天野さんは簡単に飛び越えてくる。


 簡単に飛び越えられるハードルだと思われていることにも少し腹が立つ。


「別れたんでしょ?」

「そ、そうだけど。普通そんな話聞かないって。軽いか重いかは分からなくても、触れちゃダメなことくらい分かるでしょ……勉強しようって言ったじゃん」

「本当に勉強を教わりに来たなら、それはそれでいいけど」


 天野さんが机の上に置いてある教科書を床に置く。

 私のスペースが広がって心なしか手持ち無沙汰になる。


「いいじゃん。私にだって勉強を教える報酬があっても」


 メリットがない、と天野さんが愚痴をこぼす。


 そうだとは確かに思う。

 いまここにいるのは私のわがままで、天野さんにとっては迷惑でしかない。

 けれど話すにしたって時間と関係値くらいは考慮して欲しい。

 それとも考慮した結果なのだろうか。私が、あの夜打ち明けたから。少しくらいは気にしてくれていたのだろうか。


 でもこの質問に答えたことで、彼女の得になるとは思えない。報酬でもメリットになるとも考えられない。


「別に、末原さんがああいうお店を利用してたってクラスの皆に言ってもいいけど」


 すぐに嘘だと分かった。

 そのことをばらしてしまえば、じゃあなぜ天野さんがそんなことを知っているのかという話になる。


「えっと、吉川さんと大山さんだっけ。そのあたりにバレちゃったら困るんじゃない?」


 脅されている。

 彼女にとっての仕返しなのだろうけど、そんなことをする理由が見つからない。単に私に対する嫌がらせという線が一番可能性高い。


「……分かった」


 プリントと一緒に出してあったシャープペンシルを握る。


「で、なにが聞きたいんだっけ」

「末原さんの元彼のこと」

「詳しく指定してくれないと話せない」

「話し下手なの? じゃあ、出会いから」


 そんなことから話さなきゃいけないのか。

 出会い、と言われて喉が萎むような感じがする。上手く声が出るか不安だったが、無理矢理ひねり出した。


「最初はSNSで話してて……気になって」

「SNSって趣味の話とか?」

「うん、まあ、そんな感じ。共通の話題で繋がったはず」

「趣味って何?」

「そこまで言う必要ない。それで、話し始めて少し経って……意外と近くに住んでることが分かったから、会いに来てくれて、それからまた何度か会って……」


 私の言葉は不器用で上手く文章にできない。それもそうで、誰かに説明するようなことではない。拾ってきた言葉で簡単に紡ぐ方法は知らない。伝わるかも微妙な説明だったが、天野さんは分かったように頷いていた。


 頬の端がぴりぴりとするのを感じる。おどけられるような雰囲気でもなく、喉が渇いた。

 ぬるくなった麦茶を一口飲んで内容の薄い話を続ける。


「まあ付き合いました。一年経ったこの前振られました。その後のことは天野さんも詳しい。以上」

「適当すぎでしょ、その人は同い年?」

「……年上だけど、なに」

「いや別に、年上がタイプなの?」


 天野さんは垂れた横髪をまた耳にかける。癖なのだろうか。

 面白くもない質問を繰り返し続ける彼女にそろそろ不満が溜まってきた。なんだ、この不毛な時間は。こんなことなら真面目に勉強していた方がましだと思う。


「タイプとかそんなのない。ただの直感」

「ふーん」


 いつもと同じ淡泊な反応。

 大げさな態度を取られたいわけではなかったが、ここまで来て興味ないような反応は面白くない。人が話したくないことを話しているのだから、もう少し気を遣ってもいいと思う。


 だから、私は余計なことを口走る。

 言わなくてもいいことを。

 彼女にはどうしてか知られたくなかったことが口から漏れる。


「天野さんは元彼って言うけど、私の恋人」


 それはきっと私の些細な意地で。

 ほんっと、捻くれている。

 損をしてばっかの人生だ。


「……女の人、だからね」


 天野さんが少しでも驚けばいいと、そう思った。

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