第七話

 あんなに近い距離で美人の顔を見つめたのは初めてだった。

 天野さんが早足に教室を出て行ってからも、私はしばらく机から動けなかった。触れられてもいないのに首筋が熱い。湿った夏の暑さとも違うそれに、なんとか意味を見つけようとする。

 結局、家に帰り着いても意味なんて見い出せない。何もやり遂げてなんかいないのに達成感と、それに見合わない疲労感が重く肩にのしかかっていた。


 なんだあれ。


 なんだあれ、なんだあれ、なんだあれ。

 壁際に寄せてあるベッドに勢いを殺すことなく倒れ込む。ばたばたと足で埃を舞わせて、何度か噎せ返った。目の端に涙が浮かぶ。数回同じ事を繰り返した後、生気を失ったかのように脱力する。


 耳が熱い。目がぐるぐると回る。窮屈に固まった肩が痛い。生きている感じがする。


「あー……」


 何をしているんだろう、と思う。


 寝返りを打って天井を眺めた。足首が疲れたのでもう暴れない。高校生にもなって変な理由で肉離れを起こされても困るし。とにかく今は安静にしてください、と心の精神科医に止めてもらう。


 自分だけが引きずっているみたいで面白くない。


 傍から見れば拗ねた子供みたいにいじけている。今もあのお店にいる天野さんは多分、私の事なんて思い出しもしないんだろう。それがほんの少し、本当に少しだけ悔しいと思う。


 また連絡するから、と言って帰って行った彼女からの通知はまだ来ない。もしかしたらその場しのぎの言葉だったのかも、と今更不安になる。


 信用していないのだ。

 信頼関係がないから。

 信じることが出来ない。


 もういい。このまま天野さんから連絡が来なかったら素直に諦める。


 私はこうやって人間関係に節目をつけていないと落ち着かない。面倒なやつだなと自分でも思う。ひねくれている。


「さいていなやつだ」


 要求を呑まないとアルバイトのことをばらす、なんて匂わせてまで彼女に近づいたのに。私が焦って、勝手に不安がることはおかしい。


 元恋人の「重い」という言葉がまた頭を反芻する。

 うるさい。すぐに自分を変えられるならもうとっくに変わっている。もっと生きやすい自分に生まれ変わっている。

 こういう後悔のようなものを経験してばかりで、全然将来に活かせていない。不足を理解していながら、埋めることが出来ないでいる。


 勉強机が面している壁の窓ガラスから、空き教室で見たよりも濃いオレンジが入り込む。 これが灰色に移ろって、真っ黒に染まった頃。天野さんは何をしているのだろうか。アルバイトの内容を知っているからこそ、想像だけが一人歩きを始める。ところどころぼやけているけれど、考えれば考えるほど胸やけがしそうだった。


 なんで、天野さんなんだろ。


 たまたま、私が傷ついているところにいてくれたのが彼女だったから。

 天野さんが――のぞみさんが背中を撫でてくれていたから。


 そんなことだけが理由なら、彼女ばかりに執着するのはおかしい。執着、という言葉に頭を抱える。意味分からん。


 息を深く吸って、大きく吐く。


 今は新しく与えられた玩具に夢中になっているだけだ。きっと、時間が経てば飽きて興味も失ってしまうだろう。呪いのように纏わり付くそれも、いずれは霧散するはず。


 こんな感じで最近は気が付いたら天野さんのことばかり考えている気がする。彼女は確かにずっと見ていられるほど顔がいいけれど、簡単に近づけるほど優しくはない。見た目だけが可愛い、警戒心の強い猫みたいだ。

 だから、お店で会うのぞみさんとのギャップに戸惑う。あんなもん、詐欺みたいなもんじゃないか。


 もういい。寝てしまおう。寝ている間は彼女の事なんて考えなく済むから気が楽だ。

 夕ご飯までの少しの時間だけでもいいから、今はだるい身体を休めたい。


 部屋の電気を消して息を整えていると、階段から足音がした。

 構わず目を閉じる。足音が近くなってそのまま私の部屋の前で止まった。睡眠の時間はなさそうだと予感すれば、勝手にドアが開く音が聞こえる。

 さっき消したばかりの電気が光るのを瞼の上で気付いてため息が出た。


「あ、姉ちゃん寝てる」


 もう一度小さく息を吐く。寝ている人に声をかけるんじゃない。


「姉ちゃん、ねーちゃーん」


 妹の無遠慮な声には反応しない。どうせどうでもいい事だ。


「ねーちゃん太った?」

「うっさい」

「あ、起きた」


 起こしたんでしょうが。

 それに太ってない。むしろ痩せた。最近ご飯が喉を通らないせいで。


「で、なに?」

「楓ちゃんがさっきまで来てたんだけど。姉ちゃんに用があるって」


 楓というのは隣に住む幼馴染のことだ。高校で離れてしまったけれど、距離が近いからしょっちゅう私の家に遊びに来る。


「んー」


 急用ならすぐにでも連絡が来るはずだ。相変わらずズボンの右ポケットにしまってあるスマートフォンには誰からの連絡も来ていない。もちろん、天野さんからも。


「姉ちゃん暇でしょ。ゲームしよ」

「いやもうすぐで試験だし暇なわけないじゃん」

「試験で暇な人はベッドの上にはいないから。で、なんのゲームがいい?」


 妹はこっちに意見を求めてくる割に、上からスライムを落とすパズルゲームを準備している。同じ色を四つ並べて消していくそのパズルは、どうやら妹にとって難しいものらしく、私はいつも手を抜いて構ってあげていた。

 そうでもしないとこいつはすぐに不機嫌になって面倒くさいのが分かっている。


「やらないからね」

「青と赤どっちがいい?」


 コントローラーを掲げて当たり前のように聞いてくる。

 私は今日何度かも分からないため息を零して妹の隣に座った。赤色のコントローラーを取って画面に映るいつものキャラクターを選ぶ。


 結局、妹には甘い。どこの姉もそうなのだろうか。


 純は何人かいるきょうだいの末っ子だと聞いたことがあるし、桜も楓も一人っ子だ。周りに比べる対象がいないから、中学生の妹との距離感はこんなものかと分からなくなる。

 でもまあ、いつか妹にも反抗期ってやつが訪れると考えると少し寂しい。今のうちに一人しかいない妹を大事にすることは悪くないだろう。


 天野さんはどうなんだろう。きょうだいがいるなんて情報は聞いたことがない。勿論そのほかのことも、私は何も知らないのだけれど。

 勝手に一人っ子かな、と予想していたら、普段は私が手を抜くことがない限り勝てない妹のキャラクターが喜んでいた。


「やったー」


 コントローラーを置いて分かりやすく喜ぶ妹に対抗心が沸く。


「次やるよ、ほら」

「え、でもそろそろご飯だよ」

「いいから」


 大人げないと思う。妹相手に本気になって恥ずかしくないのかと。

 答えはノーで、こういうのはとことんやらないと気が済まない。

 そんなふうに無我夢中になっているから私は気が付かなかった。


 普段は鳴ることのないスマホがポケットの中で振動していたことを。

  

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