第六話

 数式を書く腕に合わせて頭が動くのを、頬杖をつきながら目で追いかける。

 左から二番目、一番前の席。

 毛先までストレートな黒い髪と、半袖から覗く白い腕が相反してやけに輪郭がはっきりしているように見えた。


 後ろ姿からは何も感じられない。

 ただのクラスメイトがそこにいるだけで、最近までは名前すら知らなかった存在だ。 

 どうでもよかった。私の人生に立ち会うような人ではないと思っていたから。


 私は自分のことで精一杯だったし、これからだって変わらない。

 両手に残る最小限を大事に、落とさないように抱えている。まだ成長途中の手のひらは小さく、余裕なんてなかった。


 余裕のない中で出来た初めての恋人はたいした理由も言わず、なんてことないように私を置いていったけれど。

 きっと私の存在は重すぎて、あの人の両手からこぼれ落ちてしまったのだろう。

 だからって、ぽかりと空いた恋人の隙間を埋めようと、何でもかんでも口にするのはよくない。大切に選んで拾わないとまた私は失敗を繰り返す。


 それなのに今は、見えない指が私の前髪を引っ張るように吸い寄せられる。意識している訳ではないのに彼女を探そうと、自然と視線が泳ぎ始める。


 保健室の一件から数日が経った。あの日以来、天野さんとは挨拶すら交わしていない。

 お店に行こうとも思わなかった。

 そうやって身体は彼女との関係を薄めようとしているのに、頭が全然受け入れてくれない。


 意識して動かなければやってこない偶然に、どうすれば巡り会えるかばかりを考えている。


「末原ー」


 数学教員の声が普段よりも明確に耳に届いた。

 クラス中が私を注目しているのを感じ、勢いよく背筋が伸びる。


「俺の授業はそんなつまらんか?」

「い、いえ! 超面白いです!」

「そうか。じゃあ目の前に来てこの問題解けるってことだよな」

「ご、ご勘弁くだせえ」


 先生は見たこともない数式を指さしながら、いやらしいぐらいの笑顔で無理難題を言う。

 そんな中で多数の嘲笑を肌の表面に感じるが、天野さんだけは振り向きもしなかった。


 周りの音なんて気にもしない彼女の繊細な後ろ姿を見て目を伏せる。

 惨めだと思う。


 先生から叱られたことよりも。

 クラスメイトからの注目のマトになったことよりも。


 ――天野さんの視界にさえ入れなかったことが、ただ恥ずかしかった。

  


「今日の叶おかしくない?」


 地獄のような数学の時間が終わって、昼休み。

 私は苦い顔で冷めた白米を咀嚼していた。


「おかしくないよ。いつも通り」

「確かにいつも通り先生には怒られてたけど……」

「だよね。なんかさー、意識ここにあらずって感じじゃん」


 純と桜の連携が私の弁当を食べる箸を止めてくる。

 桜に至っては悪気がないからたちが悪い。


「失恋まだ引きずってるんだ」

「そんなことない」

「叶ちゃん大丈夫だよ、相談ならいくらでも乗るからね」

「……ありがとう」


 真剣な瞳で見られたらこれ以上否定する気力も失せた。失恋を引きずっている……まさにそうで、授業に集中できない自分がいる。この二人は事情を多少知っているから私の態度にも笑えるだろうが、他のクラスメイトは私をただのだめなやつだと勘違いしているかもしれない。

 勘違いならいいんだけどさ。


「もうすぐで夏休みだし気分変えてこうぜえ」


 純が行儀悪く箸を天に突き出して言う。


「その前にテスト頑張らなくちゃだね」

「夏休みどっか行く?」


 聞いてみて前回の夏休みはどこに行ったけなと思い返す。

 去年は確か近場のプールに行ったのだった。

 帰りに三人で銭湯に寄って、恥ずかしげもなくコーヒー牛乳の早飲み対決をしたのを覚えている。


「え、テストだよ、ね?」

「んー、海とか」


 海、ねえ。


 弁当に入っている冷凍のイカ天を口に放り込んで考える。

 まず、人が多そうだと思った。

 暑いし、日焼けするし、メイクも崩れる。


 マイナスのことばかりが浮かぶけれど、プールで過ごした夏も同じようなものだった。海の方が場所の制限がない分、人の多さを気にしなくて済むかもしれない。海は偉大だ。端っこが見えないくらい広いし、走っても怒られない。なによりもプールにいる時みたいに焼けるゴムのような匂いを嗅がなくてすむ。どうもあの匂いは苦手である。


 口の中の塩っ気を飲み込んでお茶で喉を潤わす。


 去年と比べて変わることといえばそんなものと、水着を着たことによる私のぷにったお腹くらいだった。


「海いいね、案に入れとく」

「テストは!?」


 珍しく桜が声を上げて席を立つ。

 ふむ、今日のお弁当は卵焼きか。あとで一個つまもう。


「分かってるってばー。どうせ桜は今回もいい点取るんだろうけど、あたしと叶は違うんだからね」

「それでも純は桜から勉強教えてもらえるんじゃん。ずるい」


 だからか、純はいつも私よりも少しだけ点数がいい。純いわく、桜の山勘は当たるのだと。


「叶ちゃんも一緒に勉強しようよ。一人くらい増えたって平気だよ?」

「そうじゃん、叶いつもすぐ帰るしさあ」

「いいよ、私は。人に教わったくらいでどうにかなるような頭してないし」


 それに二人の時間を奪うのはなんだか申し訳ない気がする。人付き合いは息苦しい。どこまで相手に踏み込んでいいかが分からず、踏み外してばかりいる。人との関わりは苦手だけれど、一人じゃ生きていけないことくらいは理解しているから、この二人のことは大事にしたい。


「じゃあ天野さんに勉強教えてもらうのはどう?」

「えっ」


 桜の口から急に耳を引っ張られるような名前が登場して声が出た。


「ほら、天野さんクラスで一番成績いいから。きっと教え方も上手いんじゃないかな」

「いや、なんで、そんな、別に、仲良くないし」

「そうなの? 体育の時間一緒に抜けてたから話すぐらいの仲だと思ってた」

「それは、怪我したから保健室に連れてってもらっただけ。本当に仲はよくない、全然」


 あからさまな私の否定に桜は首を傾げる。これじゃあ、仲がいいと思われると困るみたいじゃないか。

 実際、私と天野さんは仲良くおしゃべりするような仲じゃないけれど。


「もういいよー、天野さんの話はさ。そんなことより夏休みの計画立てよ」

「そ、そうだよ、計画、夏休み、立てる」

「……勉強もちゃんとしようね」


 桜の肩が下がるのを横目に、天野さんの姿を探す。しかしいつもの後ろ姿は見つけられなかった。

 私達の会話が聞かれてないことには安心したけれど、どうにも気になってしまう。

 今どこで何をしているんだろう、とまで考えて。私はもう限界なんだと実感する。


 なぜだか分からないが、天野さんと話がしたい。


 彼女と話せば、呪いのように付き纏うこの感情がなにか分かるかもしれない。

 そんなことを考えて放課後の予定が埋まる。

 問題は――どうやって彼女を呼び出すか、だった。





 前屈みの姿勢を保ちながら自然と足が浮く。腰骨が安定しないように揺れて机を叩く指が止まらない。そわそわとした焦燥感が今にも身体から飛びだしそうで、食い止めるのになかなかの神経を使った。

 今日に限って担任の話が長い。夏休みだとか、テストだとかタイムリーな話題を持ち出してくる。

 私はそれを右から左に流して時が過ぎるのをただ待った。


「起立」


 日直の声で席を立つ。

 私は挨拶を最後まで聞き終わる前に鞄を持って走り出した。


 後ろのドアから廊下に抜け、他のクラスメイトを追い越していく。誰からも呼び止められることなく、一階の下駄箱にたどり着いた。自分のクラスの下駄箱に駆け寄る。影になるような場所を探して肩を縮める。


 最近ずっと見ていたから分かる。

 帰りのホームルームが終わると、誰よりも早く彼女は教室を出ていく。その理由にある程度の目星をつけた結果、私は今ここにいる。


 数人の後ろ姿を見送って、彼女を見つける。

 一瞬迷った足を地面に叩きつけ、彼女の前へ飛び出した。

 今度は口が迷わないように早口に言葉を紡ぐ。


「天野さん、今ちょっといい?」


 急に出てきた私に驚いて天野さんの目が開く。しかしすぐに眉根を寄せてあからさまに不満な顔を向けてきた。


「急いでるんだけど」

「バイトがあるから?」

「あなた、誰にも言わないって」


 天野さんが分かりやすく語尾を強めてくる。それもそうだ。私達の学校はアルバイト禁止だし、未成年の天野さんが働いている場所なんて学校どころか世間からもタブーだろう。

 彼女の返答に、天野さんとのぞみさんが同一人物だということが確定して話を進める。


「誰にも言ってない。でもここで話してたら誰かに聞かれちゃうかもね」

「……何がしたいわけ」

「ついてきて」


 脅すような言葉になってしまっているのは申し訳ない。でもこうでもしないと彼女はついてきてくれないだろうと思った。


 天野さんを通り越してゆっくりと歩く。後ろに意識を向ければ距離を取ってはいるが、ちゃんと付いてきてくれているようだった。


 帰る生徒の流れに逆らって歩く。

 途中見えてきた家庭科室の中をちらりと覗いたが、部活中の桜は見つけられなかった。まだ教室で純と話しているのだろうか。

 そうであって欲しい。この状況を二人に見られたら説明できる気がしない。


 廊下の端っこまで来たところで外に出る銀色のドアを開けた。旧校舎を繋ぐ通路を渡ってもう一度向かい側のドアに指をかける。力を入れても扉は開かない。戸締まりはしっかり出来ているようだった。


 ポケットから古い型の鍵を取り出してさび付いた鍵穴に差し込む。くるりと手首を捻れば簡単に開いた。


 久しぶりにくる旧校舎は暗く、人気を感じさせない。埃っぽい空気を肺にためながら、二階の空き教室で足を止める。

 中も廊下と同じように湿った匂いが拡散しているが思っていたよりも床は綺麗だった。多分、後輩の誰かが掃除しているんだろう。


「こんなところに連れてきてどういうつもり?」

「私が旧校舎の鍵持ってるの驚かないんだね」


 不機嫌な顔を隠そうともしない天野さんの話を、あえて聞き流す。

 私は鞄を床に置いて寄りかかった。教科書という重りのない机は、体重をかければ簡単に動く。

 天野さんは肩にかけた鞄をおろそうともしなかった。


「……末原さん、生徒会の人でしょ? 鍵くらい借りられるんじゃないの」

「知ってたんだ」


 私が生徒会に属していると知っていることにも驚いたけれど、それよりも名前を覚えられていたことに息を呑む。


「当たり前でしょ、クラスメイトなんだから」


 じゃあ、その当たり前も出来ていないような私はどうすればいいんだろう。


「それより要件があるなら早く言ってくれる?」


 落ち着いてはいるが苛立ちを隠そうともしない天野さんを見て、少しだけ唇の端が上がる。

 何も、無策で彼女の前に立っているわけではない。ここに来るまでに彼女を呼び出す理由は考えてきた。


 わざわざ旧校舎に呼び出してまで、天野さんを怒らせる必要なんてあるのだろうか。

 人の情を敏感に感じ取って反応をすることが昔から苦手だった。自分から相手を怒らせるなんてありえない。


 ほんと性に合わないことをしている、と思う。面倒な人付き合いを自分から進んでやろうなんて。


 別に、天野さんじゃなくてもいい。

 一度も積み上げていない関係なら誰でも良かった。

 誰でもよかった、はずなのに。


「勉強教えてよ」

「は?」


 カーテンのないこの部屋には太陽光がよく入る。うっすらとオレンジ色の光に染まる天野さんは、今まで見てきた表情とは違うものに変わっていた。


「本気で言ってる?」

「本気。もうすぐでテストじゃん。私の成績が良くないことも知ってる?」

「それは、知らないけど」

「だよね。だから勉強教えて欲しい」


 一度は振り払った桜の案を今度は私が口にする。

 正直、勉強なんてどうでもよかった。天野さんに少しだけでも近づけるならなんだって。


「なんで私が」

「天野さんがクラスで一番成績がいいって聞いたから」

「……なにそれ、私にメリットある?」

「メリットはないかもね、でもこれからも誰にもバレずにバイト続けられるんじゃない?」

「脅してるつもり?」

「お願いしてるんだよ」


 何かを考えるように天野さんが目を閉じる。

 私と天野さんの微かな吐息だけが静かな空気に浸透していた。


 沈黙が何を意味するかなんて分からず、ただ彼女の次の言葉を待つ。


 断られたらもう諦める。そう決めていた。私と天野さんの関係はここで終わって、明日からは何も無かったかのように毎日を過ごす。

 恋人との失恋も、いつかは時間が解決する。天野さんに頼らなくても心の隙間はいずれ埋まる。


 そうやって頭の中では割り切っているのに。

 あまりにも長い沈黙に、伝えた言葉を後悔し始めた時だった。


「分かった」

「え?」


 自分で聞いておきながら、驚きを前に出す。


「いいよ、教えてあげる」


 ゆっくりと目を開けた天野さんが一歩だけ私に近づいた。

 寄りかかる机を握る手のひらに、うっすらと汗が滲む。埃っぽい匂いが鼻腔をくすぐって、何かが噎せ返りそうだった。


「いい、の?」

「うん。でも今日は無理、これでも私急いでるから」


 天野さんはもう一歩、さらに一歩とやけにゆっくりと近づいてくる。

 わざと私を焦らすような距離の縮め方をしてくる彼女に私は後退した。軽い机はストッパーになることもなく、音を立ててずれる。


「だから、ほら」


 薄い夕焼けに染まる天野さんの手が私に伸びる。

 埃に混じってシャンプーの甘い香りが首筋を伝うほどに近い。

 私は天野さんとの距離感を未だに測りかねているのに、こうもたやすく向こう側から来られては困惑する。


「末原さん」


 名前を呼ばれるのは二回目だった。

 ぴくりと耳だけが反応して身体が動かない。触れられているわけではないのに、喉元を指で押さえられているような感覚。

 天野さんは動揺を隠すことの出来ない私をじっと見つめて、ため息を零すように口を開く。


「スマホ、貸して」

「え、なんで」

「いいから」


 状況の理解ができないまま、床に置いてあった鞄に手を伸ばした。無心でスマホを探る。奥の方に押し込まれていたそれを、天野さんの手のひらにのせた。

 慣れた手つきで電源を入れる彼女に、私は何も言えない。


「パスワードは?」

「いやそんなの教えられるわけ」

「急いでるって言ったよね」

「……0202」


 赤の他人に自分のスマホの単調なパスワードがばれた。好きな数字を並べただけの、低いセキュリティレベルが露見したことに今更ながら気恥ずかしい。取調室で自供させられた気分だった。

 そんなこと気にも留めていないかのように画面を撫でる天野さんに少しだけ腹が立つ。


「パスワード変えた方がいいんじゃない?」

「誰かさんのせいでたった今その必要性が出てきたよ」

「はい、返す」


 やっと手元に帰ってきたスマホの画面には連絡アプリの背景が映っていた。

 黒い猫のアイコンの下には「天野あまののぞみ」と書かれている。私の連絡先がやっと両手で数えられるようになったことを示していた。


「また連絡するから、今日はこれで」


 早口でまとめた後、天野さんは素早く教室から出て行ってしまった。今はもう彼女と過ごしていた時間なんて最初からなかったくらいに静まりかえっている。


 余韻に浸るように机に腰を落ち着けて天井を仰ぐ。考えることは当然、天野さんのことだった。スマホを握る手に力を込める。


 彼女との目に見える繋がりが出来てしまった。

 それは喜ばしいことなのか今ははっきりとしない。

 こうなることを望んでいた自分がいたのかもしれない。だけど困る。


 天野さんとの関係が石のように積み上がることが怖い。最初に土台を並べたのは自分なのに。

 順調に積み上げれば積み上げるほど、最後には脆く、崩れやすいことが分かっているから。


 結局、今日得られたものと言えば天野さんの連絡先と。


「天野望」


 今更ながらに知る彼女の下の名前くらいのものだった。


 のぞみさん――天野望。


「……普通、同じ名前なんて使わないでしょ」


 誰もいない暗く冷たい中で、あはっと声が漏れる。


 身体の芯から生じるこの微かな高揚感が一体どんなことを意味するのか。

 それが分かるのはきっと、まだまだ先のことだと。そんなことだけが確信めいていた。

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