第五話

「先生、いないじゃん」


 保健室のドアを開けても、いつもの先生が見当たらない。

 たまに授業をサボっては、お世話になる部屋を見渡してため息が出る。


 机の上には一枚のカードが置いてあって、そこにはしばらく戻ってこないことを示していた。


「もう鼻血止まったし体育館戻ろうよ」

「血だらけの顔で言われても説得力ない」

「そんな酷いの?」

「鏡見たら。とりあえず洗い流しなって」


 鼻血が出た時の対処法なんて覚えていない。こんなことなら保険の授業くらい真面目に受けとけばよかった。


「鼻血って消毒液使うっけ?」

「鼻の穴に入れる勇気あるならどうぞ」


 冷たく言い放って天野さんが保健室にある水道をひねる。

 私は勢いよく飛び跳ねる水道に近寄って顔全体を洗う。こうしていると散らばった思考までも冷えた気がして少し冷静になれた。


 私の冗談にも天野さんはしっかり受け答えしてくれる。かなり意外だと思う。

 薄い記憶の中では、彼女が誰かと話している所を見たことがない。せいぜい担任か担当教員くらいで、必要最低限のことしか口を動かさない。


 私はそんな彼女が潜在的に苦手だったし、積極的に話したいとも思わなかった。

 天野さんは名前も顔も朧気なただのクラスメイト。そうなる予定のはずだった。


 だから今、一緒に仲良く話しているなんておかしい。


 天野さんが何を考えているのか、分からない。


「取れた?」

「まあ、さっきよりはマシ」


 マシって、全部取れてないと困るんですけど。


 大丈夫だと言っているのに、天野さんは無理矢理にでも保健室に私を連れって行った。怪我をしたのは私の自業自得だったのに。

 じゃあここまでしてくれる彼女は優しいのかと聞かれても、簡単には首は触れない。本当に優しいなら、こんなぶっきらぼうな態度は納得できない。

 だから私は、手放しで彼女に感謝するのを阻まれる。

 

「天野さんってどっちの人?」

「……なにが?」

「優しいのか、優しくないのか」

「そんなの自分で判断しなよ、意味分かんない質問もやめて顔拭いて」


 そう言って目の前にハンカチが差し出される。ワンポイントだけ星の刺繍が入った白いハンカチは、顔に近づけるとふんわりと柔軟剤の匂いがした。


「……優しいかも?」


 ありがとうと言って受け取る。

 ハンカチなんて持ち歩く主義ではないので本当にありがたい。

 天野さんが持っていたのは、想像通りだけど、貸してくれたのはやっぱり意外だ。


 保健室まで連れてきてくれたことも、ハンカチを貸してくれたのも嬉しいけれど、彼女が優しいとなんだか困る。むしろ突き放して欲しいとまで思ってしまう。


 借りたハンカチを優しく顔に当てると柔軟剤の匂いが強くなった。

 天野さんと話すのは今日が初めてだ。

 だから、ハンカチから香るこれが、彼女の匂いだとはまだ分からない。

 多分これからも知ることはないと思う。

 知らなくていいことだと思う。


「とりあえず横になったら? 血、止まったんでしょ」


 天野さんが保健室のベッドを指さす。

 私はもう大丈夫とは言わなかった。


「勝手に使っていいのかな」

「別にいいでしょ」


 真っ白なシーツの上に座って天野さんを見上げる。


 握った布は昨日、のぞみさんと一緒に座ったものに似ていた。真っ白で荒く、安っぽいシーツ。

 天野さんは気付いているのだろうか。


 昨日の夕方、隣で過ごしていたのは私だって言うことを。


 気付かないはずがない。多分、知らないふりをしているだけだ。

 同じ制服を着ていたのだから私だと分からないはずがない。

 言及されないのも、自白を強要されているみたいで気持ちが悪かった。


 それとも私の勘違いで、天野さんはただの他人のそら似ってやつなのだろうか。


「じゃあ私先生に言ってくるから」

「え」

「なにも言わずに授業抜けてきたし、保健の先生も呼んでこないと」


 そう言って部屋から出て行こうとする天野さんの手を、私は咄嗟に掴んだ。


「え、なに?」


 天野さんは驚いたように私を見下ろす。

 だけど一番驚いているのは私の方だ。


 こんなの、行かせてやればいい。

 天野さんはのぞみさんだと気付いた時点で距離を取るべきだった。

 どうして彼女があそこで働いていたのかは気になったけれど、私には関係ない。


 お互い知らない振りをして、今後一切関わらなければ平和に過ごせる。


 それなのに私は、彼女を引き留めたいと強く思った。


「やだ」


 訳の分からない言葉が私の口から漏れる。


「ここにいて」


 今日初めて話すような相手に言う言葉じゃない。

 厳密に言えば初めてではないけれど、私と天野さんはけして仲良しこよしのお友達ではないのだから。引き留める権利なんて持っていない。


「どういう意味?」

「別にー、心細いだけ」

「あなた、たまに授業サボってここにいるよね?」

「な、なんで知ってるの」

「クラスメイトだから」


 私はクラスメイトの事なんてよく知らない。少なくとも仲良くしてるのはお節介焼きの純と桜くらいのもので、誰が誰と仲いいだとか、誰と誰が恋仲だとかそんな話は一切興味がない。

 たまに純たちが噂してるのを流し聞きしてるくらいだ。


 だから天野さんがどこで働いているだとか、どんな顔をしているかなんて最初は知らなくて良かった。

 興味なんて、なかったのに。


「だから慣れてるでしょ、こういうの」

「待って、私のこと不良扱いしてる?」

「違うの?」

「ちがーう! 今日ちょっとだるいなって日くらいあるでしょ。それにこんなの皆やってるって」

「皆って誰?」

「えっと……純とか、純とか純とか」

「それは皆って言わない」


 天野さんは律儀に言葉を返して目を薄めた。口角を上げて口の隙間から空気が漏れる。


 笑えるんじゃん。

 体育の時間中、天野さんはずっとしかめ面ばかりだったから、彼女の笑顔は初めて見た。

 あのお店で見るものとは明らかに違う。

 小さな泡が割れるような笑い声。


 そんな彼女が美人というよりは、可愛いなと、素直にそう思った。


「なんか、また鼻血でそう」

「絶対やめて」


 友達みたいに天野さんと笑っている。

 それはあり得ないことで、望んでいることでもない。

 ただ、彼女と話していると心の波が落ち着くようで、安心する。


 保健室の窓から風が吹いて、私達を囲うカーテンを揺らした。


 夏風が天野さんの前髪をさらう。もうそこには淡泊な表情なんてなくて、その原因が私にあることに本当に少しだけ、嬉しかった。

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