第四話
「朝から体育とか地獄」
まとわりつくような体育館の湿気と汗が気持ち悪い。
ぱたぱたと体操服の首元を扇いでも、熱気は外側へ逃げてはくれないのが余計に腹立たしかった。
「えーなんで身体動かせるの気持ちいいじゃん」
「純くらいだよそんなこと言うの。前髪崩れるし最悪じゃん」
「私もバスケは苦手だなぁ」
桜がバスケットボールを抱いて同意する。おおう、玉が三つある。
「おーい、整列」
体育教師の声は体育館の中でもよく響く。
適当に二列に並んで腕を前へ伸ばす。
高校生にもなってこんなポーズをとる学校は私の所くらいかもしれない。
「体操が終わったら隣の人とペアを組んで」
深呼吸が終わったのを見計らって、先生が声をかける。
隣の人といわれて、横を見れば目を疑った。
天野さんだ。
昨日私達に苦言を呈した張本人で、私は一度だけ体育でペアを組んだことがある。
「叶、私達とペアになれなくて寂しいんでしょ」
「そんなことない」
どうやら純と桜はペアになったようだった。
そんなことはたいした問題じゃない。この二人は小学生の頃からの幼馴染みらしいし、高校で一緒になった私がわざわざ間に入り込もうとも思わない。
そうしても二人は文句なんて言わないだろうが、私はどうしても気を遣う。なるべく誰からも嫌われないように生きてきた結果が私だった。
問題は私の隣に立つ人のことだ。
横から覗く天野さんの顔は、あまりよく見えない。
桜が美人だと言うからつい、期待してしまう。
「ペアが決まったらパス練習な」
先生が首から下げている笛を鳴らすのを合図に、全体が散らばった。
「天野さん、よろしくね」
昨日初めて覚えた名前を口にして、横を向く。
天野さんはこちらを向くわけでもなく、一回だけ頷いて体育館の端っこまで歩き出した。
天野さんは話し下手なのか愛想がない。もしかしたら嫌われているのかもしれない。
人一倍嫌われることになれていない私は、それでもおどおどと天野さんの後ろ姿について行く。嫌われるようなことはしていないはずだけど。人間どこで地雷を踏むか、分かったもんじゃない。
ストレートに伸びた天野さんの黒髪は涼しげで、歩く度にふわりと舞う。体操服から見える腕は羨ましいほど白く、細い。人ごとながら、バスケでもしたら折れちゃうんじゃないかと心配になるほどだった。
体育館の一番後ろ。埃のたまっていそうな端で、天野さんは足を止める。天野さんはゆっくりとこちらに振り向いて、何も言わない。ただ手を伸ばして、多分ボールのパスを待っている。
そんな彼女に応えようとこちらも腕を伸ばしかけて、動きが途中で止まる。
そのまま手に持っていたボールが私の足の上に落ちた。
ボールはつま先から天野さんの足下まで転がっていく。とても拾いに行こうとは思えなかった。
「なにしてるの」
聞き慣れたはずの声を聞いてから、天野さんがボールを拾う。いかにも不機嫌そうな声と顔で、こんな時なのに美人がもったいないと思ってしまった。
喉が空気を取りこぼしたかのように張り付いて息苦しい。
あり得ないような光景を前にして肩が下がる。全身が重くなったように感じて、今すぐにでも座り込みたい。
「しっかりしてよ」
彼女の声は冷たく、固い。
ワンバウンドしながら返ってきたボールをキャッチして、また落としそうになる。
天野さんは眉間に皺を刻みながら「ふざけてんの?」とまた不満を垂らした。
気のせいであって欲しいと思う。全ては私の勘違いだということにして、早くこの授業を終わらせたい。
それなのに天野さんは腰に手を当てて私を急かそうとしてくる。
「天野さんはさー」
「なに?」
意外と会話はしてくれるらしい。
そんな単純なことに安心して、手元のボールを放った。ボールはアーチを描いて天野さんの手元に収まる。
「お姉さんとかいる?」
「なんで」
天野さんが投げたもので床が揺れる。
周りには誰もいない。他の生徒は体育館の壇上近くで小さく散らばっているだけで、今更ながら離れたところにいるなと気付く。
これは集合の時に面倒くさい。
でも天野さんの声がよく届くからまあいいかとも思う。彼女の声は結構小さいから特に。
あまり私と話したくないのだろうけど、その割には会話のパスはできている。
「気になるから」
素直に教えてくれればいいのに。
ほぼ初対面で、自己紹介もしていないような仲の私にそんなことを聞かれたら誰でも言い淀むかもしれないけど。
最低でもクラスメイトなんだから、一定の距離は確立されているはずでしょ。
なんて自己中心的な気持ちが先行する。
蒸されているような暑さと、早く知りたいという焦燥感から、手に掴むボールを今度は強めに投げた。
「いるけど」
不満そうに私を見てから、天野さんは飄々と受け止める。
少しだけその答えに安心した。
そうやって別の事ばかりに意識が飛んでいるから、次に飛んできたボールに気が付かない。
ばこんと聞き慣れない音と共に、鼻の奥に鈍い痛みを感じる。咄嗟に鼻を押さえると生ぬるい液体が手のひらに付いた。
悶絶するほどの痛みじゃない。ただ生理現象で目の端に涙が溜まる。
視界の隅に映ったバスケットボールは、主人不在のままドリブルを続けていた。
「え、なに大丈夫?」
そんなに強く投げたかな、と慌てた様子で天野さんが駆け寄ってくれる。
「大丈夫、私の不注意」
「血出てるけど」
「すぐ止まるから平気です」
「平気じゃないです。保健室行くよ」
世話が焼ける、と言いながら、天野さんが私の腰を掴む。急に触れられたことにも驚いたが、なによりも彼女の鎖骨に目が泳いだ。
日に焼けた事なんてなさそうな白い肌の上にぽつんと黒い点がある。
それは昨日見た場所と同じ所にあって、偶然ではないことを示していた。
「なんか、さっきから私のこと見過ぎじゃない?」
「そんなことない」
「よそ見ばっかしてるから鼻血だすんじゃん」
「……それはごめん」
見とれていた、とは流石に言えない。
初めて見る天野さんの顔は端正で、きっとクラスでもモテるんだろう。私はそういうのに疎いから実際の所は知らないけれど。
保健室まで私を運んでくれる天野さんの横顔を見て、ため息が出る。
私の記憶をどれだけ誤魔化そうと、答えは一つしか浮かばない。
綺麗に肩下まで伸びた黒髪。
聞き慣れたはずの耳に残る声。
誰に見せても恥ずかしくないその端正な顔。
――首筋に浮かぶほくろ。
どこをとってもやっぱり天野さんは、のぞみさんにそっくりだった。
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