第三話
いつもの帰り道を振り返ってから、少しだけ迷う。
このまま家に帰った方がいいに決まっている。向かおうとしている場所は高校生にとって似つかわしい場所ではないし、ましてや、制服で行くなんてとんでもない。
いけないことをしている自覚はあった。
でも、気持ちを優先するならば今すぐにでも会いに行きたいと思う。
踵を返して、両親には絶対に教えられない寄り道をする。
本当に会いに行ってもいいものなのだろうか。迷惑だと思われていないだろうか。
こうやって、すぐに心配して不安がるから。
昔の恋人に「重い」なんて愛想を尽かされたんだろう。
振られた理由はあまり納得していない。せめて私のどこが重いかを聞いておくべきだった。
スクールバッグに眠っているスマホを掴む。
電源を入れても、あの人からの連絡は当たり前のようにない。
連絡、しようと決心が付けばできると思う。多分だけどこの連絡先はブロックされていない。あの人はそんな人ではない。
もう別れた相手のことをまだ性懲りもなく信じているなんて。
トークの一番上に固定されている恋人の名前を指でなぞっては、泣きそうになる。
別に期待なんてしていないのに。勝手に傷つくなんて馬鹿みたいじゃん。
画面から消すことの出来ない傷跡は、未だ深い。自分から連絡なんて無理な話だ。
所詮、私とあの人を結んでいたのはこのスマホ1つだけだった。一方的に切る事のできる繋がりを信頼している私が、心底馬鹿だったんだと思う。
一度足を止めてスマホを鞄にしまう。
もう同じ制服を着た生徒は見かけない。
まだ十八時にもなっていないのに、この場所は空気が淀んでいる。
自分の肺から出る酸素が同じ空気になるのが嫌で、少しだけ息を止めた。
制服を着た私を見る通行人の目が居心地悪い。
肌の表面がザラっとして、その気持ち悪さに足が進んだ。
なんでこんな所に来ちゃったんだ、なんて今更後悔しかけていたら、目的だった場所が見えてくる。
多分、もう後戻りはしない。出来るだろうけど、私の足は歩いてくれないだろう。
焦燥感に駆られて、昨日と同じ入口を躓きながらくぐる。
「いらっしゃいませ」
昨日とは違った店員さんに迎えられる。
店員さんは、ウェイターのような白と黒を基調とした服を着ていた。そういうコンセプトなのだろう。
「あれ」
「えっ」
上から下までじろじろと見られ、店員さんは首を傾げる。
「学生さん?」
舌の裏がびりびりとする。
来ることが分かっていた質問だった。
だから、ちゃんと解答も用意してきたはずだったのに。
「き、昨日お会いした方に会いに来たんですが、あれ、えと名前」
──知らない。
彼女の情報を、なにも知らない。
なにか特徴を挙げていけばいいのだろうけど、昨日の霞んだ視界の中では彼女がただただ美人だということしか分からない。
散々、あの人の隣で泣いていたのに。
「あー! 昨日の泣き虫っ子ね!」
そう言って私に指を差した店員さんはどこかに電話をかけていた。
聞き逃すことの出来ない単語に耳がぴくりと反応する。
泣き虫っ子って、私のことか。
目の前の店員さんは面白いものを見るように笑っている。
失礼だとも思ったが、あまり不快な気分にはならなかった。
「はい、用意出来たみたいだから奥の廊下に進んでいいよ」
「あ、ありがとうございます。えっと、入れる、んですよね?」
「んー? ああ、うん。君は大丈夫っぽい」
また可笑しそうに店員さんが笑う。「珍しいこともあるもんだ」と、一人言を呟いて机の上の書類に目を落とした。
詳しいことは中で聞けとのことらしい。
急に緊張してきた手のひらの汗を制服に擦りつける。
ぎこちない歩き方で、それでも昨日と同じ扉の前へと行き着いた。コンコンと、2回ノックして自然と背伸びする。
どんな顔をして中に入ろう。
まずは昨日の夜のことを謝ろう。
その後はお礼を言って、そして。
「どうぞ」
中から寝起きのような声が聞こえた。
慌ててドアノブを捻れば、昨日と同じように彼女はベッドの上で座っている。
「昨日ぶりですね」
少し髪の乱れた彼女は多分寝ていたんだと思う。
昨日ぶりに見た彼女の姿に、どこか落ち着きを取り戻した。
「き、昨日はすみませんでした」
深々と腰を曲げる。
床と目が合って、彼女が今どんな顔をしているのかは分からない。雰囲気で感じられるほど親しくもない。ただ、目を見て謝れるほど勇気が出なかった。
「頭をあげてください、別に怒っていませんから」
頭上から降りる声は優しく、温かい。
耳に残るような声はどこか懐かしいような気がした。
「また会いに来てくださいって言ったのは私の方ですし」
「……今日はお礼を言いに来たんです」
「じゃあもっと近くでお話しましょうか」
そう言ってまた隣に誘われる。
膝上までしかない短いワンピース。そこから覗く太ももにはわざとらしく目を逸らして、腰を下ろした。
この人はずっと薄着なのだろうか。
当たり前か。私が来ているのは、そういうお店なのだから。
「体調はもう大丈夫ですか?」
「はい、少し落ち着きました。本当に昨日はありがとうございます」
「いえ、私は大したことしてませんよ」
「それでも嬉しかったんです」
あの時に、誰かがそばにいてくれた事が本当に嬉しかった。それが見も知らぬ女の人だったとしても。
勝手に押しかけて、勝手に救われた。
きっと彼女からしたらいい迷惑だろうに。
文句も言わず、今も隣にいてくれている。
少しだけ顔を上げて、隣を向いた。
「名前、聞いてもいいですか」
聞いていいものか、分からなかった。
聞いてしまえば縁が生まれる気がして。私はきっと繋がりを忘れるまでに時間がかかる。
それでも彼女の名前を知りたいと、そう思った。
「のぞみです」
胸の真ん中あたりにすとんと何かが落ちるような感覚。
名字を言わないことに、その名は源氏名だと気づくのに少しだけ時間かかる。
それでも彼女の呼び名を覚えて、内側から沸く温みに染みていると、のぞみさんが私の右手に触れた。
「あなたも教えてください」
人の温かさが右手から伝わってくる。
触れている手首には昨日と変わらず銀色のブレスレットがあった。
一瞬、のぞみさんが何を言っているのか分からないほど動揺して、言い返せない。
右手ばかりに意識が募って、汗がベッドのシーツに滲む。
「名前知りたいです」
私がいることを確かめでもするように手の甲を指先から撫でられる。指の流れに沿うように背中がぞくぞくとした。
こんなのただ手を撫でられているだけだ。
お世辞にも滑らかとは言えない荒いシーツを力強く握って答える。
「
動揺なんてしてないですよ、なんて顔をして平静を装って。
「
余計なことまで口走る。
叱ってくれても良かった。
学生は来ちゃダメだよって、叱責されればきっと私はここに来なくなる。
来てはダメだという理由が生まれる。
ばればれの学生服で何を言っているんだという話だが。
受け入れて欲しいという気持ちと、半々くらいにはそんな感情もあった。
「のぞみ、ここで働いています。よろしくね。叶さん」
人差し指と中指の間に、のぞみさんの細く華奢な指が入り込む。汗ばむ私の右手はきっと湿っている。それがのぞみさんに伝わるのが気恥しい。
それに、身体の内側に触れられてるみたいでくすぐったかった。
「よろしくお願いします」
結局、叱責も否定もされなかった。
それが良かったのか悪かったのかはこの先の私しか分からない。
のぞみさんはよろしくと私の右手を撫でながら微笑むけれど、本当のところはどう思ってるかなんて、その表情からは何も伝わらなかった。
「あ、そうだ」
誤魔化すように前のめりになりながら声を出す。
右手を咄嗟に引っ込めて少しだけ、のぞみさんから距離をとった。
「お金払います、昨日と今日の分」
財布から一万円札を二枚抜き取って、のぞみさんの前につき出す。
けして安い金額ではないけど、対価だとは理解している。
「お金って」
「相場を知らなくて、足らなかったら言ってください」
「そういう問題ではなくて。叶さん、私にお金を払う意味、分かってますか?」
「お金を払う意味?」
のぞみさんにお金を渡すのは対価だと思っている。
彼女は仕事でここにいるんだし、私は客として足を運んだ。友達だったらこんな所では会わないだろう。
友達だったら、私はこんなみっともない姿を見せることもない。
「私にお金を払うということは」
のぞみさんが私たちの距離を埋めるように寄ってくる。肌と肌が密着してほんのりと体温が上がってしまう。
純とくっついた時にはベタついて、あんなに気持ちが悪かったのに。今は不思議と嫌ではなかった。
隣に座るのぞみさんが、私の頬に手を添える。
そのまま鎖骨部分に手を下ろして、指先でひと回転撫でられた。
「私の時間を──身体を買うということですよ」
身体を買う。
普段平和に生きていてたら聞くことのない単語。
のぞみさんは私の鎖骨を指先でなぞるのを止めない。
撫でられているのは鎖骨なのに、全身が燃えるように熱かった。
「か、身体を買うってそんなつもりないです! 私はのぞみさんと一緒に話せたらそれで」
「別にそれでも構いませんよ。でもお金を払うということは、責任とそれなりの覚悟を持ってもらわないと」
そういうものだと、のぞみさんははっきりと言う。
でも彼女はモノではない。人間を買うだなんて、考えたこともなかった。
「だからそれをしまってください。それに高校生からお金を貰ってしまったら私が捕まってしまいます」
困ったように笑う彼女を見て、諦めがつく。
私が誠意と思って渡すこれはきっと彼女にとって迷惑でしかない。
「あ、それとも身体の関係をお望みでしたか?」
「ち、違います! お話しに来ました! 変なことは一切考えておりません!」
「なーんだ」
ざんねん、とのぞみさんは口にする。
そのまま輪郭をなぞるように鎖骨を撫でると、私のブラウスに手をかけた。一番上のボタンを外されて、効きすぎているクーラーの冷気が寒い。
「私と会っていることは誰にも言わないでくださいね」
「……言わないですよ」
言えないんです。誰にも。
私は撫でられるばかりで何もしない。
彼女と身体の関係を持とうとも思わないし、それを誰かに言うつもりもない。
臆病な私を、多分のぞみさんは面白がっている。
そんなことが分かるくらいには彼女の顔に見蕩れていた。
のぞみさんは意外とメイクが薄い。でも美人だとは分かる。
長く黒い髪は巻いてあり、地味だとは感じさせない。全体的にナチュラルではあるが、元の彼女の出来がよすぎる。
開いた胸元、鎖骨の少し下に小さなホクロを見つけた。
きっと、見つけたのは私だけじゃない。
色んな人に見られてきたはずだ。
彼女の首元に手を伸ばしかけて、止める。
伸ばせば触れられる距離だけれど、私はそんな事しない。
何人もいる客の一人になんてなりたくない。
「そろそろ帰らないと」
時計は見ていないから今が何時かは分からない。
だけど、お礼も言ったしちゃんと謝れた。
渡さなきゃと思ってきたお金ももう意味がない。
「もう行っちゃうんですか?」
「すみません、親が心配するといけないんで」
体感はのぞみさんと会ってから一時間くらいか。
多分、それくらいがちょうどいい。
彼女に酔わないくらいの時間でいい。
「今度来る時は受付に顔を出さなくて大丈夫ですから。直接この部屋に来てください」
「ありがとうございます」
「たいていはここの部屋にいると思いますから」
行きますと約束はしないまま、ブラウスのボタンを全てとめてスクールバッグを持った。
来た時とは違う緊張が走る。
「叶さん」
優しい声で名前を呼ばれて、のぞみさんの顔を見る。
「おやすみなさい」
柔和に笑う彼女の顔は、やっぱり綺麗だと思った。
この時間でも夏の空は明るく、友達と遊ぶだけならまだ帰ったりなんかしない。
不健全な行為は私に罪悪感を与える。走ってもいないのに音のする心臓は、罪悪感からくるものなのだろうか。
暑い。
今はきちんと、とめてあるブラウスのボタンに触れて鎖骨へと指を伸ばす。
消えないような痕はない。ただのぞみさんに触れられた感触だけが残っていた。
私に残っているのは、それだけだった。
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