第二話

 ただでさえ月曜日の朝は憂鬱だというのに、今日は特についていない。

 前髪の跳ね具合がすごい。何か電波でも発しているかのように飛び跳ねている。

 予想はしていたが瞼の腫れも酷い。目の下は塗りつぶしたかのような隈で、一瞬痣かと疑ってしまうほどだった。

 寝起き一番の顔を見せた妹は目を逸らすだけで何も言ってくれない。せめて笑ってくれよ、妹よ。


 ぎりぎりまで眠っていたせいで、いつものモーニングルーティンも達成できず。前髪を直すことしかできなかった。顔の半分を埋めるマスクは最後の抵抗。


 玄関前の靴を蹴散らしながら玄関を開ければ、夏の重さに嫌気がさす。

 纏うような熱気を振り切るように外に出て、一呼吸。

 未だ喉奥につっかえている苦味を飲み込んだ。苦味は胸元で止まったまま消化してくれない。


 昨夜の失恋は私にしがみつくように離れてはくれない。



 重たい足取りでたどり着いた教室。あくび混じりに教室を見渡せば、いつもの見知った顔がいたのでのそのそと近寄った。


「そこ私の席なんですがねぇ」

「あ、おはよって……ぶっす!」

「流石に酷すぎるだろ!」


 開口一番によくもまあ、ここまで人を傷つけられるもんだ。しかもがちのリアクション。

 傷ついちゃうなあ。


「な、なにどうしたの。なんか悩み事があるならすみちゃんが聞いちゃうよん?」


 目の前で吹き出しそうになっている失礼なこいつは、吉川よしかわすみ

 高校入学と共に仲良くなった、数少ない友達だ。


「相談したくねー」


 私の席を占拠する純のお尻を押して半分ずつ座る。お互い触れた肌はじめっとしていて気持ちが悪い。


さくらは?」

「んにゃ、寝坊じゃん?」

「あんたらいっつも一緒にいるのに珍しい」

「おっと、嫉妬ですかい。可愛いですわね」

「違うやい」


 なんと生産性の無い会話だろうか。

 ただ今は、ぬるま湯に浸かるようなこの空気に救われる。

 純もわざと茶化しているような気がする。気がするだけかもしれないけど。


「二人ともおはよ~」

「おー、桜おはよう。今日は随分とお寝坊さんだな」

「うん、昨日は好きなテレビが遅くまでやってて……」


 そう言うと桜は笑いながら固まった。

 私に向いていた視線をそのままゆっくりと逸らす。 


「な、なんのテレビだったかな、えっと」

「気を遣われる方が傷つくんですけど!?」


 私の顔は好きなテレビ番組の名前を忘れるほど強烈なのだろうか。


「ご、ごめんね。一瞬誰か分かんなかった……」

「純の反応より酷い」


 一度席まで鞄を置きに行った桜が早足で戻ってくる。

 また新しいキーホルダーが増えていた。じゃらじゃらと音の鳴るそれは、鞄の中身よりも重そうに見える。無駄に肩がこりそうだ、その胸元に抱えるものも含めて。


「それで本当にそうしたのさ。今度は茶化さないから教えてよ」

「最初からそうしてくれ」

「泣ける映画でも見たの?」


 んーむ。どう説明したらいいものか。

 この二人に維持やプライドを見せる必要が無いことは十分、分かっているつもりだ。

 去年から同じ教室で過ごしてきた二人である。それなりに信頼もしているし、なによりもここで誤魔化せる気がしない。

 ただ、話せることが少ないだけで。

 ただ、一言。たった一言で昨日の全てが片付くことに嫌気がさす。


「失恋した」


「え」

「えっ」


 二人の声が微妙に重なった。

 躓くような声を聞き取って、無意識に唇の端が吊り上がる。

 やばい、と思う頃にはもう手遅れだった。


「「ええええええええ!!!!!」」


  甲高い音が容赦なく耳の奥を貫いてくる。背後にはクラス中の視線を集めているのが意識せずとも分かった。

 私は目立つような人間ではけして無いので、ひたすらに恥ずかしい。

 途端、この二人に伝えたことを後悔する。せめて場所を選ぶべきだった。


「ちょ、うるさ」

「え、なになに、あのネットで知り合ったっていう彼氏!?」

「純、ネットじゃなくてSNSだよ」


 興奮したように喋る純は掴みかかって来るような勢いだった。その隣で桜がどうでもいい訂正をする。


 つい遠くを見てしまう。


 ああ、言わなきゃ良かった。先ほどまで抱いていた信頼感はどこに行ったんだ。

 ゆっくりと一つだけ小さな息を吐いて、五秒。


「そういうことだから、自分の席に戻った戻った」

「まだ詳しく聞けて無いんですけどー」

「私は叱られたくないので」

「何が?」


 あははと乾いた笑い声が口から漏れる。私は関係ないですよ、なんて顔で黒板前で立つ人に微笑んだ。


「吉川ー、大山おおやまー廊下に立ちたいかー?」


 担任の声がクラス中に響いたのをきっかけに、二人はそそくさと席に戻っていく。


「昼休みもっかい聞くから! 絶対教えてよ!」


 ふーん、やなもんだ。

 ハエをうっとうしがるように片手を振る。

 純は嬉しそうに手を振り返してきた。そういう意味じゃねえ。


「うるさ……」


 そんな風にふざけ合っていたら左前から簡素な苦言が飛んできた。誰かに聞かせる訳ではない、小さな声だった。

 ビクッと身体が自然に揺れる。心臓を直接叩かれたように身体が動かない。

 それでも声の発生源を探すように視線がさまよう。

 今はもう誰からの視線も感じない。


 私は前から二番目の位置に座っているから、必然的に文句の持ち主は一人に限られる。  ――誰だっけ。一度も話したことが無い子だ。確か体育の最初の授業でペアになったことがあるような、ないような。それほど印象に無い。いつもたいてい一人でいるし、誰かと話している所なんて見たことがない。

 ただ、彼女の人を寄せ付けない雰囲気に、私みたいなやつは絶対に声をかけることはなかった。


 心の中でごめんなさいと謝って前を向く。

 失恋後、一発目の授業。


 誰かを気にしていられる余裕なんて、私にはないのだから。



「ねえ、あの子の名前分かる?」

「あの子って……天野さんのこと?」


 四限までの授業を終え、今は昼休みの半ば。あの後、純と桜が根掘り葉掘り聞いてこようとするのをいなすのに、かなり体力を使ったように思う。


 本当に疲れた。昨日の夜からの倦怠感は、昼休みになっても抜け切らない。瞼の腫れは少し引いたみたいだけれど、まだ視界は狭い気がする。

 狭い視界と思考の中で、何度か左前の子を捉えた。どうしてか気になるその子の名前を、純や桜なら知っているのではないかと思ったのだ。

 今度は彼女に聞かれないように、小声で、細心の注意を払って。


「分かるも何も、なに、クラスメイトの名前も知らなかったの?」

「お恥ずかしい限りですが」

「天野さんってかっこいいよね」


 弁当内のブロッコリーをつつきながら桜が言う。

 今日の桜の弁当は冷食じゃない、手でこねてあるハンバーグが入っていた。桜は調理部に所属しており、毎朝手作りのお弁当を持ってくる。

 女子力の高い女なのだ、桜は。


「かっこいい?」


そうなのだろうか。未だ真正面から見たことのない天野さんの顔は朧気で、頭の中で上手くピースが噛み合うのは難しい。やっぱりパズルは、隣にお手本を置いておかないと。


 でもわざわざ顔を見に行くってのもなあ。


 それに天野さんの言葉がずっと胸に引っかかる。まあつまり、私は天野さんにびびっちゃってるということ。


「うん、いつも堂々としてかっこいいよね。あととても美人」

「別に、そんなことないでしょ」


 ぴしゃりと言い放ったのは純だ。

 不満そうに眉毛を寄せて下を向いていた。苛立っているのか、右手に握るお箸でご飯粒を潰している。

 何がそんなに気にくわないのか。


「純、行儀悪いよ」

「分かってるよ」


 もうごちそうさまとでも言うように、純は食べていた弁当の蓋を閉じる。

 なぜか少しだけ空気が悪い気がする。

 今の私の老体にこの空気はきつい。


「純って天野さんと仲悪いの?」

「え!? いや別に全然? そりゃあまり話はしないけど、それだけの人を嫌ったりしないよ」


 何言ってんだ、みたいな視線を投げられても困る。

 助けを求めるように右に向けば、桜はおかしそうに笑っていた。

 花が咲くように小さく笑う桜は、見ていて癒やされる。だけど一刻も早く助けて欲しいんですけど。


「それで、失恋したって話はいつ聞かせてくれるの?」

「その話はしないってばー!」


 けらけらと私を囲って二人が笑っている間も、天野さんは黙々と昼食を取っていた。

 後ろ姿しか見えないのに、菓子パンを食べているらしい天野さんの背中は、淡泊で何もかもがつまらなさそうだった。


 桜はそんな彼女が堂々としていて、かっこいいと言っていた。それでも私は顔もよく知らない天野さんを寂しそうだと思ってしまう。 

 そんなことを考えてしまう私は、きっと酷いやつなのだろう。



 長かった学校での一日も終わり、放課後がやってくる。

 天野さんは、HR終了のチャイムと同時に帰って行った。

 何をそんなに急いでいるのだろう。相変わらず背中しか見せてくれない彼女に少し興味を持ち始めた。明日はしっかりそのご尊顔を拝見させて頂こう。 


 ちなみに純と桜の二人は「失恋パーティーだ!」と私をカラオケに誘ってきたが丁重に断らせて頂いた。

 昨日の今日でパーティーという気分にはどうしてもなれない。

 今でさえ、気を抜くと思い出して泣きそうになるのだ。二人の陽気を浴びて、どうにか正常を保っていられるだけで。

 ほとんど気分は最悪だ。


 だから、私はもう一度行ってみようと思う。

 だって言っていたから。「辛くなったらまた会いに来てください」って。

 ただの社交辞令かもしれない、あのお姉さんに会いに行く。


 ああ、こうやって人は風俗にはまるのだろうか。

 自分の苦しみを、辛さを、限界を。

 赤の他人と過ごすことによって消化しようとする。


 友達にも、家族にも言えない悩みを、名前も知らないお姉さんにぶつけようとしている。無責任だとは思う。だけどぶつけるだけで、分け与えようとはしていない。この苦しみは私だけが、私にしか抱えられないのだろうから。


 それでもやっぱり、私がしようとしていることは、不健全なことなのかもしれなかった。


 スクールバッグの重みで、紐が肩に食い込むのを堪えながら早足で教室を出る。

 錆びた教室のドアを開ければ、煩わしい蝉の鳴き声に全身が包まれた。


 露出の増えた夏の始まり。

 

 私は、レズ風俗に会いに行く。

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