失恋中、レズ風俗に出会った話。

第一話

 今日の天気は晴天だとテレビの奥にいるお姉さんは笑っていた。

 七月上旬、衣替えが済んで肌の露出が増える季節。学校の制服も長袖の中間服から半袖へと移行する生徒が増えたように思う。


「暑い日が続きますが水分補給をこまめに、体調管理には気を付けてくださいね」


 なんて、今後何度も聞くことになるであろうフレーズを聞き流して窓の外に目をやった。

 空は高く、青く澄んでいてなるほど、こりゃ確かに晴天だ。分厚い雲の厚さとこれからの暑さに辟易する。


 いつからクーラーの恵みにあやかろうか。早すぎると母親の逆鱗に触れるしなあ、なんて考えていたら、テレビのほうは占いのコーナーに移っていた。


「おひつじ座のあなた! 今日は忘れられない一日になるでしょう」


 かなりアバウトな占いだと思う。

 ラッキーアイテムは銀のブレスレットらしい。


 別に、占いなんて信じるような性格は最初からしていない。こんなお昼に放送している番組のものなんて当てにならないとも思う。


 でもこういうものを一度見てしまったら気になるのも事実だ。

 何も無い平坦な日々に、少しくらいの刺激はあってもいい。


 銀のブレスレットなんて持ってたっけ、となんとなく両腕を上へ伸ばしながら息を漏らす。組んだ指から関節が鳴る音を聞きながら立ち上がろうとした時だった。


「あんた宿題は終わらせたのー? だらけてる暇があるなら洗濯手伝ってよ」

「今からやりますー」

「どっちを」

「宿題」


 お母さんのため息を無視して、リモコンを画面に向ける。向けた先には見たことのあるマスコットキャラクターがこちらに手を振っていた。振り返すこともなく電源を切ってやっと立ち上がる。

 時計を見れば午後三時。


 一眠りでもすっかぁと、お母さんとの約束も早速忘れ、二階にある自分の部屋へと足を伸ばした。

 階段を上る途中、ポケットの中のスマホを取り出す。連絡ツールである緑色のアイコンをタップすれど、誰からも連絡はなかった。


 それもそうだ。半年前に新しく買って貰ったばかりのスマホには、片手で数えられるくらいの連絡先しか持っていない。


 何気なしに一番上で固定されている恋人とのトークでも開いている内に自分の部屋に着いてしまった。


「ん?」


 ドアノブを捻る手首の動きが止まる。誰からも通知は来ていないと思っていた。


 しかし、確かに目に飛び込む「メッセージの送信を取り消しました」の文字。三つくらい連続で同じものが送られてきていた。


「なんだろう。間違えちゃったのかな」


 後ろ手でドアを閉め、ベッドの上に倒れ込む。

 一年前から付き合っている恋人は今頃バイトの時間のはずだ。そういえば最近はあまり会えていない気がする。

 どうしたの?と一言メッセージを入れて画面を閉じた。


 真っ暗な画面にはすっぴん顔の自分が反射する。ふむ、休日でもない限り許されない顔。


「ま、いっか」


 机の上に置いてある明日提出の宿題には目を背け、夢の世界へ行く準備をする。

 寝て起きた頃には返信が来ているだろう。ぼけっとした思考と、まだ心地よい気候。


 あー、なんて幸せな休日なんでしょう。


 なんて、ハッピー脳の私は何も疑うことなく、順調に地球は回っているなんて馬鹿みたいなことを考えながら夢の中へと落ちていくのだった。



 スマホの通知で目が覚めた。

 気がつけば辺りはすっかり真っ暗で、スマホの光が目にくる。数十秒くらい目を細めていると、やっと暗闇に順応するのに慣れてきた。

 時刻は十九時を超えたことを示している。


 流石に寝過ぎた。


 寝起きの顔では反応しないフェイスIDを諦めて、パスワード入力に切り替えた。

 液晶画面に触れる指先が麻痺している。

 やっとの事で通知を確認して、内容を理解して。


「え」


 その時、心臓にヒビが入ったかと思った。

 脳が割れたとも言える。恋人の、癒えることない言葉に。


『別れて欲しい』


 心臓の割れ目からどくどくと血が湧き出るのを感じる。針を刺されたかのような鋭い痛みが全身に走って。骨のつなぎ目がばらばらに壊れたかと思った。


 靄がかかっていたはずの目に火花が散って、もう何も捉えられなくなる。

 心臓の動きに連動するかのように呼吸は荒れ、背中の冷や汗に身震いが止まらない。


 なん、で?


 未だ震える指先でトークを開く。

 通知数は先ほどのメッセージ一つだけだった。


 こんな時、どうすればいいんだっけ。

 どうすれば事態は好転する?


「とりあえず、電話……」


 汗か涙かも分からない不快な液体が目に染みる。おぼつかない動きで受話器のマークに触れた。


 何コール目だろうか。以上に長く感じた電子音にもしっかり終わりが来た。


「もしも」

「もしもし!?」


 明らかに声がうわずっている。


「わ、別れるって」

「うん」


 ごめんね。と、その一言だけで本気なのだと分かった。

 伊達にただ一年、一緒に過ごして来たわけではない。相手のテンションの低さ、声だけで分かるその雰囲気に、私の全てを否定されている気持ちになった。


「なんで、別れたいの」


 悲鳴にもならないかすれた声。きっともう、届くこともない。


「……重くて。ごめんね」


 一方的に会話が終わる。

 画面には三分も満たない通話時間と、今後増えることのないトークが目に映る。少し唖然として、次に怒りが追いついた。


 手に持っていたスマホを枕に叩き投げる。


 何も言えなかったし、何も言ってくれなかった。


 もっとこう、何かあるんじゃないのか。恋人と別れる時には。

 お互いの本心を叫んで、時には受け入れたり、終わりを選んだり。

 私には選択権も与えてくれないのか。


「重いって、なんだよう……」


 自分の声がえらく遠いところから聞こえているように感じる。

 耳鳴りが止まらない。焦点が合わない。


「……重いってなんだよー!」


 もうその後はよく覚えていない。お母さんから晩ご飯の準備ができたと声をかけられた気もするが、自分の泣きじゃくる声で聞こえなかった。


 耳が痛い。目の奥が痛い。鼻の下が痛い。頭が痛い。


 胸が痛い。


 いつまでベッドの上でそうしていたのだろうか。

 真っ暗な部屋の中で私はゆっくりと立ち上がった。

 もうどうでもいい。そんな気分に浸っているうちに、気付けば家から飛び出していた。

 こんな時にでも空には星空が輝いている。晴天なんていらない。

 むしろ今は雨でも降って、とことん地獄を見せて欲しい。


 星空の明るい下を全力で走る。周りなんて気にせず、ひたすら走った。

 前髪が汗で張り付いて、夜道を走る私の姿は滑稽に見えただろう。


 ひゅーひゅーと、普段なら鳴ってはいけないような音が喉から漏れ出したのをきっかけに足を止める。


「なんだよ、なんだよう……」


 膝の少し上を鈍い音で殴りつける。

 どこかで転んだのだろうか。膝は赤黒く滲んでおり、手のひらもすりむけていた。


 痛くはない。だけど気持ちが悪い。

 息を切らしながら考えるのはもちろん初めてできた恋人のことだった。

 今更ながら随分とぞっこんしていたことに気が付く。ああ、好きだったんだなあ、と考えて答えの出ない空しさにただ身が震えた。


「てか、ここどこ……」


 少しずつ冷静になってきた頭で周りを確認する。

 知らない場所だった。

 ただ、今の私がいては行けない場所だと言うことは分かる。


 さっきまでは確かにあったはずの星光りは消え、代わりに目頭が痛くなるほどの光量。

 耳に残るような不快なBGMが流れるこの場所は所謂、ホテル街だった。


 ホストや風俗、ラブホテル。声をかけてくるおっさんはナンパのつもりなのだろうか。

 無視して歩いていると、無駄に明るい小さな店が視界の端に止まる。

 帰らなきゃという気持ちと、もうどうにでもなってしまえなんて、自暴自棄の渦は止まらない。


「もう気にする人もいないし、いいよね」


 何でも良かった。他のことに没頭できるなら。自分の身体なんてもう、どうでもよかった。


 とにかく忘れたい。誰かに身を委ねたい。


 そんな単純な考えでお店に入れば女性店員に声をかけられる。


「いらっしゃいま……申し訳ありませんお客様」


 目が合った店員は困惑した様子だった。


「失礼ですが身分証はお持ちでしょうか」

「えっ……」


 急に家から飛び出してきたものだから何も持ち合わせていない。というか、私はまだ未成年だった。


「すみませんが当店は未成年者様のご利用をお断りしておりまして」

「そ、そうですよね! すみません、出直してきます!」


 出直すって、二度と戻ってくることはないのに。


 私が馬鹿だった。あまりにも考えなしの行動過ぎる。


 動揺を隠しきれず、慌てて踵を返す。

 錆びた鉄のような関節を無理矢理動かすと背後から「すみません」と、また声がかかった。


 正直、もう放っておいて欲しい。


 ぎこちない顔で振り向くと、先ほどの女性店員の隣には別の薄着のお姉さんが立っていた。


「どうぞ、こちらへ」

「え?」


 そう言って薄着のお姉さんはお店の奥に引っ込んでいく。

 目線を横にずらすと申し訳なさそうな顔の店員にも奥へと促された。


「え? え?」


 まだ何もまとまらない頭で、でも足は動く。

 なんで私はここにいるんだっけ。

 なぜ私は薄着のお姉さんの後ろを歩いているんだ?


 お姉さんは白い扉の前で不意に足を止める。


「どうぞ、中へ」


 私は逆らう勇気もなく一歩踏み出す。

 初めて入ったホテルのような一室は思っていたよりも普通だった。

 地味なビジネスホテルに似ている。


「では、少々お待ちください」


 そう言って薄着のお姉さんは扉を閉める。

 一人になってやっと事の重大さに気付いた。


 私は紛れもなく未成年だ。

 高校二年生四月生まれ。十七歳になったばかりだった。

さっきのお姉さんや店員さんも気付いているはずだ。


「も、もしかして警察呼ばれる?」


 あいにくスマホも家に置いてきてしまい、今が何時かも分からない。未成年の補導時間って何時からだっけ。


 まずい。警察はまずい。

 だってなんて言い訳すればいい?


『恋人に振られたから自暴自棄になって風俗を利用しようとしました』


 これに情状酌量の余地はあるのだろうか。

 だいたい未成年の風俗利用ってなんかの法律に引っかかるのか。

 スマホで調べ――だから家に置いてきたんだってば。


 臆病な不安に煽られながらいよいよ部屋から逃げ出すことも考え始めたころだった。


「お待たせしました」


 落ち着いた声と共に先ほどの女性が部屋に入ってきた。


 緊張で喉が渇く。

 どうしたらいい。異常とも言えるこの状況を打破するにはどうしたらいい。

 とりあえず、謝るしかない!


「す、すみま」

「大丈夫ですか?」

「へ?」

「顔が酷いので」


 顔が酷い。その言葉により顔が歪む。


「申し訳ありません。言い間違えました、泣いていらっしゃるようなので」


 どんな言い間違えだ。ただ本当に悪気はないようで、垂れた眉のお姉さんは心配そうに私を覗き込む。

 そんなに見ないで欲しい。今の私はきっと瞼は腫れ、鼻は赤く、確かに酷い顔をしているのだろうから。


「そんな、警戒しないでください」


 こちらに座ってください、とお姉さんはベッドの上に行儀良くお尻を乗せる。

 どうしたらいいか分からず、私も少し距離を開けて座った。


「遠慮しなくていいですから」


 お姉さんは肩まで伸びた黒髪をわざと見せつけるように耳にかける。たったそれだけなのに色っぽかった。

 年は二十代だろうか、確かに若いが年上の包容力のようなものを感じる。


 その包容力に当てられたからだろうか。けして人に話そうとも考えていなかった言葉が口から漏れた。


「一年付き合っていた恋人から……振られてしまって」


 風俗を利用しました。とまでは流石に言えない。


「そうだったんですね……それは」


 ──お辛いでしょう。


 なんであなたがそんな顔をするのだ。

 私は同情が欲しくて、こんな所に来たわけではない。


 それなのに――それなのに、どうして私の心は温かいのだろう。

 その温かさに身が染みて、ついには目の奥にまで到達する。


 また、泣いてしまいそうだ。


 今日初めて会った人の前で。恥ずかしげもなく、子供のように。


「泣いてもいいんですよ」


 お姉さんは私をあやすように背中を撫でてくれた。撫でてくれる手首には銀色のブレスレットが引っかかっているのが見える。

 その優しさが嬉しくて、苦しくて。


 ――もう、止められなかった。



「今日はありがとうございました」


 泣き腫らした目を手で覆い隠しながらドアの前でお辞儀する。


 あれから随分と時間をかけてしまった。


 大きな声で泣きじゃくる私の隣でお姉さんは黙って聞いてくれていた。

 時には優しく背中に触れ、頭を撫でながら。


「いえいえ、辛くなったらまた会いに来てください」


 そう言ってお姉さんは柔和な笑みを向けてくれた。


「そういえば、ここってどんなお店なんですか?」


 今更ながらに疑問に持つ。

 財布も全て持ち合わせていないばっかりに、このお姉さんには迷惑ばかりかけてしまった。

 できればもう一度お会いして、お礼を言いたい。


「レズ風俗ですよ」

「え?」


 れ、れずふうぞく?


「レズ風俗?」

「はい」


 ――また会えるのを、楽しみにしていますね。


 そうやってお辞儀する彼女の頭部を最後に、ホテルのドアは閉まってしまった。


 まだ暗い夜道を行きとは違った気持ちで、今度はゆっくりと帰る。

 ふと思い出すのは、元恋人やさっきのお姉さんではなく、お天気予報のアナウンサーのどうでも良かったはずの言葉。


「今日は忘れられない一日になるでしょう」


 本当に。

 いろんな意味で、忘れられない日ですよ。

 

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