第2話
成り行きでついて来てしまったが実はインドカレーなんて食べたこともなかった。
昔実家の最寄り駅にあった花屋が潰れてインドカレー屋が開業していたことがあった。
インド国旗を模した三色の電飾看板は馴染みがなく不思議がるだけで結局行かずじまいのまま東京に出てきてしまった。
たどり着いた店の看板には『ナマステ』と書いており、最後の”テ”は右手がよっと挨拶している絵文字が使われていた。
一つの意味にとどまらないその言葉を昼間に来店した私は『こんにちは』と解釈した。
ドアの左側に置いてある立て看板には今日のおすすめカレーが書いてあり『豆とチキん ¥730』と記されてあった。
何故”ん”だけひらがななのだろう。
訛った文字を見つめていると佐部さんは重そうな扉を容易く開けた。
ちりんちりんという音が頭上から鳴り、厨房の奥から恰幅のいい店主らしき人がでてきた。
いらしゃいませーとだるそうな日本語で出迎えてくれた彼は佐部さんからリンゴを受け取り、私たちを席まで案内した。
インドの人たちの写真やペイズリー柄が印刷されたクッションがソファにはたくさん積まれており壁には一枚の綺麗な窓があった。
「ここ私の特等席なんです。ステンドグラスが綺麗でしょ」
確かに彼女の背中にあるステンドグラスは陽の光を浴びて真っ白なテーブルクロスを彩っており神聖さがあった。
木製の雀茶色の椅子は背中の部分に模様が彫られておりもたれかかると面白い感触だった。
私はお決まりのがあるのでと佐部さんはメニュー表を一つこちらに差し出して両手で頬杖をつきテーブルの色を見ていた。
私はメニューを一通り眺め結局看板にあった豆とチキんカレーのセットにすることにした。
「辛さどうしますか?ここはふつうでも唇腫れますよ」
と佐部さんが嘘か真か分からない脅しをかけてきたので小学生の時以来選んでいない甘口にすることにした。
飲み物はマンゴーラッシーにした。これで辛さ対策は万全だ。
佐部さんはというとお決まりのものに香辛料の追加をお願いしていた。
デトックスになりますよと私にも勧めてきたが丁重に断った。
後ろの席にランチが運ばれスパイシーな香りと甘い匂いが漂ってきた。
思っていたよりもお腹が空いていたのか未知のインドカレーが運ばれてくるのを待つ自分がいた。
空腹を誤魔化すように水のはいったグラスをぐいっと口へ傾けた。
笑い顔の彼女はさっそく『毒リンゴ』のことを聞いてきた。
「本当に単純な話なんですけど、ある先生の授業で評価が低いとたくさん課題を出されるんです。
それを詰めこんでる袋が必ず『amiami』っていうアップルパイ専門店のもので私たち生徒にとって禍々しいものがはいってるから『毒リンゴ』って
呼ばれてるんです。中には魔女の講義始まるよなんて言ってばたばた走って教室に向かう生徒もいます」
彼女はグラスを持ったままけたけた笑うので中の氷が一緒にゆれた。
「皮肉めいてて面白いですね。同じ袋をそんなに持ってるってことはほとんど毎日食べてるってことですよね」
結構恰幅のいい先生なんですかと佐部さんは聞く。
「それがいつも感心するんですけど先生はすらっとしてるんですよ。『アルプスの少女ハイジ』にでてくるロッテンマイヤーさんみたいに」
噂ではアップルパイに命をかけてるらしく食事は全部野菜とか鶏肉だけらしい。
私は前にランチの時間に課題提出しに行った友人が食事中の先生に声をかけたらちょっと待っててと言われ、
目の前で三十回咀嚼が終わるまで待たされてからノートを受け取られたときの話をした。
それを聞いて佐部さんは大笑いしながらクッションを叩いた。
「甘いものも結局同じ腹に入るんだからダイエットしないと、ですもんね」
一息落ち着いてからめんどくさそう!と快活に言う佐部さんに私もつられて笑ってしまう。
ふいに背後からふわっといい香りが立ちこめた。
店主の逞しそうな腕が支える二つのランチプレートからはナンがはみ出ており机をあっという間に占領した。
「はいー、豆とチキン甘口と辛い辛いマトンとリンゴねー」
机に置かれた銀色のプレートはステンドグラスの色を反射してより美味しそうにカレーを彩ってみせる。
さっそくカレーを掬って一口食べる。
ほんのり甘みがあって美味しい。豆もいい具合にくたくたになっている。想像よりも食べやすいことに驚いた。
目の前の佐部さんのカレーは食べてないのに香辛料の強さで若干目が痛くなった。
佐部さんもナンをちぎってカレーに浸し口に放り込んだ。
「家田さんは出席態度悪かったんですか?」口角の上がる彼女を見て私もナンをちぎってカレーに浸した。
「そうですね。出席日数も少なかったし、授業に珍しく出たかと思うと居眠りばっかりで」
「魔女の授業は退屈ですか」
「いえ、授業は好きで選択したんです。けどバイトが忙しくて学業が疎かになってしまって」
ふうんと一度カレーを掬う手を止め
「バイトはやっぱり生活費厳しいからシフト増やしてるんですか?」
と佐部さんは聞いた。
いや・・・。
ナンをちぎる手をとめて言い淀んだ。
言葉を急かすような空気はなかった。
ずっと一人で抱えてきたことを誰かに言ってみたい、初対面と思えないこの綺麗な顔の彼女に思いを吐き出してみたい、自然とそう思っていた。
テーブルに反射して凹凸のできたステンドグラスの青い部分を見つめる私を、佐部さんは話せと促すわけでもなく心地よいリズムでカレーを食べていた。
「親からの仕送りは十分にあるし特にお金に困っていたわけではなかったんです」ぽつりと話し出すと佐部さんはゆっくり私の顔を見た。
バイトを始めた理由としては、色恋沙汰のことでだった。
大学に入学し、しばらくすると私は友人に流されるままバンドサークルに入っていた。
カラオケで歌を真剣に歌たおうと思ったことなんかないし、ましてや楽器経験なんてもっとなかった。
小学生の時ウィンドチャイムを鳴らすのが上手いと合唱コンクールで先生に褒められた記憶しかない。
なので機材の調整をしてなるべく裏方に徹していた。
友人は趣味の範囲だが歌うのが好きらしく新入生だったが女先輩とツインボーカルを組み輪に馴染んでいた。
ある日機材の調整をしながら授業のことを考えていると二年の先輩が話しかけてきた。
その先輩はベースをやっておりバンドの中でも縁の下の力持ちという感じだった。
襟足まで伸びた髪はくすんだ緑色に染めていて根元のほうは地毛が見えていた。
いかにも都会の人だと避けていたら急に近くまで寄ってきたので緊張した。
「家田ちゃんって背高いね、油断したら抜かれそう」
男に好かれにくいと女友達には自嘲気味に笑って話せるが、初めて交わす会話でデリケートな部分をつつかれて少し悲しくなった。
私は高身長を活かすために上京してから美容院に行き、水色に染めてもらってからメンズツーブロックをいれてもらい女らしい自分とは別れを告げた。
女友達からは背丈や顔のパーツががいいからメイクしたらモデルみたいになれる、と言われるがやはり高身長なこと自体私は好きではなかった。
だから毎日すっぴんで薄い糸目のままだった。女子からはクールでかっこいいと言われるが男ウケは悪かった。
それが正しい反応だと、そういった対象に見られないことが正解だった。
しかし実際に異性の口からその言葉をだされると辛いものがあった。
目の前でへらへらしている先輩に私はなにか冗談を返さなければと思考を巡らせていた。
すると先輩は私の腕をするっと触って
「俺、家田ちゃんの調整好きなんだ」
微笑むような視線でこちらをじっと見た。
以降先輩とは半年ぐらい付き合っている。
初めての恋人だったから大切にしたいと思った。
色恋沙汰で学業をおろそかにするなんて少女漫画の話みたいだが現実はもっとどろどろだ。
お金が必要と言われれば用意したし、行きたいところがあると言われれば自分の希望を飲んでも付き合った。
ほとんどは楽器屋か、安い飲み屋かホテル。もちろん支払いは全部私持ちだ。
やんわりそういった話をしたが先輩は楽器の調整や機材でお金がかかるからと、悪いの一言で結局いつも私に払わせていた。
たまに私の家に来て宅飲みをしていると、これやるよとズボンのポッケから少しひしゃげたキーホルダーをだして私の手のひらに置いた。
よくわからないウツボのキーホルダーは長い身体がだらしなく重力に従って伸びている。
お前に似てるからと言われ、とても複雑な気持ちのままビール臭い口でキスマークをつけられた。
先輩が帰ってからウツボのキーホルダーを手に取り、掌の中の私を見つめごめんねとごみ箱に捨てた。
早めの段階でこんなの良くないと感じ、何度か話し合いを試みたが
「俺以外にお前のこと拾ってくれるやついんの?」と大学の喫煙所で私のお金で買った煙草をふかしながら笑って言われるのが常だった。
『佐登部』という自分の苗字のステッカーを貼った微妙にださいライターを回しながら、めんどくさそうな表情で面と向かわれているのも辛かった。
高身長の糸目でひょろひょろ、話もつまらない私は誰の掌にも置いてもらえないのだろうと先輩の言葉をその通りと肯定することしかできなかった。
そのネガティブさはバイトのシフト量に比例していき授業はだんだんとサボりがちになっていった。
「シフトが増えてお給料が増えれば先輩は私のことをそばに置いてくれるから、そう思って学業より一生懸命に取り組んでました。
そしたら案の定どんどん授業についていけなくなって。本当情けない話ですよね。
正直に言うと今のシフトの状況からしてこの課題量を熟す自信はとてもなくて。
自業自得なんですけど単位、落としちゃいそうです」
はは、と自嘲気味に笑いながら全部の話を溢しようやく口に運んだ甘口のカレーは少ししょっぱかった。
佐部さんがナプキンを一枚差し出してくれたことでようやく私は涙を流していたのかと気がついた。
誤魔化そうとしていろんなものをばくばく口に入れたが、全部真夏に飲む塩水のように少ししょっぱかった。
辛いですねと今の私の気持ちを肯定してくれる佐部さんの一言に涙が止まらなくなり、テーブルのナプキンがなくなる勢いで涙を食い止めた。
少し落ち着いてマンゴーラッシーを口に運ぶと鼻が詰まっていてあまり味がしなかった。
「家田さん」落ち着いたにこやかな声で彼女は言った。
「その先輩と別れちゃいましょう」
きっと誰に言ってもそういわれるだろうと、だから蓋をしていたが彼女もやはり同じことを言った。
耳を閉ざしたくなった。それは私の選択肢としてなかたったからだ。先輩がいなければ私は軸のない女にまた戻ってしまう。
しかし佐部さんは秋の木漏れ日のように穏やかに
「『毒リンゴ』を貰ったならあなたは白雪姫です。その先輩が本物の王子様であるなら自分の煙草代くらいご自身でだします。
偽物に世話を焼く必要はないですよ」と諭した。
悪いものだけを貰ったと思っていた。そうか選ばれなきゃ貰えないんだ。
確かにこれは懲罰の一つだけど私が姫であったから貰えたんだ。
ずずーっとマンゴーラッシーを啜る。
彼女は目の前でリンゴをしゃくしゃくと食べていた。その表情は何でも見てきたかのような朗らかな顔だった。
彼のことをどうするかすっぱりここで決められるわけではないけど、私は今ようやく分岐点に立てたような気がした。
二人とも顔よりも大きいナンでカレーをたいらげ、お会計に向かおうとした。
すると佐部さんがレシートをレジまで持っていき二人分のお会計を済ませてしまった。
「すみません、私のいくらでしたか」と佐部さんに聞くと、ドアに手をかけた彼女は
「ご自分の趣味にでも使ってください。そのスニーカーかっちょいいんですから」
と私の足元を見て言った。
後日私はバイト先に行きシフト調整のお願いをした。
店長は調整に少し頭をひねらせていたが、私の働きぶりをかってくれてなんとか課題に取り組む時間を作ってくれた。
二週間の猶予はかなりぎりぎりだったが元々好きな科目だったので自分でも驚くぐらいに没頭することができた。
期限日、昼食中の高汽先生のデスクに向かい重たい『毒リンゴ』を渡して、この課題に取り組むことが私の一番の入学目的だという作文を添えた。
運がよかったのか五回目の咀嚼で受け取ってもらえた。
身軽になった体で教員室を出て、今日はもう授業も予定もないので帰ろうとキャンパスを歩いていると左脇のベンチにリンゴが一つ置いてあった。
デジャブを感じてリンゴへ近寄り隣に座った。
誰かの忘れ物だろうか。
なんとなく彼女を思い出して
「背中を叩いてくれてありがとう」と呟いてみた。
サァと湿気のない風邪が足元の落ち葉を撫でた。
独り言ちたことが少し恥ずかしくなってベンチから腰を浮かそうとすると
「いいえ~」
と背後から声がして仰け反る。
よく知っているオレンジの瞳は私を目視してから三日月形に目元を変え笑った。
吃驚している私をよそに隣に座った黒ブレザー姿の彼女はリンゴを膝の上にのせて話し出した。
「白雪姫の毒リンゴを食べるシーンご存じですか?あれ、口に運ぶところを見ていたのは魔女だけじゃなかったんです。
家のそばに生えている木にとまった小鳥はもどかしそうに彼女が死ぬのを見ていたんです。
一匹の言葉は一人に届かないから」
「だから私、役に立てて嬉しかったです」
佐部さんは今までの冗談めいた笑いとは違い満面の笑みを向けて私に言った。
私を救ってくれた彼女とこれから良い付き合いができるだろうか。
彼女が困ったら私は代わりに背中を叩いてあげられるだろうか。
そんな少しの不安とわくわくで胸がいっぱいになった。
私たちはせっかくだからほぼ毎日食べているであろう先生御用達の『amiami』に足を運んでみた。
看板は薄い桃色にデフォルメされたリンゴのイラストが大きく掲げてあり、このロゴと共に過ごしてきた私はなんとなくもう常連のような気分になっていた。
可愛くて綺麗なパイたちが入っているショーケースからどのアップルパイにするか決めてお会計した。
店員さんはホールスタッフに引き継いで私たちを甘い匂いに満たされている店内に案内した。
先ほどホールだったパイが一切れずつになってテーブルにだされた。
色んな事を談笑し、食べ終えて空になったなみなみ皿を佐部さんは眺め、本当の名前を教えてくれた。
リンゴのジャムで空いた皿にスプーンで彼女は文字を書いた。くるっとその皿をこちらに向けて文字を見せた。
『佐登部鳩羽』
ん?佐登部って・・・。
毒リンゴ カフか @kafca
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