結局さ、俺ってさ。

人影

結局さ、俺ってさ。

 毎年夏休みになると思い出す。

 中学三年生の夏休み、俺たちは真昼間のプールに忍び込んで、宿題を浮かべて遊んだ。

 気持ちのよさそうに、宿題は水を吸い込んで、しばらくたつとプールの底に沈んでいった。それをみて、きゃっきゃきゃっきゃとはしゃいで、それから俺たちもプールに飛び込んだ。

 服に染み込んでいく水とか、髪が水の中で舞う感覚とか。全部真新しくて新鮮で、本当に楽しかった。あの時の俺たちは、きっと何よりも輝いていた。

 ふやけた宿題は、自分の重力に耐え切れずに、ずたずたにちぎれていく。それはまるで、滲んだ文字が零れていくように。

ばらばらになった日記も、数学のプリントも、自由研究も、プールの中に散らばって、広がって、ぷかぷかと浮遊するんだ——。


 まぁ、そんなことしてたから夏休みの宿題を出せなくなって、それで成績が下がりまくって受験にも落ちちゃったんだけど。

 高校三年生になった俺。あの頃一緒にプールに飛び込んだ奴らは、そこそこの高校に行って、俺だけが置いて行かれた。多分もう俺のことなんて忘れられてる。そんな俺は底辺の学校でもさらに落ちぶれて、『夏休みの勉強量で人生が決まる!』みたいなことをさんざん提唱されても、まったくやる気にならないくらいに退廃した。俺の心はあそこのプールに散らばったままなのだ。

 今では思う。あんな馬鹿なことしなかったら、こんな底辺みたいな高校に行くことなんてなかった。

 だから、もしももう一度あの夏休みをやり直すことができたなら、

「あの夏休みを、宿題を、取り返してやろう」

 そう俺は誓ったんだ。


 気が付けば、俺は中学三年生に戻っていて、プールであの頃のみんなと宿題を浮かべていた。全員呑気な顔をして、これから起こることもわからずに、笑っている。いや、悪いことが起きるのは、俺だけか。

 宿題はまだ浮かべたばかりで、水面をぷかぷか這っている。まだあまり水を吸っていない。

「こんくらいでいいだろ」

 俺はそう言って、宿題を掬い上げる。

「つまんねぇの」

「チキンかよ」

 そう野次されるが、「うっせ」と一蹴して、その場を立ち去った。

 あの頃の宿題を、取り戻すことができた。

 あとは、この宿題をやるだけだ。

 達成感が胸をいっぱいに満たす。

 あの時、宿題を掬い上げていたら。プールになんていかなければ。何度公開を繰り返しただろう? それが今、この瞬間変えることができたのだ。

 気が付けば涙が流れていた。

 これでやっと、あの劣等感から解放される……。


 とはいえやっと中学三年生に戻ることができたんだ。いろいろと欲も出てくる。

 まず、叶えたい未来は、高校になってもあいつらと友達でいること。それは多分、あいつらと同じ高校に行くことができればかなえることができる。あとは夏休みの内に適度に遊んでおくとか。

 せっかく中学三年生に戻ることができたんだから、あいつらと遊びたい。

 俺は適当にグループLINEに遊ぶ約束を取り付けた。


「あんとき頑張ってればよかったなぁ」

 ゲーセンをはしごして、結局金が尽きて公園でだべっていたとき、そんなことを一人が言った。コンビニで買ったアイスにかじりつく。

「今からでも間に合うだろ」

 ついそんなことを言う。柄にもないな。この時の俺なら、その考えに便乗していたのに。

「頑張れるわけねーだろ」

「いや頑張れよ」

「やっぱ頑張るのも才能ってやつだ」

「でた~、できないやつの言い訳ランキング堂々三位!」

「三位なのかよ」

「てかやめよーぜ遊びに来てんのに勉強の話とかしたくねー」

 頑張るのも才能、なんて言葉誰が考えたんだ。この言葉で何人堕落してると思ってるんだ。

 頭の中で思い浮かべたのは、ひょろひょろのインキャ中学生。

 頑張るのは才能ではないが、方向を決めるのはセンスだと思っている。とはいえ、俺がこの夏に戻って来て、何をするべきなのかは曖昧だ。

 高校に落ちるくらい俺はセンスも才能もない奴だ。少しはこいつらを参考にしておきたい。

「もしさ、高校に落ちて、またこの夏に戻れたらどうする?」

 しまった。少し神妙になりすぎたか?

 ごまかすようにアイスをなめる。夏の気温の所為でもう溶けかけている。

「多分、もう一回おんなじことするだけだと思うな。だって、二回目だし、努力しなくたって高校には行けるだろ」

 ……確かに。

 じゃあ、俺は勉強しなくてもいいのか?

 とはいえ、高校に落ちたくはない。

 せっかく巻き戻ることができたんだし、やるしかないか。

「あとな、お前」

 と、珍しく前置きを置いて、ソイツが言う。

「環境が変わっても、時間が巻き戻っても、やらねぇやつはやらねぇんだよ」

 言い終わる瞬間、アイスが棒からとれて地面に落下する。「なにやってんだよ」と笑われながら、時間はあっという間に過ぎ去った。


 家に帰って、勉強机に座って宿題を眺める。そう言えば俺、高校になってから勉強をほとんどしてない。勉強机にこうやって座るのはいつぶりだろう。

 ていうか、勉強ってこんなにめんどくさかったっけ?

 解けるやつは解けるけど、手順が多くてめんどくさいし、できることをやる意味が分からなくなる。とはいえできないやつばかりやっていると、理解するのがめんどくさくなる。問題文読んでると思考が変の方向に飛んだりするし、問題に詰まるとスマホに手が伸びる。

 つくづく俺には勉強の才能がないらしい。

 てか宿題乾いても、めっちゃ書きづらいし。

 夏休みの最初らへんは気合入れてやっていたけど、やっぱめんどくさくなって、最近はあいつらと遊んでるだけだ。あいつらはどんくらい勉強してんだろうな。

 ——環境が変わっても、時間が巻き戻っても、やらねぇやつはやらねぇんだよ。

 知ってるよ。高校で私立の進学校選んだ俺ならわかる。環境ばかりが整えられて、やる気が追いつかなくなるあの感覚——。環境が変わっても、人間は変わらない。

 勉強なんか無理だ。明日から五ページずつやろう。

 そう決心して、なんか変わるかなって期待して、クソ暑い外に出る。

 そんなことをしたって、面白い事なんかひとつもなかった。


 中半端に終わった宿題が、ぷかぷか浮かんでいる。

 白紙の絵日記、数学のプリント冊子、十五分で終わる自由研究……。俺の苦しみが詰まった紙束が浮かんでいる。とても気分がいい。

 空はもう暗くなって、世界の輪郭がぼやけている。意識も希薄になって言って、抒情的な心傷がズキズキ痛んだ。

 やっぱ俺、変われねぇんだよ。

 時間が巻き戻って、プールに浮かんだ宿題を取り返したって、またやり直すことができたって。

やりたいことが一つもない、目標もない俺が頑張れるわけねぇだろ。

 この宿題を見ているのも実際暇だし、帰るのも面倒だし、なんかあるかなって期待して、プールに飛び込んだって、何にも感じない。

 ただ冷たいなとか、宿題がばらばらになったなとか思うだけ。心は動かない。

 こうやって、俺の夏休みは白い絵日記が続くだけなんだよ。

「結局さ、俺ってさ、変われねぇんだよ」

 環境が変えてくれなかったら誰が俺を変えるって言うんだ?

 俺が変えるのか?

 馬鹿言ってんじゃねぇよ、宿題も頑張れねぇ奴が自分を変えるために頑張れるわけねぇだろ。

 でもなんだかんだ言って友達と遊ぶのは楽しいし、公園で食べるアイスもうまい。

 それだけでいいのかもな。俺にはやっぱ、こういう生き方が似合う。

 体がプールに沈んでいく。

 水面が遠のいて、鼻からキラキラ光る泡が昇る。

 背中はつくことはなく、ただ際限なく沈んで、プールの底の暗闇に溺れていく。

 ——これでいい。

 こっちのほうが、心地いい。

 そう思いながら、俺は水面から目を背けて、目を瞑った。

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結局さ、俺ってさ。 人影 @hitokage2023

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