またいつか、蝉がなく頃に。

エース

第1話

僕、一橋(いちはし)康(こう)介(すけ)、小学4年生。

勉強はまあまあ。友達の数はあんまり。どこにでもいる普通人間がこの僕。

ゲームをしたり漫画を読んだりするけど、最近僕がハマっているのは虫だ。

虫取りのようだけどちょっと違うところがある。うまくは言えないけど…虫返し?

僕は虫に仕返しをしてやりたいんだ。虫ならなんでもいいわけじゃない。

死んでいるやつもだめだ。ちゃんと生きているやつじゃないといけない。

この8月の暑い時期に、いろんな木にぴったりはりついているあいつらに。

そう、セミだ。僕はあのムカつくセミ共に。



僕は、おしっこをかけてやりたいんだ。



※※※



おばあちゃんとご飯を食べて、虫網と虫かごを持ち、自転車に乗ってちょっと大きな公園に一人で着いた。

小さな木や大きな木だけでなくブランコやベンチもあって、昼間は人がいっぱいな公園。

だけど、今はもう夜になったせいか、僕以外には誰もいない。

そんな時、ジジジ…もう何度も聞いたかわからない、にくたらしい音が聞こえた。

セミの声。スマホで前に調べたらアブラゼミの声だと知った。

最近は暑いせいか昼だけじゃなくて夜も鳴いている時が多い。生意気なやつらだ。

居た。奥のベンチの後ろにある一番太い木に丸い何かがくっついている。

絶対にあいつだ。暗くて見えにくいけど昼間に何回も見たから僕には自信がある。

クソ暑い昼間のうちに公園を歩き回っていたおかげだ。

しかも、位置がいい。ギリギリ届きそうだ。これなら、今日、やるしかない。

気がつくと自分のハァハァという声も聞こえた。

学校の授業でみんなの前で発表をする時のようだ。逃げ出したい気持ちも少しある。

だけど、僕は決めたんだ。絶対にやるんだって。

セミが飛んでいかないようにゆっくりと歩いていると、いつの間にかもういちど大きく息を吸って吐いていた。

頭の中でなんども繰り返してきた。まずはセミを虫網で捕まえて、すぐに虫かごに入れる。

そしてちょっと大変だけど、その後はセミを手でつかんで、おしっこをひっかけてやるんだ。

気がつくと目的の木はすぐそばだった。あとは少しベンチに乗って、高さを稼げばいけるはずだ。

ゴクン、という人生で一番大きな唾を飲む音が僕の中だけで響いた。



「ねぇ僕、こんな遅い時間にどうしたのかな?」



その時だった。

僕の後ろの方で声がした。


「えっ?」


クラスで一番可愛い、美保ちゃんの声なんかよりももっと綺麗で。

この世の物とは思えないんじゃないかって、そう思うような声が聞こえた。

それに声だけじゃない。


「珍しい時間に、虫網と虫かごを持つ子供に会えるなんてねぇ」


暗くたってとっても目立つ。

お姉さんは大きな麦わら帽子を被り、真っ白な服を着ている。

クラスの女子が言っていた、ワンピースっていうやつだろうか。

お姉さんの肌もそのワンピースに負けないくらいに、真っ白で綺麗だった。

ぎゅっと抱きしめたら折れてしまいそうな、ほっそりとした身体の上に浮かぶ小さな顔。

そのニコニコと笑う顔から僕はどうしようもなく、ただ格好悪く見上げるしか出来なかった。


「あっ、えっと……ぼ、僕は虫を取ろうとして」


嘘は言っていない。何かを言おうとして出た言葉はとても素直なものだった。

クラスで一番モテるという、竜君ならお姉さんについて何か気の利いた言葉が出たのだろうか。

だけど、僕にはそんな余裕はなく、ただ最低限の会話しか出来なかった。

このお姉さんは僕にどういう用事なんだろう。このお姉さんは一体何者なんだろう。

ごくごく当たり前な疑問が浮かぶのに時間がかかるほど、僕の胸はドキドキが鳴りっぱなしだった。


「虫取り、いいよねぇ。私も昔はよく一緒に虫取りとかしたっけかなぁ」


鏡がなくても自分がにやけているのがわかった。

なんだか嬉しい。こんなきれいなお姉さんに褒められたのだ。

もう、これは自分の人生に少し花丸が増えてしまったんじゃあないだろか。

お姉さんの一言が、唇の動きがとても魅力的だ。

そう思えるぐらいに、目の前のお姉さんのすべては僕の心を掴んで離さなかった。


「この公園もねぇ、いろいろな虫が居そうだねぇ。ああ、でも蚊は嫌だよねぇ。私はよく刺されるからこの時期はとっても困るなぁ」


お姉さんが会話を続けてくれる。

とっても嬉しい。だけど、さすがの僕もそろそろ少し落ち着き、ずっと立っているのも変な気がして自然とお姉さんの方を向くようにベンチに座った。

ようやくお姉さんについて聞こうと思った。さっき浮かんだ、お姉さんはどういう用事があるのか、お姉さんはだれなのか。

そのどちらを聞こうかと思ったのに、僕の口から出た言葉はどちらでもなかった。


「お姉さんは、どうしてずっと笑っているの?」


不思議だった。

お姉さんはさっきからずっとニコニコと笑っている。

最初に声を掛けてきた時の笑顔が、ずっとそこにあった。

嫌な感じはまったくしない。だけどどこかひっかかるような。

それでいてずっと変わらないお姉さんの笑顔。ここまでくると、そうそれは言ってしまえば。


「あーこれはねぇ」


浮かべているわけではなくて、張り付いているような笑顔だった。

だけどお姉さんは特に気にすることもなく続けている。



「お姉さん、こういう顔以外、前はどんな顔していたか忘れちゃったんだよね」



よくわからない。

僕はどう答えればいいのか。

お姉さんが何を言っているのか。

よくわからなかった。


「お姉さんにも子供が居てね。君よりももっと小さい、男の子でさぁ。あの子も虫が好きだったんだよねぇ」


このお姉さんはいったい何歳なんだろう。

ふとそんな事を僕は考えていた。

子供が居たんだったらじつはおばさんって感じの人なのかな。

見た目はぜんぜんそうは見えないけども。


「こういう夏の日にはいつも虫取りに出かけてね。よく行ったなぁ。ほら、君が持ってる虫網と虫かごを引っ張りだして、お母さんはやくーって元気いっぱいでさぁ」


押入にしまっていた虫網と虫かご。

お姉さんは後ろから僕が虫網と虫かごを持っていたのがわかって声を掛けたのかな。

僕が虫取りをしている子供だと思ったのかもしれない。

だけど、そんなことよりも。気になることがまたひとつ出来た。


「お、お姉さんの子供は、なんていうの?」

「ん、康(こう)くんだよ。康一くんだから康くん」

「あ!僕も康だよ。康介の康だけど!」

「へーそうなんだぁ。名前が似てるね。そういえばちょっと君に顔も似てるかも」


きっとまた顔がにやけているんだろうな。

お姉さんが僕のことについて何かしゃべってくれるのが嬉しい。

つい気を良くした僕は少し調子に乗ってしまったのかもしれない。

昔、お母さんからも調子に乗りやすいのがたまにキズだよねって言われたことがあったのに。


「僕、康くんに会ってみたいな!お姉さん、連れてきてよ!」


少し失敗したなと思った。

初対面でこんなことを言うやつはちょっと変なやつだと思われたんじゃないかな。

おそるおそるお姉さんの反応をうかがう僕に、お姉さんは答えてくれた。


「あーごめんねぇ。康くんはもう居ないんだ」

「え…康くん、居ないの?」

「そそ。あの子、もうこの世には居ないんだ」


お姉さんはずっとニコニコしている。

なんでだろう。お姉さん、どうしてこういう時にも笑っているんだろう。

楽しい時、嬉しい時に笑うことが普通だと思うのにな。



「おかしいよね」



うん、おかしいよ。

どうしてお姉さんはまだ笑っているんだろう。



「康くんはさ。ただはやく虫取りしたかっただけなんだよ。だから走って行ったんだ。そうしたら…曲がり角から、大きいトラックが飛び出して来てさぁ。康くんの身体をバーンってふっ飛ばしてね」



お姉さんの小さな唇がもぞもぞと動いている。

まるで道端で必死にもがく虫のようだ。

だけどその動きは虫とは違って、とってもきれいなものに僕の目には映る。



「それからのことはよく覚えてないけど…いろいろとお葬式とか役所の手続きとかしたり、いつの間にか康くんのお父さんが居なくなったりしてドタバタしてさ。全部片付いた後、なんだか笑えてきちゃったんだよね」

「…笑う?楽しくなっちゃったの?」



ようやく絞り出せた言葉はお姉さんにとって良い言葉だったのだろうか。

なぜか僕はそのことが無性に気になった。


「そうだねぇ。楽しいというか不思議だったのかなぁ。私があんなに大変で、痛い思いをして生まれてきた康くんがあんなに簡単に死んじゃってさ。だけどあの運転手とか、他の人たちとか、康くんみたいに虫取りしてる小学生たちはなんに変わらずに生きている。そう思うとさ…ああ、すっごく可笑しいなぁって」


まだ、変わらない。

本当にお姉さんは忘れてしまったのだろう。

話す言葉の内容とは裏腹に、お姉さんは相変わらずニコニコと笑っている。



「不公平なんだよね。この世界の全部が。不公平なことはちゃんとしないといけないのにさ。そう思ったらどうしようもなく可笑しくて…気がついたらずっとこんな顔になっちゃったんだなぁ。特に君のように虫取りをしている子を見ているとね」



なんとなくだけど。

わかった気がした。

僕が、まだこの名前も知らないお姉さんにすごく心惹かれたわけが。


「お姉さん、僕もわかるよ」

「んーどういうこと?」

「だって、僕もお姉さんとちょっと同じだから」

「同じ?」


自分が普通な小学生でしかないことが悔しい。

ここでお姉さんの手を握ってでもやれたら良いんだろうなぁ。

そんなことを思える余裕が、僕にも少しあった。


「不公平なことはちゃんとしないといけない。お母さんもおばあちゃんも言ってたよ。だから僕もやってやるんだ」

「…すごいなぁ。康介くんも、誰かに仕返ししようと思っているの?」

「うん、僕はセミのやつにおしっこをかけようと思ってたんだ」


本日、2回目の後悔だった。

さすがに初対面の小学生からおしっこの話をされていい気になる人はいないだろう。

こんどこそお姉さんからは引かれてしまったかもしれない。


「へー…おしっこをねぇ。どうしておしっこなのかなぁ?」


さすがお姉さん、優しい。すき。

僕はさらに気を良くして、ついに立ち上がってお姉さんと向き合う。

お姉さんと顔の距離が少し近くなった。

今ならなんだって言えそうだ。


「1年前、僕はセミにおしっこをかけられてから最悪なんだ」


あの夏の日から僕の人生は一変した。

お母さんに買ってもらった虫網と虫かごを持って、一人で公園に行ったあの日。

虫網を振りかぶった僕に残った感触は、顔に広がる生暖かい気持ち悪いものだった。

ジジジと憎たらしく鳴き、黄色い液体をまき散らしながら飛んでいったあいつを忘れない。

あいつから始まったあの最悪な一日を、僕はずっと許せなかった。


「僕のお母さん、病気で死んじゃったんだ。僕がセミにおしっこをかけられたあの日にお母さんは入院してから…」


おばあちゃんが言うにはもともと身体が弱かったらしい。

お父さんも僕がもっと小さい時にはどこかへ行ってしまって僕を一人で育ててくれた。

だけど、あの日、僕がセミにおしっこをかけられて、家に戻った時にはお母さんは救急車で運ばれた後だった。

なにがなんだかわからない僕は、タクシーでやってきた隣町のおばあちゃんと一緒になんだかよくわからない病院に行った。

そこから先はあっという間だった。

もともと無理をしていたお母さんはどんどんと体調が悪くなって、あっさり死んでしまった。


「康介くんのお母さんは何の病気だったの?」

「わからない、僕にもおばあちゃんにもよくわからないよ。だけど、全部あの日からだ。それにおばあちゃんは言ってた、お母さんは死ぬ前にはおしっこも出なくなったんだって」


お母さんがどうして死んだかはよくわからない。

お医者さんの説明を聞いたおばあさんもよくわからなかったそうだ。

それでも、お医者さんや看護婦さんの話からお母さんは死ぬ少し前にはおしっこがあまり出なくなった話だけが僕の記憶に残った。

許せない、僕はそう強く思った。



「僕の大好きなお母さんはおしっこも出なくなったのに、あのセミ達はのんきにおしっこが出てる。しかも、僕の顔にもかけたんだ…だったら僕だってやってやる。僕もぜったいにあいつらにおしっこをかけて、しかえしをしてやるんだ!」



おばあちゃんと二人で住むようになって、新しく始まったこの夏。

念入りに計画を考え、ついに実行に移したのが今日だった。

このことはおばあちゃんにも言っていない。

僕の一世一代の告白をお姉さんはただ黙って聞いていた。


「こ、康介くん、それってさすがに逆恨みなんじゃないかなぁ?」

「逆恨みってなに?」

「あ、そっか。小学生は逆恨みって言葉は知らないか。んーっとねぇ、そうだなぁ。さすがにセミさん達は悪くないんじゃないかなって」

「どうして?不公平だよ?お姉さんも言ってたよ、不公平はちゃんとしないといけないって。僕やお母さんは苦しんだのに、セミは苦しんでない。そんなのぜったいにおかしいよ」

「そりゃたしかに言ったけどさぁ。それとこれとは…いや、そうだよねぇ」


ここにきて、お姉さんの反応が一番微妙だ。

これはおかしい。僕は今日一番、自信をもってしっかり話せたというのに。

だけどお姉さんは怒っていたり、がっかりしていたりしているわけではなさそうだ。



「何も違うことはない…かな。うん、康介くんの言う通りかもしれないねぇ。

そっか、改めて考えてみるとやっぱり、他の人たちには関係ないかなぁ。康くんに似ている子達も、ただなんとなく似ていただけで悪い事したわけじゃなかったからねぇ」



うんうん、一人で納得しているお姉さん。

僕が少しは役に立てたのだろうか。

そうであれば嬉しいな。

嬉しいことがたくさんあれば、きっと良いはずなんだ。


「お姉さん、どうして泣いてるの?」

「え…ありゃりゃ、ほんとだぁ。おかしいねぇ。私、急に泣いちゃって。いまさらこんなことに気づくなんてさぁ。あはは、ほんとうにおかしいや」


お姉さんがぐしぐしと手で自分の涙を拭いている。

僕もごそごそと自分のポケットに手を突っ込むが、あいにくハンカチが見つからない。

こんなことならいつも面倒くさがらずに入れておくべきだった。

どうにかお姉さんを元気づけてあげたいな。そう思う僕の視界に飛び込んできたものに、僕は再び心を奪われた。


「お姉さん、とっても綺麗だ」

「んー?」

「お姉さんの笑った顔、さっきまでのよりずっといい。今のお姉さんが一番だよ」

「ふふ、そっかぁ。君に褒められるとお姉さんも嬉しいなぁ。ありがとうね」


本当に綺麗だった。

今ならわかる。さっきまでの笑顔はどこか作り物のような感じだった。

綺麗だけど、どこか大事なものが抜け落ちていたような違和感があった。

ようやく、本当のお姉さんと向き合えたのかな、と。

僕はそう思うとどうしようもなく嬉しくて、気づけばセミの音も聞こえなくなっていた。

ただ、僕にあったものは。



「これからも頑張りたまえよ、小さな虫取り少年くん」



くしゃくしゃと僕の髪を掴むお姉さんの手の感触を、僕はきっとこの先忘れることはないだろうという想いだけだった。




※※※




夜が明けて、朝日が昇って、僕はいつもより少し遅い朝食を一人で食べていた。

いや、正午を過ぎているし、もう昼食といってもいいかもしれない時間だった。

おばあちゃんは日課のラジオ体操と畑の世話に出かけ、帰りに友達とご飯を食べているらしくまだ帰っていない。

夏休みだから許される朝寝坊のありがたみを朝食と一緒にかみしめる。


「綺麗なお姉さんだったなぁ」


誰に言うこともなく、ぼそっと言葉が出た。

昨日、公園でお姉さんとあの後少し話をして、もう夜も遅いから家に帰りなよと言われ、家に帰ってから僕はすぐに布団にくるまって眠った。

お母さんが死んだあの日から、おばあちゃんの家に引っ越して、学校が変わってからあんなに誰かと話したのは久しぶりだった。

楽しい時間だったな、と。思い出すだけでまた顔がにやけてきそうだった。

そうこうしているうちに僕は朝食を食べ終えて、適当に食器を流しに置いて、和室で寝転がりながらスマホを操作していつものまとめサイトを回り始めた。

その中でちょっと興味を引く記事を見つけた。



『逃亡犯、ついに逮捕。犯人自らが自首か?連続殺人の疑い』



まとめサイトによると例の犯人は5年前から逃亡を続け、何人もの人を殺した疑いがあると書いてあった。

その中には小学生も何人か含まれているという情報も入っているらしい。

ただ、速報のようで何が本当かもよくわかっていないみたいだ。

この分だとお昼のワイドショーや夜のニュースあたりでも取り上げるのかもしれない。

だけど僕にとっては世間でよくある、怖い事件だなぁという感想ぐらいだ。

それよりも僕はお姉さんのことで頭がいっぱいだ。

また会えるかな。たとえば今日の夜にでも。

約束をしたわけではないけども、もしそうだったらいいな、と。

その前に僕はやりのこしたことをやっておこうと思う。


「まあ、生きてるやつはかわいそうだから、死んでるやつで勘弁してやるかな」


せっかく計画を練りに練ったんだ。

一匹ぐらい、しかも死んでるやつなら仕返ししたって別にいいだろう。

暑い内は家の中でゴロゴロして。夜になって昨日と同じ公園のあの木で。またセミを探して、こんどこそやってやろう。

その時、お姉さんにもまた会えたらいいなぁ。

まだまだ残る夏休みの昼下がりに、僕はお姉さんとセミとの出会いを夢見つつまどろみの中に沈んでいった。



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