第1話
窓の向こうは暗くも明るく、白かった。
夜の黒へと変わろうとしている紺碧の世界で、吹雪が吹き荒れている。視界と体温を奪う白い嵐の中は生きている者が長時間いられる場所ではなく、レヴィアを乗せた車も彼女以外の生きたものは居なかった。
悪と評価されたレヴィアは彼女を買った城爵・オーガストのいる城へと運ばれることになった。自力で来いと言われず、馬車の迎えを寄越される程度には恵まれているらしい。
北の果てへと向かう旅路は長い。馬車を待つレヴィアが片手に携えるトランクには、衣服や筆記用具などの最低限の荷物しか入っていない。屋敷にあった分厚いコートと男爵家にしては簡素な(それでも縫製は丈夫だ)ワンピースを纏った姿は、町娘と称しても差し支えがなかった。早朝にやってきた御者も彼女が噂になるほどの悪女かと目を疑うほどだった。
馬車は王都郊外の農村地帯を出発し、いくつかの町で小休憩を挟みながら進む。彼の住まう城にもっとも近い、最北の町を目指した。
国の最北、ジェイタスに到着したのは、当日の夕方だった。途中の町で転移魔法装置を使っても移動に半日以上はかかってしまう距離。簡単に戻るすべのなさをレヴィアは改めて目の当たりにし、長旅に疲弊した心身に深く現実が刻まれる。しかし、まだ旅路は終わりではなかった。
御者は馬車を降り、レヴィアにも降りるように指示をする。春も終わりに近い季節でも町はまだ寒く、往来の端に固められた雪が残っている。蕾や新芽が産く王都とは違い、まだ春は遠そうだ。此処から徒歩で移動するのかと思いきや、案内された先にあったのは魔導式の無人馬車だった。
魔導式とは、動力に魔法や魔力を使うものを指す。魔導式の乗り物は使われる魔力の強弱により走行できる距離が変わった。出発する際に魔力を注ぎ、到着した土地でまた魔力を注がれて戻ってくるという一定の区間を往復する使い方が一般的だ。
人手と面積のある王都では魔力補給役の人員が確保できるため、都内の移動に利用されている。だが、人が馬に引かせる馬車のほうが安心できると、まだ地方には浸透しきれていない。
何故魔力を必要とする無人馬車があるのか。驚きつつも表情を出せずに近づいたレヴィアはその理由がわかった。
黒い外装のすみに小さく『ノーザリウス卿所有』と刻まれていた。値段を考えるとけっして安くはない車両だが、個人所有をしている貴族も世の中にはいる。一族の財と権力を示すために何台も買い揃える物好きもいるほどだ。レヴィアに大金をはたいた城爵も、やはり物好きの一人なのだろう。
お前も所有物なのだと言われているような気がした。
そんなことをせずとも、そもそも長距離を転送魔法まで使って馬車で移動しなくても、既にレヴィアの腹は決まっている。己はどう扱われてもいい。もう令嬢でも貴族でもないのだ。レヴィアは自分の移動を引き継いだ無人馬車の担当者に声をかけた。
「すみません。ひとつ質問をしてもよろしいでしょうか」
氷の面から放たれた礼儀正しい言葉に、相手は多少怯んだ。彼もレヴィアの噂を知っているらしい。文句を言われるかと身構えたが、質問という単語に強張った表情を微かに緩めた。
「……はい、こちらで答えられる範囲ならば」
「ありがとうございます。どうして乗り換えをするのですか?」
「まだ城まで距離があります。通り抜ける雪原は冬には死人を出すほど厳しい所です、到底普通の馬車では太刀打ちできません。ですから、城との往復には卿が所有する魔導式を使用する決まりになっています」
「つまり、これは彼が無償で町に貸していると」
「その通りです。あそこは本当に酷いもので……他の場所へ使うものも卿からいくつかお借りしています」
担当は頷いた。代わりに、もう答えはしないとレヴィアを乗り込ませるためにドアを開ける。
王都の貴族間にはオーガストの色良くない噂が広まっているが、近隣の民からの評判は悪くはないらしい。貸し出しであれば、費用とほぼ同等にかかる維持費も所有者持ちだ。交通の便が悪い町には非常にありがたいだろう。
中は二人用の席が対面するように二列に並んでいた。レヴィアは言われるがままに座席へと腰を降ろした。ベロア生地が張られた席は長時間の座位に耐えられるよう、腰と背面に強いクッション性がある。扉の内側には車体制御用の魔導具が設置されており、ここへ御者と馬の役割を担うように魔力が込められるのだ。
担当者は事情に深入りせず、所有者の言いつけ通りに外側で扉を閉じる。一連の動作を見ながらレヴィアは無償で高価なものを貸し出すオーガストが、どう城を維持する経費を捻出しているのか気になっていた。
車輪は魔力を受けて滑らかに走り出した。魔導車の内はいわばひとつのシェルターだ。内側からはおいそれと逃げ出せず、目的地に着くまでは外部からの影響を受けない。町から雪原へと向かい始めた車は城に到着するにはしばらくかかるだろう。道中の暇つぶしにと、レヴィアは湧いた疑問について考え始めた。
彼に対する良くない噂の中に人身売買の噂も存在している。不幸に見舞われた人間を高値で買い取り、飽きるまで飼い慣らす。もしくは、自分が出した倍の値段で他人に売りさばく。辺境に住まうのをいいことに偏見がこれ見よがしに詰め合わされていた。噂は噂だ。しかし、火種がなければ煙は立たない。
悪評が人づてに広まるには少なからずわけがある。対峙した城爵は冷徹な印象があった。実際、レヴィアは買われたのだ。自分にある悪女という肩書きを抜いても、金で人を扱うことへの慣れが手に取るようにわかってしまった。
元々レヴィアは噂を鵜呑みにはしていない。金の使い方を見せられて有無を言わさずに買われても、どこか相手を非道な人物だとは思えなかった。人の心がないと言うのなら、家族で過ごす猶予を与えるだろうか。長旅をさせ、己で考える時間を寄越すだろうか。
窓の外からは町の明かりは消え失せていた。風が鋭く空を切り、白い嵐が吹き荒れている。思えば、町民も城へ見ず知らずの人間を送り出すのに慣れているようだった。無償だからこそ彼がどう彼らを扱うのか見て見ぬ振りをしているか。本当にオーガストを信用し、信頼を置いているか。
吐き出した呼気が窓ガラスを淡い白に染めた。彼の真実はこの景色の向こうにしかない。これからのレヴィアの行く末も城に入らなければ見えてこないのだ。馬で走るよりも速く、車は進んでいく。曇った水滴を手で拭い取ると、町とは反対方向に小さな青白い明かりが二つ見え始めた。徐々に光へと車は近づき、並んだ間を通り抜ける。
――ここからがノーザリウス卿の
レヴィアはざわつく胸を押さえながら、オーガストの手中へと足を踏み入れた。
魔導式自律車は吹雪をものともせず、城壁内を進む。一層激しくなった風雪に外の様子は把握できない。しばらくすると魔力が切れ、停車した。ここで降りるのだろう。レヴィアは車両が動かないのを確認すると、ドアを開けるためにノブへと手を掛けた。しかし、手は宙に浮いたまま触れる行き場をなくした。
開けられたドアの向こうには気のいい笑顔を浮かべた青年が立っていた。紫がかった銀髪と褐色の肌の、珍しい組み合わせはレヴィアも忘れようがない。審議の間で、見開いた目が閉じられないほどの大金を出してみせた従者だ。あれだけの吹雪に見舞われているというのに彼の周囲に雪はなく、停車した場所は屋根のあるところだとわかる。
「お待ちしてました。レヴィア・セオトランテ嬢」
「お止めください。もう家からは離れました、レヴィアで構いません。口調も気になさらずにお願いします」
「そう、ですか? じゃあ、ようこそ。我らの城に」
まるで客人を迎える振る舞いだ。物のように扱われるよりはいいが、些か奇妙な感覚もある。
青年が指を鳴らすと玄関のドアが開き、ホールが彼女を迎え入れた。一歩踏み入れると青年は手元のランプを掲げて、もう一度指が鳴らす。二人の一番近くにあったランプが灯り、連鎖してラインを描くようにホール全体と二階まで繋がる階段に設置されたものへと光が連なっていく。
パフォーマンスだと思う反面、照らし出される装飾にほうとレヴィアは感嘆を吐く。王都で見た城ほど豪華絢爛とは行かない。古城であるがゆえに色味は限りなく控えめでも、手すりや柱に彫られるものは繊細だ。思わず見惚れる彼女の横に、青年は並んだ。
「髪、切ったんだね」
「はい。もう結う必要もありませんし」
初めて城爵と従者が見たレヴィアは濡れた烏のように美しい、青光する黒髪をまとめ上げていた。主要貴族と王族の敵意と侮蔑に満ちた視線をものともせず、背筋を伸ばして静謐に立っていた。薄青の氷のような目も相まって冷たくも、より人目を引いていた。
それが、今では肩の長さで切られている。長髪は維持にも金がかかり、資産の表れとも取れる。これであれば簡単にひとつに結べる。まとめた髪も軽く、邪魔にならない。容姿は個人様々で好みがあるが、あれだけの髪を切るのは躊躇がいるだろう。
断髪の心情を想像し、青年は少し眉根をしかめた。対して、レヴィアの顔はあっけらかんとしている。勿体無いが必要であれば仕方ない、とでも言わんばかりだった。
青年は歌うようにやってきた元令嬢の身元を振り返った。
「レヴィア・セオトランテ。魔術学院の卒業生。【緑】の下流貴族の次女で、稀代の悪女……本当に悪女?」
「悪女は自ら名乗り出ないものです。周囲の評判だけが評価です」
「かもね。王都にいたご令嬢様も今はオーガストが買った、城の所有物のひとつだ」
二人で階段を昇りきり、絨毯の敷かれた廊下が足音を吸った。ちくりとした物言いがレヴィアに自身が置かれた状況を再認識させる。否定する気はなかった。彼の言うとおり、金で買われた身分だ。
極力悲観せずにありのまま同意しようとしたレヴィアに、彼は向き直った。
「だとしてもだよ。君は城に来た一人のお嬢さんなんだよね」
青年は手袋をはずし、右手を差し出した。それが友好の証だとわからないものはいないだろう。
「改めまして、レヴィア。俺はアスター。この城のたったひとりの執事で、ぼっちな引き籠もりの貴重な友人で、腐れ縁ってやつさ。よろしく」
差し出された手は取られずにいると、痺れを切らして微かに上下に振られる。遊びを待ちきれない子犬の尻尾に見えて、思わずレヴィアの口元が緩んだ。緩やかな綻びに乗って、握手を交わす。
「アスター、ですね。よろしくお願いします」
「オーガストはこの階段の先にいる」
レヴィアは驚いた。彼には自分に対する口調は気にしなくてもいいと言ったが、仕えている主人をも呼び捨てにしている。淀まずに自然に飛び出したところを見ると、普段から接する口調が砕けているに違いない。かといって主を馬鹿にせず、職務を怠慢している様子もない。珍しい従者もいたものだ。
背後にいる気配が動かないのがわかったのか、五段先で青年が振り向いた。たじろぎすら表情に出ない少女を悪戯な猫目がにんまりと笑っている。
「気になる? この言葉遣い。従者なのに、って」
見透かされていると気付かないほどレヴィアも鈍くはない。息をはいて、素直に謝罪する。
「ええ、そうです。気分を損なわせてごめんなさい」
「いい、いいよ。謝らなくていい。だって君は客じゃないしね。こういうのも聞かせたって平気さ」
含みのある台詞とともに茶目っ気でレヴィアを笑い飛ばし、再び軽やかに階段を進む。レヴィアも早足に昇り、彼の一段後ろに付いた。木製の段を上がる2つの足音が軽快に反響する。
アスターがオーガストを引き籠もりと称したのは、あまり彼が王都に出ないせいもあるのだろう。主人の部屋に付くまで、アスターは王都の様子をレヴィアに尋ねた。今の流行や民の振るまい、都の環境についてだった。
従者ならばあまりアスターも王都に出ないのだろうとレヴィアは判断し、元王都民として素直に答えた。相手が聞き上手なこともあってか楽しげな談笑が響いていたが、アスターは廊下の中央付近のドアの前で足を止める。急に静かになった彼にレヴィアも倣って、口を慎んだ。
この茶色い木製ドアの向こうに、オーガストがいるのだ。ココンと半端なリズムでアスターがノックすると「どうぞ」と低い返事が聞こえた。菫色の目がレヴィアに付いてくるように指示し、ノブを回した。
「レヴィア・セオトランテが到着したので、挨拶に連れてきました。さ、旦那もレヴィアもどーぞっ」
「……失礼します」
背筋を正したレヴィアは足を踏み入れる。部屋の奥には窓を背にして机に向かう城主がいた。
相変わらずオーガストは黒いフードを被っている。下がる室内灯が発する光でフードの中が影になるのは当たり前だが、彼に一番近い卓上ランプの灯りをもってしても、その顔は見えない。
レヴィアは腰と膝を曲げ、丁寧に深々と頭を下げる。彼らの空気が変わったことに気付いても、改めて購入者へ挨拶をした。
「此度は私の不始末が故の処分に対し、心を砕いてくださりありがとうごさいました。言葉尽くしきれぬ感謝をいたしております。この身で出きるうる限りの誠意を込めてお応えしたいと思っております。無作法、不手際もあるかと思いますが、どうぞお申し付けください」
オーガストからの声掛けがあるまで頭を上げられない彼女は、微かな戸惑いを感じ取っていた。理由が自身の態度から来ていることも察している。稀代の悪女と呼ばれた女が簡単に頭を下げるのだ。
己の行為を後悔し反省をしているのか。まだ反逆を狙って、従順な振りをしているのか。疑念を抱かれても仕方ない。レヴィアにとっては両方とも違う。現状に従うのは道理であり、自身の行いに後悔と反省もしていなかった。身ひとつで魔獣蠢く砂漠や森へ追放されずに済んだ。それだけで幸運と言えよう。しかし悲しませてしまった家族や友人に対してだけは、拭い去れない後悔がないとは言えない。
まだ自分のなかで燻っている思いを無視し、レヴィアは新しい主に頭を下げ続けた。
「……顔を。レヴィア・セオトランテ嬢」
闇の中から生まれた声はひんやりとしていた。初対面で聞いた吹雪荒れる城外のような冷徹さはなく、避暑地の深緑を浴びたと思わせる落ち着きが感じられる。
オーガストは卓上で指を組み、何か考えているようだった。レヴィアは頭を上げ、彼の言葉を待つ。
「以降、令嬢として呼びはしない。今後はただの【使用人】として扱う。元貴族として返り咲くことはない」
「全て承知の上です」
「仔細は明日からだ。今夜は休むといい。明朝からアスターの指示を仰ぎ、私の物として生を歩むことになる」
「心得ております。ノーザリウス様」
「アスターに部屋に案内させる。夕食も運ばせよう」
「いち使用人へのお気遣い、痛み入ります」
またレヴィアが深々と一礼する。部屋を後にするようアスターに促されるまで顔をあげなかった。背を向けて出る間際、レヴィアはちらりと主人となる城主を盗み見る。やはり顔は見えなかった。
上ってきた階段を降り、居間や談話室の扉を過ぎて、厨房とおぼしき場所に近い小さな扉の前で二人は止まった。
「此処がレヴィアの部屋だよ。戸のわりに案外なかは広いし、綺麗だから。必要なものがあったらすぐ準備するから言って?」
「大丈夫です、寝て着替える場所があれば十分です」
アスターがドアに伸ばした手を制し、レヴィアは自ら率先して開けた。埃臭さはなかった。日に焼けて薄ぼけたエメラルドグリーンの壁紙。ニスの剥げかけたダークウッドの家具が置かれた静謐な部屋。寒々しさはなくとも物寂しい雰囲気は伝わった。物書きは十分に行える机に荷物を乗せ、ベッドに近づく。
ベットメイクは完璧だった。シワもシミもない清潔なシーツ。弾力のあるスプリングと枕も揃えられている。買われた身分が休むには十分すぎるあつらえだ。アスターに向き直って一礼するレヴィアに評判はやはり似合わなかった。
「ありがとうございます」
「別にいいって、だって新顔なんだからさ。明日からよろしくね」
「はい。よろしくお願いします」
アスターと別れ、ドアが閉められる。コートをクローゼットにかけるやいなや、レヴィアは靴も脱がずにベッドに寝転がった。令嬢にあるまじきだらしなさだが、時間を掛けて移動してきた自身を彼女は許した。
疲れていた。さすがに疲れたのだ。
首なし卿であるオーガストの元に来たことも。鞄ひとつで王都を出たことも。悪女の汚名を着せられていることも。身に覚えもない罪状で議会に出頭させられたことも。
だが。大切な家族や友人がこれから不幸に苛まれなければ、レヴィアの疲れにも意味がある。疲れるのは今日だけだ。今日だけは、憂いに浸ろう。明日からの私は、ただのレヴィアになる。身寄りのいない孤独なメイド。言い聞かせるたびに彼女の心には壁の向こうよりも強い雪風が吹きつけた。
部屋に悪女はいない。ベッドで寝転ぶのは、周囲の幸せを祈っている一人の寂しげな少女であった。
濡れ衣は脱げなくても、メイド服は着れます 燦月夜宵 @yayoi_841
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