第9話  玉皇太后の思惑

 ちょう飛燕ひえんが正式に貴妃に任じられてから、三日ほどが過ぎた。

 明鈴めいりん燕貴妃えんきひの首席女官として宮廷および後宮の出入りを皇帝からじきじきに許された。また燕貴妃にはお世話係として数人の女官がつくことになった。そのうちの一人に小梅シャオメイも選ばれた。それは明鈴の推薦でもある。少しでも気心がしれた人物を燕貴妃のもとに置きたかったからだ。

 

 皇帝が公務から戻られたというので燕貴妃は明鈴めいりん小梅シャオメイを伴い、迎えに行く。

 宮廷と後宮を繋ぐ廊下は一本しかない。その廊下を通り、宮廷から後宮に入ることができる男子は竜帝国においては皇帝ただ一人である。付き添いの宦官も出入りはできるが、彼らは男子と見なされていない。

 皇帝竜星命は烏次元をつれ、後宮にやってきた。

 すでにその廊下の右端には背の高い女性が十人ほどの女官を引き連れ、壁際に立っていた。

「ご機嫌うるわしゅう、霊賢妃様」

 ていねいにお辞儀し、燕貴妃は挨拶する。

 燕貴妃が挨拶した相手はもう一人の夫人の地位にある霊文姫という名の女性であった。本来夫人の地位にあるものは四人であったが、皇帝竜星命の削減政策により、一人にまで減らされた。それが燕貴妃の出現により、二人にふえたのである。ちなみに正室である皇后はいまだ決まっていない。

 その皇后候補が毎夜のように呼ばれている燕貴妃ではないかというのが、後宮の女官たちのうわさであった。

 霊賢妃はちらりと見るだけで、声をだして挨拶などしない。

 それは身分の低い出のものと直接話すと自身の身がけがれるという考えからくるものだ。これはなにも霊賢妃だけのことではなく、皇族貴族の基本的な思想であった。

 誰とでもわけへだてなく話す皇帝竜星命のほうが異質といえた。


「何よ、お高くとまって。皇帝陛下に一度もお声をかけられたことがないのに」

 霊賢妃の態度を見て、小梅シャオメイが悪態をつく。

 その声は小さかったが、霊賢妃のお付きの女官には聞こえたようで明らかに殺意のこもった目で小梅はにらまれた。

「ひかえなさい、小梅シャオメイ。もうすぐ、皇帝陛下がいらっしゃるわ」

 明鈴は小梅をたしなめる。小梅ははーいと悪ぶれることなく、返事だけをする。

 まったくと明鈴は頭が痛くなる思いだった。

 こんなつまらないいざこざなんてのに気をつかいたくないのに。

 女同士の争いなんてなんの生産性もないことに明鈴は精神力を使いたくなかった。明鈴自身は争う気はないのだが、向こうからいやがらせをふっかけてくるのだからたまらない。


 皇帝がその唯一の廊下を渡り、後宮に入ってきた。

 ゆっくりとお辞儀を霊貴妃はする。それは完璧な所作であった。化粧も着ている物も最上級のものだ。霊賢妃は夫人として完璧であった。

「出迎えごくろう」

 その霊貴妃に皇帝竜星命は事務的にそういうだけであった。


 すたたっと駆けるように皇帝に近づき、燕貴妃は皇帝に抱きつく。皇帝は燕貴妃の小さな体をぎゅっと力強く抱きしめる。

「お仕事お疲れさまです、お兄ちゃん。今日も偉かったね」

 燕貴妃は頬をすりつけながら、そう言った。それは不敬で無礼な物言いであった。だが、彼女は決してとがめられることはない。むしろそうすることによって皇帝に深く愛されるのだ。

 それは決して霊賢妃にできることではなかった。名門貴族出身の彼女はそんなことはできないのだ。

 今日も皇帝は燕貴妃を伴い、自室に向かうのであった。


「あの悔しそうな顔みた明鈴姉さん」

 小梅は鼻唄まじりにそう言った。

「そうね」

 霊賢妃はたしかにくやしそうな顔をしていた。ぽっと出の身分の低い燕貴妃に皇帝の愛を奪われたのだ。まあ、もともと愛されていなかったがそれは他の後宮の美女たちも同じだから、それはそれでよかった。だが、いきなりあらわれた張飛燕という不美人が皇帝に愛されるなんて。そんなことはおきてはいけないことだった。明鈴は霊貴妃がはらわたが煮えくりかえっているのが手にとるようにわかった。以前、霊賢妃が使っていた匙をもったことがあるからだ。

 そこから得られた印象イメージはどす黒くて汚いものであった。

 


 翌日の昼、烏次元はとある貴人が明鈴にあいたがっているというのを伝えた。

「旦那様、その方とは?」

 明鈴は烏次元に訊いた。

「玉皇太后様だ」

 烏次元は言った。

 その人物は国母とも呼ばれる女性だ。皇帝竜星命の実の母親である。その方が何のようだろう。

 明鈴は見当もつかなかったが、皇帝の実母に呼び出されたのだ、いかない訳にはいかない。

 

 明鈴は烏次元につれられ、玉皇太后の自室に向かった。そこは赤を貴重とした豪華な部屋だった。奥の椅子に座っているふくよかな女性が玉皇太后であろう。数人の女官が静かに控えている。

「烏明鈴、お召しにより参りました」

 明鈴は深くお辞儀をする。

「楽になさって」

 玉皇太后は女官の一人に命じて茶と菓子を用意させた。向かいの椅子に座るように明鈴に言った。

「失礼いたします」

 明鈴は浅く腰かける。

 お茶の良い匂いが鼻腔をくすぐる。色といい香りといい、かなり高級なものに思われた。烏次元に習って明鈴は多少の茶の知識を得ていた。どうやら自分は歓迎されているようだ。目の前のお茶と菓子を見て、明鈴はそう思った。

「あなたが星命に飛燕を紹介したのね。これでその飛燕が身ごもれば帝国は安泰だわ」

 すっと優雅に玉皇后をお茶を飲む。

 その言葉の真意は身ごもらなければ、帝国はまた十年前の八王の乱のような存亡の危機を迎えるだろうという意味だと明鈴は受け取った。

「単刀直入にいうわ。烏明鈴、あなたには少なくともあともう一人星命が好きになるような女性を探してほしいの」

 やわらかな笑みを浮かべながら、玉皇太后は無理難題を明鈴に言った。

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