第2話 宦官の妻

 宦官の妻になれ。

 それは奇妙な提案だった。

 男子としての機能がない宦官に妻など必要なのだろうか?

 そのような疑問が明鈴めいりんの脳内に浮かぶ。

 奇妙ではあったが、明鈴はこの提案を受けようと考えた。

 答えは単純だ。

 このままここにいてはいずれ死を待つだけだ。やはり、そんなのはまっぴらごめんだった。顔も知らない男のために死ぬのなんて、絶対に許容できない。それならば宦官の妻となってでも生きていたい。

 単純な生存本能が明鈴の人生にとって重要な決断をいとも簡単にさせてしまった。


「わかったわ。ここから出られるのなら鬼でも蛇でもなんでもいいから、嫁ぐことにするわ」

 明鈴は決意する。


「まあ、次元様は鬼でも蛇でもありませんわ」

 頬を赤くして小梅シャオメイはぷんぷんと怒りだす。丸顔の少女が怒りだす姿がどこかこっけいだと明鈴は思った。


「私はかまわない。では明日の朝迎えにくる。くれぐれもはやまらないように」

 そう言い、烏次元はすっと牢の檻の間をぬい、手を伸ばして明鈴の頬にふれる。

 触れられた瞬間、明鈴はしまったと思った。何故なら物の記憶を読みとれる彼女にとって触れられるという行為は禁忌に近かったからだ。他人の感情が直接自分の心に流し込まれる。たいがいの人間は心に闇を抱えている。そんなものを心に入れられたら、良くて気分が悪くなり、最悪気絶して何日も目覚めない。

 明鈴が二十歳になる年まで結婚しなかったのはこのような理由からである。



 あれっ……。

 それは不思議で今まで感じたことのない温かさであった。優しさが温もりとなり、心が満たされる。でも、ほんの少しだけ冷たい。それはきっとこの人の寂しさの象徴なのだと明鈴は理解した。

 この烏次元という宦官の手はなんと温かで心が落ち着くのだろう。

 もっと触っていてもらいたい。

 そのように思うようにまで明鈴はなっていた。

 だが、気がついたときには次元じげんとあの騒がしい小梅シャオメイはいなくなっていた。



 それからの時間は明鈴にとっては無限にも思えるほどの長さだった。もし、約束したはずの烏次元が迎えにこなかったらどうしよう。

 そんな考えが浮かぶと言い様のない不安におそわれる。もしかしたら、石牢に閉じ込められ、どうかしてしまった自分が見た夢ではなかろうか。

堂々巡りの不安のなか、結局一睡もできずに明鈴は朝を迎えた。


 そして、烏次元は約束通りやってきた。手に持っている鍵で牢を開ける。

 小梅シャオメイが牢に入り、手をかす。

 一月ひとつきほど石牢に閉じ込められていたため、足腰が痛くてうまく動かせない。

「明鈴さん、けっこうにおうわね」

 くんくんと匂いをかぎ、小梅は言う。

「仕方ないじゃないの。水浴びはおろか、体もふかせてもらえなかったのだから」

 明鈴は言う。


 それにろくに食事もとっていないので、彼女は痩せ細っていた。


「じゃあ、屋敷に帰ったらお風呂にはいりましょうね」

 小梅はそう言い、明鈴を牢屋から連れ出す。

 少女に歩くことを助けられながら、明鈴は外に出た。一月ぶりの朝日はあまりにもまぶしい。

 用意された馬車に乗り、明鈴たちは移動する。



「これからおまえは烏明鈴としていきるのだ。書類上、李明鈴はあの牢屋で病死したことになった。おまえは私の妻としてこれからを生きるのだ」

 馬車の中で烏次元は言った。

 明鈴は干した杏を食べながらその言葉を聞いた。干し杏は小梅が用意したものだ。ほんのりとした甘味が心地よい。


 烏次元の言葉は彼がかなりの権力があることを証明していた。下級女官の生死ぐらいは彼ならばなんとでもできるのである。

「じゃあ、これからは私たちと家族だね」

 烏次元の言葉を聞き、小梅はうれしそうに微笑む。聞けば彼女の姓も烏ということだ。

 親に捨てられ、路上でものさらいなどをして飢えをしのいでいたところを烏次元に拾われ、彼の妹になったのだという。

 もしかしたら、この人はこんなに冷たそうな見た目をしているのに温かな優しさを持っているのかもしれない。明鈴はそう思った。

 昨晩、ふれられ心に流し込まれた温かさはいまだに忘れられない。


 半刻ほどで馬車は屋敷にたどり着いた。

 烏次元の屋敷はそれほどの広さではなかった。庭の梅の木がきれいな花を咲かせている。

 明鈴たちを出迎えたのは麻伊まいというの名の老婆であった。年は七十半ばで烏家うけの家事全般をとりしきっているのだという。

 他に人はいないのかと明鈴は小梅に聞いたが、これで全員だと言われた。

 宦官の頂点にたち、後宮の一切をとりしきるこの烏次元の屋敷に住むのが、 これだけだということに明鈴は素直に驚かされた。

「これからは奥様をふくめて三人になりますね」

 にこやかに微笑み、麻伊まいは言う。彼女も烏姓うせいを与えられて、この屋敷に住んでいるのだと語った。

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