怪談
山口遊子
怪談
大正十二年、東京の下町で下宿する一人の青年がいた。彼の名前は、田中
克己は大学で、学友の小田
「俺、昨日、夜中に一人で歩いてたら、変な女を見たんだよ」
「変な女って?」
「顔は見なかったけど、裸足の上に長い髪が乱れてて、着てる服は泥だらけの小柄な女だった。なんか怖かった」
「どこで見たんだ?」
小田はその場所を克己に教えた。
「なんでまた、そんな道を夜中に通ってたんだ?」
「俺にもいろいろあってな。分かるだろ?」
あの道をまっすぐ行けば確か吉原だ。小田の言う意味を何となく察した克己だったが、女の話に興味が湧いた。
克己はその夜、小田が言った場所に行ってみることにした。
小田が言った場所は、克己の下宿からそれほど遠くない場所で、表通りから入り込んだ小路だった。小路の両側には土蔵が連なっている。人通りも絶えた小路を挟む土蔵の壁と壁の間から見える星明りだけの暗い道だった。
「今思い出したが、ここは以前通ったことがあった」
克己はそのときのことを思いだしてニヤリと笑いその道を歩いた。
しばらく歩いていると、女が道の真ん中に立っていた。髪の毛が乱れているかどうかは暗くて分からなかったが女は小柄で、裸足ということは分かった。確かに普通ではない。小田の言っていた女に違いない。
「誰だ?」
克己は女に尋ねた。
女は何も答えずただ立っているだけだった。
女はゆっくりと克己に近づいてきた。近づいてくる女の長い髪は乱れ、着ている洋服は泥で汚れていた。
克己は急に怖くなって女から逃げようとしたが、体が言うことを聞いてくれなかった。女が克己の腕を掴んで背伸びするように顔を克己の顔に寄せ耳元で囁いた。克己の腕を掴む女の手は驚くほど冷たかった。
「見つけた」
克己は目を閉じた。背筋に冷たいものを感じた。両腕には鳥肌が立ち膝は震えた。ドク、ドク、ドク、ドクと、心臓が鳴り呼吸も浅く速くなっていた。
しばらくそうして、ふっと気付いたときには克己の腕から女の冷たい手の感触がなくなっていた。恐るおそる薄目を開けたら女はいなくなっていた。
克己は女が消えてもしばらくその場に立ち尽くしていた。
克己は大きく息をして何とか息を整え、震える膝に何とか力を込めてその小路から表通りにまろび出て帰り路を急いだ。
下宿の自室に帰り着いた克己は、畳に布団を敷いて倒れ込むように横になり、上から布団をかぶった。怖くてしばらく寝つけなかったがそのうち眠ってしまった。
翌日。
克己は、小田に昨夜の話をした。
「田中、あの女に遭ってしまったのか? うわー」
「何だよ?」
「俺も気になってあの道の手前にそば屋があるだろ? そのそば屋で親父に女のことを聞いたんだよ。そば屋の親父が言うには、二年前のこと、地方から出てきてこの町で暮らしていた女学生があの道で物取りに手籠めにされたうえ首を絞められ殺されたんだそうだ。女学生は成仏しきれず、今でもあの界隈をさまよっているって話だ。まかり間違えて幽霊と口を聞くと取り憑かれて殺されるとも言うし、少しくらい遠回りしても、俺はもうあの小路は通らないことにする」
克己はその日から、夜中に外出することはしばらく控えようと心に決めた。
その夜。
布団に入って目を閉じていた克己の耳に部屋の扉がすっと開く音が聞こえた。その後、畳の上をするような足音も。
きつく目を閉じた克己の上に人の重みがかかった。克己は跳ね除けようとしたが体が動かない。目を開けることもできなければ声も出せなかった。
どこかに行ってくれ。
祈る気持ちの克己の耳元に息遣いが聞こえ、あの女の声がした。
「見つけた」
克己は女の言葉に震えた。
恐怖に震えたまま外が明るくなってきた。気付けば体の上に乗っていた重みも消え、目を開けることもできるし体も動かせた。
その日克己は学校を休んだ。食欲がなくなった克己はその日は何も口にしないまま布団の中で過ごし、夜を迎えた。
眠れぬまま迎えた夜半過ぎ、昨夜と同じように克己の上に人の重みがかかった。跳ね除けようとしたが今日も体が動かないし目も開けられなかった。もちろん声も出せなかった。
そして、耳元に息遣いが聞こえ、女の声がした。
「見つけた」
そんな日が3日続いた。
克己は憔悴しており、自分で立ち上がることもできなくなっていた。もちろん排泄は垂れ流しだ。下宿の六畳間は糞尿の異臭が立ち込めて、部屋の外に漏れ始めていた。
翌日。
学校に来ない克己のことを心配した小田が下宿を訪れた。下宿を営む老夫婦に案内され克己の部屋の扉を開けたところ、異臭でむせ返る部屋で布団の中に横たわる干からびた克己を見つけた。
のちの警察の捜査で克己の文机の引き出しから、女ものの空の財布が数個見つかった。
怪談 山口遊子 @wahaha7
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