3-8【見えない違和感】
「さ……! 部屋に戻りましょう! あみちゃんだったね? 部屋で眠れそうかな?」
そう言って神父は立ち上がった。
しかしあみは動こうとしない。
シスター和恵は黙して動かないあみの代わりに神父に言った。
「神父様……今夜だけはあみちゃんを私の部屋で寝させてあげられないでしょうか……? 明日からは皆と同じ部屋で寝るようにしますから。ね? あみちゃん?」
あみは何も答えず小さく頷いた。
それを見た神父は穏やかな笑みを浮かべて言う。
「ええ。それがいいかもしれません。部屋に戻ったらシスター和恵は一度私の部屋に来てください。あなたのお話を聞かなければいけませんからね?」
「はい……」
シスター和恵は落ち込んでいるのことを気取られないために、目が合ったあみに向かって舌を出してみせた。
あみは少し驚いたような顔をしてから再び視線を逸らしてしまう。
マリア像の下に差し掛かった時、前を歩く神父がふと足を止めた。
月明かりに照らされたマリアの顔を見上げ、神父は首をかしげている。
「どうかなさいましたか?」
「いえ……今夜はまた一段と優しいお顔をしているなと思いましてね」
シスター和恵も神父に倣ってマリアの顔を見上げた。
そこにはやはり諦めを孕んだような、憐れみと苦悶の表情が切り取られている。
神父がこのマリアの表情のどこに優しさを見出しているのか、シスター和恵には理解らなかった。
それでも、自分よりも遥かに神の御座の近くへと、
和恵は手を組み短く祈りのポーズを取った。
「行きましょう」
礼拝堂に神父の声が響き、三人は再び歩き始めた。
✝
シスター和恵はあみを自分の部屋へと案内した。
柔らかな光に満たされた部屋にあみを招き入れると、少女の頭に両手を置く。
その手を全身に沿わせるように何度も往復させながら、シスター和恵はブツブツと祈りの言葉を呟いた。
「恩寵賜るマリア……ここにおりますキリストの子羊を聖母の慈愛で包み給え……流れ落ちる悲しみの涙を慈悲の衣で拭い給え……」
不思議そうにするあみに、シスター和恵は笑顔を向けた。
「マリア様にお祈りしたわ。私が戻ってくるまであみちゃんの側にはマリア様がついてて下さるからね? すぐに戻って来るから待っててね?」
それを聞いたあみは俯いたまま、絞り出すように言った。
「シスターは……? 私のせいで怒られない……?」
今度は和恵が驚く番だった。
しかしすぐに笑顔に戻り、和恵はガッツポーズを作って言った。
「大丈夫よ! 私もお祈りしたんだから! 困ったときはマリア様とイエス様にお祈りすれば助けてくださるのよ?」
「ほんとに……?」
あみは疑うような縋るような顔で聞き返した。
「本当よ? 後でお祈りのしかたを教えてあげる」
そう言って和恵はあみの頭を撫でた。
「じゃあ、ちょっと神父様のところに行ってくるね」
あみが頷いたので、シスター和恵は部屋をあとにした。
✝
神父は珈琲を入れてシスターを待っていた。
扉を開くと、珈琲の良い薫りが漂ってくる。
「来ましたね? さて……シスター和恵。君はどうしてあんな場所へ?」
珈琲の入ったカップを差し出しながら神父が言った。
「実は……」
シスター和恵は正直に全てを話すことにした。
子ども達が幽霊を見たと言って不安がっていたこと。
幽霊の正体を突き止めようと夜中に出歩いていたこと。
子どもたちが礼拝堂で幽霊を見失ったということ……
「それで、シスターエレナにも相談したのですが……幽霊などありえないと叱られてしまって……」
「なるほど……それで自分で幽霊の正体を突き止めようと……」
「申し訳ありませんでした……」
「正義感は素晴らしいですが、行き過ぎればそれは
「はい……」
肩を落とすシスター和恵に、神父はにっこりと笑って付け加えた。
「しかし良かったですね」
「あみちゃんのことですか?」
「ええ。それもありますが、これで幽霊騒ぎは解決ということですよ。聖なる会堂に幽霊が出るなど、あってはならないことですからね。今夜のことはシスターエレナには内緒にしておきましょう」
そう言って神父はいたずらっぽく目配せした。
シスター和恵はほっと胸を撫で下ろし、神父の部屋をあとにする。
これでシスターエレナから大目玉をくらわずにすむ……
しかしそう考える頭の片隅には、まるで見えない一本の蜘蛛の巣ように、何かが引っかかっていた。
しかし若いシスターは、そんなこともすぐに忘れて、部屋で待つあみとの面白おかしい夜更かしに気持ちが移っていくのだった。
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