Case3.ひつじ達の失楽園
3-4【聖母を貫く刃】
大理石の床に月明かりが絹糸のように垂れ込める。
聳え立つマリアは光を宿さぬ石の眼で一点を見つめていた。
そこに浮かび上がる慈愛は無機質で冷たい。
それどころか、何処か諦観じみた悲しみさえ感じる。
しかしそれはある意味当然かもしれない。
ガブリエルの受胎告知はあまりにも有名だが、彼女が受けた預言はそれだけではない。
キリストを見るまで死ぬことがないという、ある種の呪いじみた啓示を受けたシメオンから投げ掛けられた預言。
キリストの惨たらしい死を暗示した呪いの言葉。
『剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう』
人々の罪過を一身に背負い、呪いと祝福を身に宿したキリスト。
マリアがどのような心持ちで彼を育てたのかは想像すらつかないが、この石像を造った人物は、どうやらそこに想いを馳せたらしい。
冷たい月光が音もなく降り
夢想の霧の中に迷い込みかけていると、奥の部屋に通ずる木戸がバタン……と音を響かせる。
その音は聖堂の中に木霊し、より一層の静寂と言いようのない不吉を運んでくる。
シスター和恵はローブをきつく身体に巻き付けると昼間の会話を思い出し、覚悟を決めて暗がりから立ち上がった。
✝
「いいですか!? シスター和恵……!! 金輪際この院内で荒唐無稽な幽霊話などおやめなさい!!」
エリザベス孤児院の院長でもあるシスターエレナはこめかみを痙攣させながら、神経質そうな深い皺が刻まれた顔をさらに緊張させて言いのける。
「ですが……子どもたちは実際に見たと……それにとっても怯えていて……シスター倫子だって……」
その名前を聞いた途端、シスターエレナの顔がわずかに歪んだ。
「お黙りなさい……!! これ以上反抗的なことを言うようでしたら、院の風紀を乱すとして法王庁に報告させていただきます……!!」
報告書の用紙を机に出し、指で何度も叩くシスターエレナの表情は強張っている。
「もしかして……おばけがお嫌いなんですか……? シスターエレナ……」
シスター和恵は覗き込むようにしておずおずと尋ねた。
するとシスターエレナは顔を真っ赤にして金切り声に似た怒声を響かせる。
「馬鹿を言うんじゃありません……!! キリストが十字架の死に打ち勝った時から、我々は悪魔に勝利しているのです……!! それを怖いだなんて……!!」
「いえ……私は怖いではなくお嫌いですかと……」
それを聞いたシスターエレナは鼻の穴を大きく膨らませて息を吸うと、風船のように萎んでいった。
いつの間にか立ち上がっていたことに気が付き、ゆっくりと椅子に腰掛けると、深い溜め息を吐いてから目の前の若いシスターに言う。
「失礼……そうでしたか……とにかく……これ以上幽霊話は禁止です。わかりましたね?」
シスター和恵はコクリと頷き、足早に出口に向かった。
これ以上のお説教は懲り懲りだった。
それでも若々しい正義感を胸に秘めたこの淑女は、引き下がるつもりなど毛頭ない。
シスターエレナが頼れない以上……
私が幽霊の正体を暴いて子どもたちを安心させなければ……
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