0-19【髑髏の丘に月】

 

 真っ暗な黄泉の淵から


 ひゅう……こぉぉぉ……

 

    ひゅう……こぉぉぉ……と

 

 悪魔の息遣いが聞こえてくる。

 

 

 青褪めた月明かりは粛々と幼き執行人を照らし出す。


 けて、乾涸びた骸のように成り果てた小さな手には、安っぽい木鞘の果物ナイフが固く握られている。

 

 それはまるで巡礼者が握りしめる小さな十字架ロザリオのようでもあり、救いを求めてやまない。

 

「主よ主よ。どうして私をお見捨てになったのですか?」

 

 どこかで誰かが叫んだ。

 

 その声は形容し難い苦悶に満ちており、少年は思わず耳を塞ぎたくなる。

 

 視線を上げると格子の嵌った窓が青白く浮かび上がっていた。

 

「救いはその手の中にある」

 

 誰かが囁く声がした。

 

 思わず少年は自身の手を見つめる。

 

 そこには鞘に入ったままの果物ナイフが静かに眠っていた。

 

「おやめなさい……!! 罪人は地獄の消えること無き炎で永遠にその身を焼かれるのです」

 

 聞き覚えのある声がした。

 

 少年は思わず息を呑む。

 

 ゆっくりと、縋るように振り向いた先には、底無しの闇が広がっていた。

 

 磨硝子の引き戸の向こう、一際暗い闇の奥に神父が立っている。

 

 裁きを行う御使いの如き怒りを携え、厳格な表情を浮かべた神父の顔は、何故か影に隠れて見ることが出来ない。

 

 顔から下を月明かりの中に浮かび上がらせた神父は、掠れた声で尚も続ける。

 

「屠られた仔羊のように、あるべき運命を受け入れなさい。その手と足に釘を打ち、息絶えるまで苦悶に顔を歪めながら、この世を呪い、生を呪い、己の罪を悔いるのです」

 

 見るとその手には重たい金槌と、太い釘が握られていた。

 

「嫌だ……そんなの嫌だ……」

 

 少年が消え入るように呟くと、天井の方から再び声がした。

 


「救いはその手の中にある」

 

 咄嗟に見上げた少年は思わず尻もちをついた。

 

 天井の中心に顔が浮かび上がっている。

 

 まるで柔らかな石膏に背後から顔を押し当てたような、生と死の狭間の顔がそこにはいた。

 

 カチカチカチカチ……

 カチカチカチカチ……


 異様に早い秒針の音が聞こえる。


 カチカチカチカチ……

 カチカチカチカチ……



 気が狂いそうになりながら少年が見上げた先では、母が笑みを浮かべながら男の耳に何かを囁やこうとして、手のひらをそっと男の耳に近づけていた。

 

「屠られた仔羊のように罰を受けなさい」

 嫌だ……

「救いはその手の中にある」

 助けて……

「永遠の地獄で焼かれ苦しみ続けなさい」

 死にたくない……

「救いはその手の中にある」


 殺し……



「気が済むまでこれ続けるから」


 背中の火傷が酷く痛んだ。


「ベルト。わかるな? わかったらさっさとシャツ脱ぐんだよ!!」


 何度も打ち下ろされるベルトに背中の皮膚が皺々になり、やがてめくれ上がって赤い部分が剥き出しになる。


 堪えきれずに悲鳴をあげた。


「なんだ? 女みてえな声出しやがって!?」


 男は嬉しそうに叫んで罵った。



 やめて……やめて……




「ガキをバラしてずらかる」


 最後に聞いた男の言葉が蘇り、少年の頭蓋の奥で何かが弾けた。



 コロサレル……


 

 少年は鞘を投げ捨てると果物ナイフを両手で握り、悲鳴をあげて駆け出した。

 

 背後では神父の黒い影が呪いの言葉を繰り返し祈っている。

 

 天井の顔は高らかに賛美歌を口ずさむ。

 

 地面を激しく踏み鳴らす馬の蹄と、異端者を葬る聖職者達の怒号が響き渡る。

 

 ナイフに月明かりが反射した。

 

 少年はいつしか雄叫びをあげている。

 

 男の腹に飛び乗ると、男は苦悶の声をあげた。

 

 男の太い腕が迫ってくる。

 

 男は血走った目で何かを叫んでいる。

 

 聞こえない。

 

 呪いの声と賛美の歌と戰場の騒乱と出したことのないような大きな声。

 

 それ以外何も聞こえない。

 

 少年は夢中でナイフを突き刺した。

 

 ぬっとんぬっとんと腰を打ち付ける音がする。

 

 生温かい体液の音がそれに混じる。

 

 狂乱の声。


 異端者の悲鳴。


 魔女たちの嬌声。 


 響き渡る喝采。

 

「死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね」

 

 夢中で刺し続けた。

 

「お前なんて死んでしまえぇえええええええええええ……!!」

 

 そう叫んだ時、少年を柔らかな手が抱きとめた。

 

 

 それでも何かに憑かれたように少年の手は刺すことをやめない。

 

 頭を撫でられながら、やがて少年の手から、ぬるり……とナイフが抜け落ちる。

 

 男の真っ赤に抉れた胸にナイフは突き刺さったまま、ぬるり……と少年の手から離れ去る。

 

 

「あーあ。殺しちゃったね」



 その言葉で少年は我に返る。 


 血の臭いに吐き気がした。


 見開かれた男の眼と、だらりと垂れ下がった分厚い舌を見た時、少年は何も吐くものが無い胃を激しく痙攣させて、緑の胆汁を吐き散らかす。 



 僕は……ころ……


 ガクガクと震える手は、べっとりと黒い血で汚れている。


 青褪めた月明かりに照らされた、黒い血糊にまみれている。


「僕は……僕は……殺されたくなくて……地獄に落ちたくないから、だから……!!」 



 叫ぶ少年を制して、母は静かに笑って言った。



「ママを守るために殺してくれたんだよね……?」

 


 その言葉で、その夜初めて、心臓が動いた気がした。

 

 目を細めて微笑む母の顔を見ながら、少年はその毒を飲み下し、小さく、微かに頷くのだった。

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