0-15【血痕】


 神父が会堂の暗がりに吸い込まれるのを見送るのとほとんど同時に、錆びた鉄のアーチの下、半開きになった門の辺りに何かが動く気配がした。



 少年はそちらを見たくなかった。


 それでも見ないわけにはいかなかった。



 身体の奥底から湧き上がる震えと、狂ったような心音を抑えつけ、少年は顎を門の方に向ける。


 レンガを白くペンキで塗った門柱の影に、半分身を隠すようにして母が立っていた。

 

 笑って手招きする母を見て少年は神父の言葉を思い出す。


 

「いいですか? すぐに戻ってきます。君はここを動いてはいけません。わかりましたね?」

 

 

 行けばもう戻れないような予感がした。

 

 同時にとどまってもまた、元の形には戻れない。

 

 そんな予感があった。

 

 

 客観的に見れば迷う必要など何一つ無い選択でも、少年にとっては恐ろしい。

 

 光の扉の向こうに広がる当然受けられる庇護の存在を少年は知らない。

 

 なによりも、母はどうなるのか……?

 

 愛着という名の鎖が、少年の首を締め付ける。

 

 

 身じろぎ一つ出来ず、呼吸もままならなくなった少年を、いつの間にか側に立っていた母が優しく抱きしめた。

 

「ごめんね? お腹すいたんだんよね?」

 

 少年は小さく頷いた。

 

 果たして本当にそうだったのだろうか……?

 

 頭の中に張り巡らされた埃っぽい蜘蛛の巣が、音もなく少年の思考を絡め取ってしまう。

 

 母は少年を抱き上げて頬を寄せた。

 

「帰ろっか? ご飯作ってあげる」

 

 少年はわずかに会堂の方を振り向こうとした。

 

 しかし会堂に振り向くより先に、母が乾いた咳をする。

 

 ケホ……

 

 見ると母の口元から血が流れていた。

 

 母は無表情でそれを拭うと、少年を地面に降ろして手を差し出し言う。

 

「早く行こ。ここは空気が悪いよ」

 

 母の手には拭った血の跡が残っていた。

 

 それを見た少年は、躊躇いなくその手に自分の小さな手を重ねる。

 

 母はそれを確認すると、繋いだ手をブンブンと振りながら門の方へと駆け出した。


 脇をくすぐりながら走る母に、少年は照れくさいような、泣き出したいような気持ちになって頭の中が掻き乱される。


 ちょうど門を通り過ぎた辺りで、母はくすぐる手を止めて立ち止まった。



 ケホ……ケホ……



 再び口元から垂れ下がった血痰を、母は手の平で受け止める。

 

 しばらくそれを眺めていたかと思うと、おもむろに白い門柱に塗りつけた。

 

 掠れて剥げかかった白いペンキの上に、どろり……と血の跡が手形を残す。

 

 長く伸びた指の跡が、まるで魔女の爪のようで、少年は落ち着かない気持ちになった。

 

 

 見上げると、母は聞いたことのない異国の言葉で何かを呟いている。

 

 その声は酷く気味が悪く、邪悪で、穢れた音をしていた。

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