0-12【地獄篇】


 少年は地獄の中にいた。

 

 夜な夜な響き渡る嬌声と、腐乱した精液の臭いを覆い隠す芳香剤。

 

 罵声とともに振るわれる理不尽な折檻は、容赦なく少年の背中を焦がし、血の味と胃酸の味を噛み締めながら、少年はゴミ袋の脇で眠りにつく。

 

 目が覚めると、決まって母は白い光の中で、肌が透けるような布を纏って微睡んでいた。

 

 少年の縋るような視線に気づいて目を覚ましても、妖しい微笑を投げかけ、声を出さずに何かを囁くだけだった。


 


 じゅく……じゅく……

 

 近頃は右の側頭葉の中で何かが這いずる音まで聞こえてくる。

 

 案内人のウェルギリウスもいなければ、天界へと少年を導くベアトリーチェもここにはいない。

 

 ひたすらに交尾を繰り返し、ゴミ溜めで、ぬめるシンクで、増殖する蝿と蛆だけが、不快な音を立てながら少年を何処かへと駆り立てた。

 

 じゅく……ぐじゅる……

 

 また何かが頭の中を這いずった。

 

 憎い……

 

 誰かが耳元で囁く声がする。

 

 誰が?

 

 痛む身体に気を遣いながら、少年は部屋を見渡すがそこには誰もいない。

 

 カーテンを透過して差し込む昼下がりの白い光に目が眩み、酷い頭痛がした。

 

「憎い……」


 少年は部屋に誰もいないことを確認すると、何かを確かめるように、言葉の意味を咀嚼するように、その言葉を口に出してみた。




「誰が?」




 今度ははっきりと耳元で声がした。


 少年がびくりと身体を震わせ振り向くも、そこには誰もいなかった。


 ばくばくと心臓が音を立て、それに合わせて側頭葉が激しく痛む。

 

 床にうずくまって痛みに耐えていると、散乱するゴミの中に落ちたビスケットの袋に目が留まった。

 

 袋はブルブルと小刻みに震えたかと思うと、中から黒い蝿が飛び出していく。

 

『チョコサンド』

 

 そう書かれた袋の文字を、少年は読むことが出来ない。

 

 しかしその文字には見覚えがあった。

 

『サンドイッチ』

 

 あの夜ファミレスで見たメニューにはたしかにそう書いてあった。

 


 サンドウィッチ……

 

 その言葉と同時に、少年は神父の優しい笑顔を思い出す。

 


 気がつくと身体が震えていた。

 

 誰に聞かれることもない嗚咽を漏らしながら、少年はポロポロと涙を流し、床の上に寝そべったまま自身の身体をきつく抱きしめるのだった。

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