0-11【喘ぐ】


 

 咽返むせかえるような花の匂いで、少年は目を覚ました。

 

 見ると顔の脇には蓋の開いた芳香剤が転がっている。



 背中が酷く痛い。


 腹も痛んだ。


 口の中には血の味がして、舌で触ると頬の内側がズルズルに爛れているのを感じる。




 匂いに耐えきれず少年が芳香剤の容器を払いのけると、黒いゴミ袋が散らかる部屋の奥からギシギシと何かが軋む音がした。

 

 ゴロゴロと音を立てながら芳香剤の容器が床に円を描いたが、少年は部屋の奥を見つめて息を止めたまま動けない。


 ぬっとん……ぬっとん……と


 肉を打ち付けるような……


 湿った音。



 黒黒とした大きな蝿が、シンクで二つ重なり合っている。



 ギシギシギシギシギシギシギシギシ……


 相変わらず何かが軋む。


 激しさを増して、軋む。



 ぶちゅ……ぐちゅ……と


 何かが潰れるような音がする。



 それと同時に悲鳴があがった。


 内臓の奥深く、敏感な肉塊を、捏ね回されて、悲鳴をあげる。



「ああ……!! んっ……」

 


 それは甘い吐息が混じった母の声だった。

 

 同時に男が何かを叫んだ。

 

 しかしその言葉の意味するところを少年は知らない。

 

 ただ酷く淫靡で、触れてはならない聖なる物を、汚辱に塗れた手でぬるぬると撫で回すような嫌悪感が、鼻腔の奥を蹂躙する。

 

 それと同時に、背骨の奥から迫り上がってくるようなむず痒さ。


 神経の上を虫が這うような、くすぐったいような、身をよじりたいような刺激が、脊髄を伝って仙骨の内側で渦を巻く。

 

 

 結局微動だに出来ずに固まっていると、ガラガラとガラス戸の開く音がして裸の男だ姿を現した。

 

 その手に摘まれた煙草を見て、少年の身体に力が入る。

 

 男はそんなことなど気にも留めず少年のそばに近づくと頭に手を置き口を開いた。

 

「ぼうず。俺しばらくここに住むから。俺のことを苛つかせたらまた躾だぞ?」


 少年はごくりと唾を飲み、部屋の奥を盗み見た。


 パイプベッドには汗に塗れた裸体の母が、妖しい笑みを浮かべて舌を出している。 


 同時にゾクリと得体の知れない感覚が少年の背筋を伝う。


「おい? 聞いてんのか? 返事は!?」


 男が髪を鷲掴みにしたので少年は痛みで目を閉じた。


「うん……」


 小さくそれだけ言うと、男は手を放して舌打ちする。


「返事はな……って言うんだよ……わかったな?」


 強い力で顎を掴まれたまま、少年は「はい」と答える。


 ガラス戸の奥ではそんな様子を母が可笑しそうに眺めながら、声を押し殺してクスクスと笑っていた。

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