0-4【名も知らぬ神父と名も無き神と】


 

 言葉などは無く、そよ風が木々を揺らすカサカサという音だけが、会堂の白ペンキ塗りの壁に反射しては打ち消し合うように消えていく。


 尋ねたいことが喉元まで出かかっては、サンドウィッチでその言葉を飲み込むというの繰り返した末、神父は物言わぬ少年に、三つ目のサンドウィッチを手渡しながら、とうとう口を開いて言った。


「良ければ名前を教えてくれますか?」


 案の定少年はサンドウィッチは受け取らないで俯いてしまう。

 


 ……失敗だったかな……

 

 そう思って、困ったような笑顔を浮かべていると、少年はポツリ、と口を開いた。

 

「けんご……」

 


 ……けんご……

 

 

 それが少年の名前だと気づいて神父は大きく頷いた。

 

「そうか! けんごくん! けんごくんか……!」

 

 ナニカ大切な事を覚えるかのように、ブツブツと名前を反復する神父を、少年は不思議そうに眺めていた。



「けんごくん。そう云えばわたしの自己紹介が未だでしたね。わたしは■■■■と申します」

 

 じーじゅわじゅわ……と、油蝉の鳴き声のような音が神父の言葉に重なった。



「え?」

 

 と思わず聞き返した少年に、神父は柔らかな笑顔を向けて問いかけた。

 

「どうかしましたか?」


 

 ……名前……


 

 そう言えればと少年は思ったが、ニコニコと笑う神父の顔を曇らせるのが申し訳なく感じられて、慌てて首を左右にふった。

 


 皐月の青空に晴れゞと浮かんだ太陽を雲が遮り、あたりがスウッと影に飲み込まれると、神父も何かを感じ取ったようでチラと檸檬の幹の背後に、先程少年が隠れていた辺りに視線を送ると、そのまま目をぎゅう……と細めた。


 ふいと視線を送るのをやめた神父が、少年の方に向き直り、再び優しげな表情で話しかける。


「これでわたし達は見知らぬ者同士から、見知った仲になりましたね。これはその記念です」


 そう言って神父は司祭平服キャソックの中から小さな木製の十字架ロザリオを引っ張り出すと、少年の首にかけるのだった。


「いいですか? 困ったことがあれば、いつでもここに来てお祈りなさい。神はあなたの祈りを待っておられます」


 言葉の意味が今ひとつ解らずも、少年はゆっくりと頷いた。


 それを見た神父は、ふぅーと鼻から息を吐き出してから、少年に再び笑顔を向ける。


「わたしはいつでもここにいますから、来たい時に、いつでもおいでなさい」

 

 少年は頷いてから立ち上がると、小さな頭をペコリと下げて庭の入口へと駆けていった。

 

 ずるずるべったり……

 ……ず、ずるずる……

 

 と、闇が這うような気配を感じて神父は少年の背中を睨んだ。

 

「ばるばらさだらばき、るあてぃてぃてぃ、さるばき、さるばだら……」

 

 異国の言葉を呟きながら、神父は胸の前で十字を切った。

 

 その時、檸檬の幹の影で、ぼとり、と重たい音がして、神父は少年を見送りながら、ゆっくりとそちらに向かって歩いていく。

 

 

「助け給え……助け給え……恩寵賜るマリア……」

 

 キィキィ……と耳障りな声でそう喚くのは、見たことのないほど巨大な一匹の蜘蛛だった。

 

 

 アオミドリ色の気体ガスを吐き出すそれを見て、神父は司祭平服キャソックの袖で口元を覆って顔を顰めた。

 

 黒光りする四つの目玉が神父をとらえると、蜘蛛は嗄れ声で言った。

 

 

「神の使徒よ……身の程を弁えぬ驕り昂る者よ……気を付けるがいい……光の届かぬ闇が、ぽっかりと口を開けてお前を待っている……」

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