Case零. The Abnormal Nightmare

0-1【微睡みに立つ影】


 

 ぎぃこぉ。ぎぃこぉ。という不可思議な音だった。

 

 ぬっとん。ぬっとん。という湿り気を含んだ合いの手も聞こえる。

 

 おやおや? と年老いた隣人は耳をそばだてが、薄汚い壁一枚隔てた向こうで、音の主もこちらの様子に気がついたのか、ピタリと音は止んでしまった。

 

 子供特有の、軽やかで軽薄な足音が遠ざかっていくのが聞こえると、隣人はなるほど子供の粘土遊びかナニカだろうと得心する。

 

 

 壊れかけの遊動椅子ロッキングチェアに、再び深々と腰掛けて電波の悪いラジオに耳を澄ましていると、微睡みの中に睡魔の影が差した。

 


 ととととと……

 

 軽薄な足音だ。

 

 ととととと……

 

 子供は無邪気で良い。

 

 ととととと……

 

 去りし日が閉じた瞼の裏側に鮮明に写し出され、夢と現の境界線がどろりと融け始めた時だった。

 

 

 ……ぴたり。

 

 

 すぐ近くだった。



 子供の湿った素足が冷たいタイルを踏んだような、やけにみずみずしくも不快な物音。

 

 

 薄目を開けて様子を見ると、開いた玄関から差す逆光の中に、子供のしるえっとが浮かび上がる。

 

 暗い暗い喰らい尽くすような影だった。

 

 コツンコツン……と音がして、子どもの影の背後から、女と思しき影が姿を表す。


 

 ぞくりと悪寒が背骨を撫ぜた。


 

 立ち上がろうとした老人肩を、いつの間にか後ろに来ていた少年の小さな手が押さえつける。



 つい先ほどまで光の中にいたはずの少年が、今や自身の背後の闇のから、青白い腕だけ伸ばして自分を押さえるその状況に、言い知れない恐怖がフツフツと湧き上がってきて、老人は思わずきつい口調で大声を出す。


 

「何してる? ここは儂の部屋じゃ……入っちゃいかん!」

 

 そう言って見た子供の服は、べっとりと血糊で濡れていた。

 


 だあら、だあら、だあら、だあら

 

 だあら、だあら、だあら……



 酷い目眩と耳鳴りに襲われ、遠のく意識の中で見たのは、血まみれの口元をにぃと歪めた、少年の母と思しき女の顔だった。


 動かぬ身体を諦めて、自分のこめかみ辺りを目だけで見上げると、長い長い千枚通しのような女の指が、ずっぷりと突き刺さっていた。



 くちゅる……クチュ……と、頭の中を何かが掻き混ぜる音がする。



 それがこの老人の見た、最後の景色で、そして最後の音だった。

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