2-46【心臓に一輪花】

 

 片方しか無い目を限界まで見開き、ニムロドは橘を見つめて動かなくなった。


 やがて身体が小刻みに震えだし、その顔にはぷつぷつと汗が吹き出してくる。

 

「丹村くん……わたしよ……? 目……怪我したの……?」

 

 橘が一歩近付くたびに、ニムロドは一歩後ずさった。

 

「く……来るな……われれれれ……ぼっ…………わ……」


 

 ニムロドは頭を抱えて天井を見上げた。


 その目はコマ送りのようにあちこちに焦点が飛び、口からは二つの声が漏れ出している。



「我はににににむむむむろろろろろ」

「僕はにむにむにむむむむむららら」


「世界をししししし支配すすすすす」

「橘をまももももももも守るるるる」



 機械音のような不気味なニムロドの声に混じって丹村の声がした。

 

 それに気づいた犬塚と父が同時に声を上げる。

 


「丹村……!! 戻ってこい!!」

 

「邪魔するな小娘ぇえええ!!」



 父はそう叫ぶなりメスを握って橘とニムロドの間に割って入った。

 

 憎悪を剥き出しにした父の表情に橘は一瞬たじろぎ身を固くしたが、すぐにその目を睨み返して言う。

 

 

「死ぬのなんて怖くない……丹村くんを助けるためなら、心臓を貫かれたって構わない……」

 


 胸の前できつく手を握りしめる橘に向かって、父は穏やかな表情に戻り静かに言う。

 

 

「殊勝な心がけだ……君が橘咲だね……? 道隆が気に入るわけだ……安心しなさい……君も必ず生き返らせてあげよう……傷が残らないように、一刺しで終わらせてやる……そのあとはエンバーミングして死体を保存する……道隆が再び産まれるまで……!!」





「そんなの嫌……そんなの丹村くんじゃない……!! 丹村くんを返して……!!」

 

「返して? 道隆は私の息子だ……私の物だ!!」

 

 父は再び憎悪の火を燃え上がらせて、橘に襲いかかった。

 


「くそが……!! 俺はまたガキを死なせるのか!? 動け……!! 動けよ……!! 何の為の祓魔師だ!! くそがあああああああ……!!」


 犬塚は何とかニムロドの拘束を打ち破ろうと全身にあらん限りの力を込めた。

 

 筋肉と腱が悲鳴を上げ、腹の傷からは血が吹き出す。

 

 激しい慟哭と共に何かが引き裂かれるような、ぶち……という音がして、犬塚の身体が地面に落下した。



 体中を裂くような痛みが襲うなか、犬塚は叫び声をあげながら銃に手を伸ばす。

 

 それと同時に父は橘に手を伸ばし肩を掴んだ。



『もし彼を救う決断をすれば、あなたの心臓は剣で貫かれることになるでしょう……』



 ガブリエルの言葉を思い出し、橘は身体の力を抜き静かに目を閉じた。 




 これできっと……丹村くんは助かる……




 奇妙に静まりかえった部屋に震える父の声が響いた。

 

 

「貴様……私に何をしたあああああ……!?」

 



 父の目線の先には、紅く蛇の眼を光らせた真白が立っていた。

 

 傷を庇い、ずるずると半身を引きずるようにして歩きながら真白が言う。

 

「丹村くんは誰の物でもない……!! 彼の人生を奪う権利なんて誰にもない……!!」

 

「馬鹿め……!! たとえ私を止めたとしても、もうニムロド様は止まらない……!! 道隆の自我を引き止めているのはこの娘だ!! 私が殺さずともニムロド様が必ず娘を殺すだろう……私なら道隆のために綺麗に殺す……道隆のためにも諦めて拘束を解け……」 



「それに私を殺せばニムロド様を説得できる者はいなくなるぞ!? 貴様らでは決してニムロド様に太刀打ちできない……」




 

 その時部屋の奥から地鳴りを伴う叫び声が響き渡った。

 

 その声を耳にしてその場の全員が息を呑む中、動きを封じられた父をすり抜け、橘が丹村の下へと走っていく。


 橘は丹村にしがみつくと、その胸に顔をうずめ涙を流して言った。

 

 

「丹村くん……お願い……帰ってきて……またおすすめの本を教えてよ……独りで読んでも、丹村くんの説明が無いとわかんないよ……お願い……帰ってきて……」


 

 ニムロドはまっすぐに前を見据えたまま、節くれ立った両の手を大きく広げた。


 その手がゆっくりと橘に覆いかぶさると、ニムロドの一つしか無いその目からは、真珠のような涙が滴り落ち、地面に当たってカツカツと音を立てる。

 

「橘……」

 

「丹村くん……」

 

 丹村は悲しそうに微笑むと、そっと橘を抱きしめていた手を解き、橘の両肩に手を乗せた。

 


「僕は……橘に言って無かったことがあるんだ……」

 

「何度も言おうとしたんだけど……言えなくて……」

 

「うん……うん……」

 

 橘は目から大粒の涙を流しなら、丹村の目を見て何度も頷く。

 


「……」

 

 

 丹村は橘の耳元で、誰にも聞こえないように小さな声で囁いた。

 

 橘はそれを聞くと泣きながら微笑んで何度も何度も頷いた。

 

 それを確認すると丹村は見たことの無いような穏やかな笑みを浮かべて橘に別れを告げる。



「また……明日……!!」

 

 そう言って橘を優しく押すと、見えない力が橘を真白のもとへと運んだ。

 

「丹村くん……?」


 まるでシャボン玉の中に閉じ込められたような橘が、見えない壁に手を触れながら丹村の名を呼んだが、丹村は橘の方は見ずに犬塚の方を向いて言う。

 

「お願いがあります……」

 

 丹村は自分の胸に両手の指を突き立てると、ばきばきと音を立てながら、力任せに肋骨を広げた。


 剥き出しになったニムロドの青い心臓がどくん……どくん……と、うねりながら全身に黒い血液を送っている。



「僕を殺してください……」

 


「やめろ……助かる道があるはずだ……教会の祈祷師達を集めて……」

 

「犬塚さん……!!」

 

 丹村は叫ぶと目から涙を流しながら笑って言った。

 

 

「もう時間がないんです……僕は、橘の生きるこの世界を壊したくないんだ……」

 


 それを聞いた犬塚は大きく目を見開いた。



「やめろ……!! 道隆……!! 考え直せ……!! お前も橘咲も母さんも生き返ることが出来るんだぞ!? 大人しくニムロド様に身も心もお捧げするんだ!!」


 動けぬ父が叫んだ。


「父さん……死体を蘇らせても……それは母さんじゃない……ウリがそうだった………形は同じでも魂は別物なんだ……」




 ほんの一瞬だけ俯くと、犬塚は右手に握ったカリヨンの銃口を静かに心臓へと向ける。


 もう片方の手で自分の両目を覆ったが、その手の下からは涙がこぼれ落ちていた。



……お前の覚悟……確かに受け取った……断言する……お前は……橘咲を守った」

 

 丹村はそれを聞いて微笑むと静かに目を閉じた。



「や゙め゙ろ゙ろろろろろろろろろろろろろろろろぉおおおおおおおお……!!」


 

 父親の絶叫が響くと同時に、乾いた一発の銃声が部屋に木霊する。

 

 ニムロドの心臓は弾け飛び、真っ青な一輪の花が咲いて、そして静かに散っていった。

 

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