2-40【ススキ野原に兎と月】


 診療所から転がるようにして抜け出した真白に、ウリの追撃が迫る。

 

 真白は勢いのまま地面を転がり、振り下ろされる前足を躱すと、スカートの中、太腿に隠した棒手裏剣をウリの顔めがけて投擲した。

 

 高速で飛ばされる黒い手裏剣は、夜の闇に紛れて常人ならば刺さるまで気付かないだろう。


 しかしウリの野生の感覚は、眼球に迫る危険を敏感に察知してすんでのところで顔を背けた。

 

 分厚い毛皮が手裏剣を弾き、ウリには傷一つ付かなかったが、巨大なうさぎは激昂して、ビタン……! ビタン……! と後ろ足で地団駄を踏んだ。

 

 その威力は凄まじく、大地を震わし、巻き上げた小石や瓦礫は散弾銃のように植木や窓を吹き飛ばす。

 

 

 それを見た真白は太腿のベルトから手裏剣を抜くと、スカートの側面を縦に裂き足を自由にした。

 


 身体能力は圧倒的に向こうが優位……


 そのうえ強靭な毛皮で半端な太刀筋は通らない…… 


 真白は大きく息を吐いて脱力を効かせると、自然体で柄に手を添え、身体を地面に沈み込ませた。



 それなら、技と理合で上回る……

 

 

 ウリは真白が居竦いすくんだように見えたのか、身体をぎゅ……と縮こませて突進の構えをとった。


 真白の僅かな呼吸の間隙を縫って、ウリは大地を弾き、弾丸のように飛び出してくる。


 

 刹那、真白は構えに右前足を後ろに抜き切ると、仰け反るようにしてウリを躱した。

 

 柔らかなウリの腹が真白の顔を掠めながら真上を通り過ぎていく。

 

 真白は残した左足で地面を掴むと、くの字に曲がった右足にありったけの力を込めて刃を抜いた。

 

 ”辰巳一刀流、芒野秋月すすきのしゅうげつ


 みちみちと音を立てる下半身の筋肉に反して、上半身はゆるゆると水のような脱力を保っている。

 

 その姿はさながら、深く地に根ざし、木枯らしに耐えるすすきの様だった。

 


 確かな手応えと共にウリは後方へと過ぎ去ったが、真白は残心を怠らない。

 


 ただちに振り向き刀を青眼に構えると、真白の目に信じられない光景が飛び込んできた。

 

「何これ……? いったい何を……?」



 うじゅる……ぶちぶち……と水気を含んだ音がする・


 

 腹が裂けてまろびでた、草食動物特有の長い長い内臓を、ウリは自身の前歯でさらに引きずり出している。

 

 中身の無くなった腹腔には、関節の隙間を切られた肋骨が、まるで飲み込む対象を探すかのようにベコ……ベコ……と音を立てて開閉していた。

 

 

 ウリはキィぃぃぃぃ……!! と雄叫びを上げると、目にも止まらぬ速さで跳躍した。


 内臓という重しを失くし、筋肉と骨だけになったウリの跳躍は信じがたい速さに達していた。

 


 目で追えぬほどの突進に、脳ではなく本能が真白の身体を動かした。


 無理に躱そうとせず、構えた刀で咄嗟に衝撃をいなしたが、剥き出しになったウリの鋭い肋骨がすれ違いざまに今度は真白の身体を引き裂いた。

 

「痛うぅっ……」

 

 左半身に鋭い痛みが走り、熱い血が身体を伝う感触が伝わってくる。

 

 まずい……しくじった……

 

 何とか刀を支えに立ち上がったが、左肩から先に力が入らない。

 


 ウリは相変わらず剥き出しになった肋骨をベコベコ鳴らしながら、真白の方に振り返る。


 腹の内壁にべろん……と垂れ下がるメンブレンは、血と粘液に濡れてぬらぬらと不気味な輝きを放っていた



 あの中に囚われたら……



 不吉な妄想が脳裏をかすめ、真白の身体がぶるり震えると同時に、ウリの開いた口の奥からかすれた低い声がした。

 


「……こせ……」

 

「え……?」


 意表を突かれ思わず聞き返した真白に、ウリは抑揚の低い声で繰り返した。

 


「寄越せ寄越せ寄越せ寄越せ寄越せ寄越せ寄越せ寄越せ寄越せ寄越せ寄越せ寄越せ」


 

 その声に宿る底知れぬ怨嗟と、身体から流れ出る血のせいで、真白の身体がガクガクと震える。

 

 ウリは再び身体を低く沈ませると、真白めがけて跳躍の構えを取る。

 


 真白は一か八か蛇の目で睨もうと試みたが、紅い瞳に映ったのはウリの双眸ではなく



 見知った男の後ろ姿だった。

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