2-39【ガブリエルの御告げ】


 橘は車の中で固唾をのんで診療所を見つめていた。

 

 不気味な静けさが支配していたはずの診療所からけたたましい破壊音が響きだしてからは、いても立っても居られない気持ちで生きた心地がしない。

 

 神様……

 

 握った拳に思わず力が入る。

 

 どうか丹村くんを……

 

 泣きそうになりながらそう祈った時、ふと瞼の向こうに光の気配を感じて橘は目を開けた。

 

 すると閉ざされたはずの車内、それも自分の隣に、金色に輝く白い衣を着た背の高い男が腰掛けている。

 

 あまりの驚きに橘は叫ぶことも出来ず、ただただ息を呑むばかりだった。

 

 男は不思議な顔をしている。

 

 優しく微笑みかけているようでいて、ひどく憐れんでいるようにも見える。

 

 かと思えば無機質で美しい陶器のようでもあり、有無を言わさぬ冷酷な顔にも見えた。

 

 あなたは……?

 

 そう尋ねようとした時、男が口を開いた。

 

 まるで硝子の砕けるような声で男は言う。

 

「おめでとう橘咲たちばなさき。あなたは神の目にかないました」

 

 思いもよらない言葉に、橘は再び言葉を失い目を丸くする。

 

「恐れることはありません。私はあなたに神からの御言葉を伝えに来たのです」

 


「どういうことですか……?」

 

 やっと絞り出した震える声でそう尋ねると、男は橘の両手を取った。

 

 一瞬手のひらに焼けるような感触がしたが、それはすぐに消え去って温かな温もりに変わっていく。

 

「神はあなたの賛美の声に耳をお留めになられました。そしてあなたにを授けられたのです」

 

「選択する権利……?」


 橘の目を覗き込むようにして話す男の目を、橘も覗き返してそう答えると、男は静かに頷いた。

 

「そうです。あなたには二つの道が与えられています。一つは……」

 

 そう言って男が視線を上げる。

 

 つられて振り返ると、男の視線の先、林道の闇の彼方にヘッドライトの明りが見えた。

 

 

「一つは、あの明りの方へと進む道。痛みから離れ、特別公安に保護され、穏やかな人生を生きる道です。神の加護があなたを包み、過去は穏やかに忘れ去られ、聖教会も人々もあなたを責めることはありません」

 

 次に男は診療所の方へと目をやった。

 

 すると玄関のドアが吹き飛び、巨大なうさぎの化け物と共に、真白が転がりでてくるのが見える。

 

 

「真白さん……!!」

 

 橘はそう叫ぶと、窓に張り付くようにして真白を見やった。


 男はそんな橘に向かって慌てる様子もなく穏やかな口調で言う。

 

「もう一つの道は、丹村道隆の魂を救うための道です。特別公安に背を向け、祓魔師との約束を破り、少年の魂を救う道」

 


「どういう意味ですか……? 丹村くんは無事なんですか!?」

 

 橘は男に詰め寄って叫んだ。

 

 男は悲しげな笑みを浮かべて静かに答える。

 

「はい。今はまだ無事です。しかし彼の魂を救えるかどうかはあなた次第です。そして……もし彼を救う決断をすれば、あなたの心臓は剣で貫かれることになるでしょう……」

 


「わたしが行けば、丹村くんは助かるんですね!?」

 

 橘の言葉に男は黙ってうなづいた。

 

「わたし、丹村くんを助けに行きます……」

 

 橘が迷うこと無くそう宣言すると同時に、ヘッドライトの光が橘の横顔を激しく照らした。

 

 目がくらみ、顔を手で覆った橘の耳に、聞き覚えのある男の声が響く。

 

「橘咲!! 車から降りろ……!! お前の身柄を拘束する!! 丹村はどこだ!?」


 そう言って怒鳴る辰巳の声に、橘の心臓が激しく脈打った。



 今捕まったら、丹村くんが……!!



 そんな橘の考えを見透かすように、男は診療所側の扉を開けて言った。

 

「あなたの選択は神に聞き入れられました。お行きなさい。診療所の裏に勝手口があります。そこから中に入るのです。誰もあなたの歩みを妨げることは出来ません。安心していきなさい」

 

 橘は小さく頷くと、ドアから外へ飛び出し勝手口の方へと駆け出した。

 

 

「待て……!! 橘!!」

 

 追いかけようとする辰巳の前に、白い長服を来た長身の男が立ちふさがる。

 

「彼女を追ってはなりません。そのままにしなさい。神のご計画を彼女は担ったのです」

 


「あ、あなたは……大天使ガブリエル……!?」

 

 辰巳は驚愕すると同時に地面に膝を付いて頭を下げた。

 

「おやめなさい。神以外を拝んではなりません。それよりもあなたにはすべきことがあります。あなたの妹を助けてやりなさい」

 

 そう言ってガブリエルが指さした先には、傷だらけになりながらウリと切り結ぶ真白の姿があった。

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