2-38【餌の時間】

 

 不意に犬塚は処置室の床に置かれたバケツに目をやった。

 

 血と臓物で満たされたバケツが少なくともとおは並んでいる。

 

 鼻を突く血の臭いの原因はこれか……

 

 犬塚が目を細めて舌打ちすると同時に、そこから発される血の臭いが消え失せた。否、

 

「なんだ……!?」

 

 思わず声を出して再びバケツに目をやるが特に変わった様子はない。

 

 犬塚の異変を感じ取った真白が怪訝な顔で犬塚に尋ねた。

 

「どうかしましたか?」

 

「部屋中の血の臭いが消えた……いや、これはもっと強烈な……」



 そこまで言って犬塚の目が見開かれる。



「くそが……!!」



 犬塚は肩に背負った丹村を手放し、真白の腰に飛びかかった。


 すると真白が立っていたその場所に、巨大な二本の前足が勢いよく振り下ろされ白いタイルが粉々に砕け散った。

 


 犬塚と共に床に倒れ込みながら、真白は脅威の正体をしかと目撃する。


 それは白い毛に黒と茶色の斑模様を纏った巨大なうさぎだった。

 

 真っ赤に血走った目で、掌ほどもある鋭い前歯をガチガチと噛み合わせながら、巨大うさぎは二人を威嚇する。

 

 

「ウリ……」

 

 真白は丹村の話を思い出して呟いた。

 


「さあウリ!! 餌の時間だ!! いつものような死体じゃなく新鮮な獲物だぞ!? 骨も残すな!!」



 男はウリに向かって叫ぶと、丹村を撃たれていない側の肩に担いで処置室の奥へと引きずっていく。



 犬塚は銃を両手で構えて男を狙ったが、肩に背負った丹村が邪魔で引き金を引けない。


「くそ……!!」



 狙いをウリに変更し、銃口を向けるとウリは信じられない速さで地面を蹴って跳躍した。


 優に二百キロを超える巨体が、目にも止まらぬ速さで壁や天井を破壊しながらゴム毬のように跳ね回る。



 その光景に二人は思わず息を飲んで、身体を萎縮させた。

 

 二人は同時に物陰に身を潜めて視線を交す。

 

「お前の虎馬で動きを止めろ!!」

 


「無理です……!! 一瞬目が合っても、慣性で動いて目線が外れてしまう……それに……ヤバっ!?」

 

 

 真白は言葉を遮って咄嗟に次なる物陰に飛び込んだ。

 

 先程まで真白が隠れていたステンレスの台は、ウリの突進で原型を失いつつ、もの凄い音を立てて吹き飛んでいく。

 


「それになんだ!?」


 物陰を移動しながら怒鳴る犬塚に、真白の叫び声が返ってきた。



「うさぎがどこを見てるか分からない!!」

 


「使えねえ……」

 

 犬塚は小声でそう言うと、物陰から上半身を乗り出してウリに狙いを定めた。

 

 しかし銃声が虚しく響くだけで、弾丸はウリを捉えることができない。

 

 

「天井と壁を使った跳躍が脅威です……!! 室内じゃ勝ち目がありません!! 外に……」

 

 真白はそこまで叫んで、犬塚の言葉を思い出した。

 


 そうか……先輩は今足が使えない……

 

 この場を乗り切るには、わたしが囮になるしかない……


 

 真白は歯を食いしばって逡巡した。


 向こうの物陰からは、犬塚が続きをうながして叫ぶ声が聞こえる。


 

 だけど……それだと……


 丹村くんとお父さんを先輩に任せることになる……

 

 そうなったら……また無茶な判断を……

 

 

「賢吾くんもまた、君に無いものを持ってるんじゃないのかい?」

 

 

 その時、京極の言葉が真白の脳裏に蘇った。


 真白はふぅ……と息を吐くと覚悟を決めて叫んで言った。

 


「わたしが囮になってウリを外におびき出します!! 先輩はその隙に丹村くんとお父さんを!!」

 



 縦横無尽に飛び廻るウリに合わせて、無数に砕けたタイルの破片や器具の残骸が飛び散った。

 

 真っ白な部屋の中で、乱反射する破片がスローモーションになり、刹那、犬塚と真白の視線を遮るものがない瞬間が訪れる。



 犬塚と真白はその瞬間に吸い寄せられるようにして、ほとんど無意識に互いを見合い、二人の視線が重なった。




「現場の判断は先輩に任せます」




 圧縮された時の中で、真白の言葉だけが、嫌に鮮明クリアに犬塚の耳に届いた。


 はっきりとそう言い切った真白の目には、見たことのない光が宿っている。

 

 犬塚はそれに気がついて、思わず言葉を失った。

 

 

 真白は犬塚を残して待合室に続くドアの前に飛び出すとウリを睨みながら刀の柄に手を添えて言った。

 

 

「屋外なら、うさぎになんて負けません!! 先輩は絶対丹村くんを救出してください!!」

 


 ウリは真白が放つ強烈な殺気に惹きつけられたのか、ほんの一瞬動きを止めると真白めがけて飛びかかっていった。

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