2-34【白濁夢】


 先程まで橘の部屋に居たはずの丹村が、今度はまったくの闇の中に浮かんでいた。


 そこは自分がどのような姿勢で存在するのかも知ることの出来ないような深い闇だった。



 そんな無音の闇の中に黒い影が立ちすくんでいる。

 


 丹村はそれがずっと自分を追いかけてきた影だと気付いたが、不思議といつものような恐怖は無かった。

 

 心は恐ろしく凪いでいる。

 

「やあ。今日は取り乱さないんだね」

 

 影は闇の奥からそう言った。

 

「可愛そうだね」

 

 主語のないその言葉が橘を指して言っているのだと分かり丹村は無言で頷く。

 

「君はただ見ていたんだね」

 

 その言葉に胸が痛んだ。

 

 咄嗟に反論しようとしたがやはり言葉は出なかった。

 

「卑怯で臆病者の僕らには彼女は救えない」

 

 ただ聞くしか無いその言葉を丹村は黙って噛みしめる。

 

「どうすればいいかは分かってるはずだろ?」

 



「父さんに会いに行く」

 



 やっと口をついたその言葉で丹村は目が覚めた。

 

 そこでは橘が泣きそうな顔で丹村をさすり続けていた。

 

「橘……ごめん……俺は……」

 

 丹村はそう呟くと橘の手を強く握りしめた。

 

 驚いた表情の橘は慌てて犬塚に声をかける。

 

「犬塚さん!! 丹村くんが目を覚ましました!!」

 

 丹村が見ると助手席には講演会で話をしていた女の祓魔師も座っている。

 

 女の祓魔師は後部座席に身を乗り出して丹村に自己紹介した。

 

「はじめまして丹村くん。わたしは壱級祓魔師の辰巳真白です」


 その目は講演会の時とは違って有無を言わさない強い光を宿していた。


 その輝きに何処となく居心地の悪さを感じて、丹村は思わず目を逸らす。



「今からあなたの家に向かってあなたにかけられた呪いを解呪します。それから二人に掛けられた特公の嫌疑を晴らすために……


 その言葉で心の臓がどくん……と音を立てたが、丹村はそれを悟られぬよう何も言わず微動だにしなかった。


 それでも祓魔師の女は何かを感じ取ったようで、語調を緩めて静かに続けて言った。


「辛いとは思いますが、お父さんを守るためにも大人しく投降するように説得してください」


 


 真白から目を逸らしたまま丹村は小さな声で答えた。


「わかってる……そのつもりだよ……」

 

 

 木々の隙間から覗く東の空が薄紫に変わっている。

 

 どうやら先程見た夜の道は夢だったらしい。

 


 どこまでが夢だ……?


 

 丹村の心にふとそんな考えが過った。

 

 思わず橘の顔に目をやった。

 

 すると橘は小首を傾げて不思議そうな顔をする。

 

 犬塚は相変わらず前だけを見つめている。

  

 真白はそんな丹村を見つめて考え込むような素振りをしてから口を開いた。

 


「何か不安なことはありませんか?」

 


 林道の奥に見え始めた診療所には緑のランプが灯っていた。

 

 丹村はそれを凝視しながら首を振る。

 

 その時丹村は酷く喉が乾いていることに気がついて言った。


「水が飲みたい……」

 

 真白はまっさらなペットボトルを取り出して丹村に手渡した。

 

「ありがとう……」

 

 丹村がペットボトルのキャップを開けると、パキ……と封の切れる音がする。

 

 ボトルに口を付けた丹村はそれを一気に吐き出した。

 

「ゲホッ……げほぉおおおお……」

 

 口いっぱいに血の味が広がった。

 

 透明のボトルの中には黒ずんでねっとりとした血が充填されている。

 

「それは私の血による新しい契約です。ぶどう酒を飲むたびに私を思い出しなさい」

 

 真白は聖書を朗読してそう言った。

 

 慌てて横を見ると橘は白濁とした生臭い液体の入ったボトルを泣きながら飲み下している。

 

「どうして……あの時助けてくれなかったの……?」


 口元を白く汚し、悲しそうな顔で橘はそう言った。

 

 あまりの驚きに、丹村が言葉に詰まっているとシートを伝った生暖かい何かが丹村の手に触れる。

 

 見ると橘のスカートの中から経血が溢れ出していた。

 

 

 再び顔を上げると精液を吐き出しながら橘が、こちらを見てにっこり笑っていた。

 

 前を見ると、祓魔師の二人は壊れたラジオのように聖書の同じ文言を繰り返している。

 

「しかし人の子を裏切るものは呪われます」

「そういう者は産まれないほうがよかったのです」

「しかし人の子を裏切るものは呪われます」

「そういう者は産まれないほうがよかったのです」

「しかし人の子を裏切るものは呪われます」

「そういう者は産まれないほうがよかったのです」

 

 僕は君僕は君僕は君僕は君僕は君僕は君僕は君

 僕は君僕は君僕は君僕は君僕は君僕は君僕は君

 僕は君僕は君僕は君僕は君僕は君僕は君僕は君

 僕は君僕は君僕は君僕は君僕は君僕は君僕は君

 

 いつしか車内はスピーカーから延々と繰り返さえるくぐもった低い声と、乗員達の笑い声でいっぱいになっていた。

 

 遠くで誰かが名前を呼んだ気がしたが、丹村の世界は捻じ曲がって白濁の海へと沈んでいった。

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