2-20【狂い出す】

 

 辺りに薄闇が垂れ込め始めた。

 

 冷たい夜の空気が二人の息を白く凍えさせる。

 

 橘の身体がわずかに震えだしたことに気が付き、丹はそっと腕を解いた。


 丹村が口を開こうとすると、橘は丹村の口に手を当てる。


 驚き目を丸くする丹村に橘は小さな声で何事かを囁いた。



 二人は静かに頷きあってから、家路へと向かって自転車を押し始める。


 ただただ無言で自転車を押す二人の影が、闇に融けて見えなくなっていく。



 分かれ道に差し掛かったころ丹村は橘の方を向いてつぶやいた。

 

「ありがとう……」

 

 橘は何も言わずに首を振った。

 

「それから……」

 

 喉元まで出かかった言葉は、声にはならず白い煙となって風にさらわれていく。

 

 緊張した様子でこちらを伺う橘を見て、丹村は力なく呟いた。

 

「また……明日……」

 

 橘がほんの少しだけ残念そうな顔をした気がした。

 

 しかし彼女はすぐに笑顔を作って答える。

 

「また明日」

 

 おぼろげに消えていく橘の背中を見送ると、丹村は大きく深呼吸をして自転車に跨った。



 父さんに報告しなければ……


 父がどのような反応をするかは想像もつかない。


 今夜中に荷物を纏めてこの街から逃げることになるかも知れない。



 そうなれば……


 もう橘に会うことは出来ない……



 腕に胸に鮮明に残る橘の体温と、鼻の奥に今も香る橘のシャンプーの匂いが消えないように、丹村は何度も何度も、それを噛みしめる。



 とにかく今は父さんに……



 そんなことを考えていると林の奥に家の明かりが見えてきた。


 しかしそれを目にした丹村の背筋には鳥肌が立ち、消すまいと必死に握りしめていた橘の残り香が、すぅ……と薄れていくような気がした。

 


 診療所には緑のランプが灯っている。

 

 どくんどくん……と心臓が高鳴り、緊張を促す生理化合物が鼓動に合わせて全身を駆け巡った。

 

 丹村は自転車を止めて、診療所の正面扉から中に入った。

 


「父さん……特別公安が学校に来た……」

 

 処置室で作業する背中に向かってそう言うと、父は振り返りもせずに答える。

 

「知っている。そのためのを作っている……」

 


 知っている……?

 

 学校から連絡が来ているのだろうか?

 

 予想外の言葉に丹村は固まった。

 

 しかしそんな丹村のことは無視して父は冷たい声で指示を出す。

 

「突っ立ってないで手伝え…………」

 

 心臓を鷲掴みにされたような気分だった。

 

 丹村が目を閉じ深呼吸すると橘の顔が瞼の裏側に浮かび上がる。



 今に始まったことじゃない……

 

 どのみち失うことになるなら……

 


 覚悟を決めた丹村が手術着に袖を通し父の作業する台の方へと近づくと、獰猛な唸り声が響いた。



   ガシャン……!!

 ガシャン……!!

    ガシャン……!!



 見ると狭い檻の中で激しく暴れる犬の姿があった。


 涎を垂らし、目を血走らせ、狂ったようにクォオオオン……オンオン……と唸る犬はどう見ても普通の様子ではない。


「そいつに触れるんじゃないぞ。狂犬病だ……それより先にこっちを片付ける」



 父の視線の先には皮膚を切り開かれた若い男の遺体があった。


 切り開かれた薄い皮膚には釣り針のような針がかけられ、たるまないように糸で引き伸ばされている。


 そこから覗く皮下の筋肉には出血が殆ど見られない。


 灰色がかった濁った膜に覆われた筋肉の塊には、白い腱が描く無数の筋が透けている。



「筋肉を持ち上げろ……骨を露出させる。筋肉や筋を傷つけるなよ? 出来栄えに大きく影響する……」


 丹村はねっとりと粘液が染み出した剥き出しの大腿筋の裏側へと手を差し入れた。


 本来ならば熱を帯びているはずの体内は酷く冷たく、死体の厭な臭いがする。


「そのまま動くな」


 小刻みに震える丹村の手を一瞥して父はそう言い放った。


 父が手に持った器具で死体の骨に触れると、ジジジ……と音がして辺りに髪の毛の燃えるような焦げ臭いニオイが立ち込める。



 父はまるで彫刻でも刻むかのように、丁寧に丁寧に骨に呪詛を焼き刻んでいく。


 その文字の一部はבַּעַלと見て取れた。



 

 もう戻れない……

 

 それでも、俺は橘と一緒にいたい……


 

 骨に施される呪いの儀式を眺めるうちに、丹村の目が徐々に暗い色へと変わっていく。


 丹村の黒い影が照明の揺らぎに合わせてくねくねと踊る。

 


 それをちらりと確認して、父はマスクの下で小さく口角を上げた。

 

 骨への処置が終わる頃には、丹村の手の震えは消え去っていた。

 

 それと同じ頃、室内に充満した死体の焦げる臭いが、丹村の鼻腔にわずかに残った橘の匂いを、誰にも気付かれぬ内に消し去ってしまった。

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