2-16【非常灯】

 

 夜の林道には自転車の灯り以外に光源となるものは何一つなかった。


 普通の者ならその深すぎる闇にたじろぎ、引き返したに違いない。 


 しかし丹村は慣れた様子で自転車を走らせ家路をたどる。

 


 明日が待ち遠しい。

 

 帰ったら彼女が笑顔になるような物語を探そう……


 

 そんな事を考えていると家の灯りが見えてくる。

 

 正面玄関から覗く診療所のエントランスには非常灯の緑のランプが不気味な光を放っていた。



 いつもは点けない緑のランプは父親と丹村だけに伝わる


 

 それを見た丹村の心からは、先程までの明るい気持ちが消え失せ、代わりに深緑のヘドロのような吐き気と憂鬱が胃袋を満たしていく。 

 


 裏には回らず正面玄関の前に自転車を停め丹村が扉の取っ手に手を掛けると、突如地面がぐにゃりと歪み、世界が輪郭を崩壊させた。


 轟轟と耳鳴りがして、異様な心拍が耳の奥から響き渡る。




 堕ちる……!

 


 直感的にそう思った丹村は咄嗟に取っ手に縋りついた。


 その勢いで大袈裟に開いた扉のカウベルがけたたましい音を立てる。


 

 カランカラン……!!

 カランカラン……!!

 カランカラン……!!


 

 這うようにして丹村が診療所の奥へと進むと




 カラン……

 

 

 背後で鳴り止んだはずのカウベルが再び音を立てた。

 

 

 思わず丹村は振り返ったが、そこには誰もいない。

 

 それなのに緑の光に照らされた待合室には、人ならざる影共がひしめき合っているような気配がした。


 ぶつぶつと誰かが呪詛の言葉を発し、また別の誰かは爪が剥がれ落ちるのも構わず、ガリガリと壁に爪を立てる。




 相変わらず酷い耳鳴りがして、目眩がする。

 

 ぶつぶつぶつぶつ……ガリガリガリガリ……

 ぶつぶつぶつぶつぶつぶつぶつぶつガリガリガリガリガリガリガリガリ

 ぶつぶつぶつぶつぶつぶつぶつぶつぶつぶつぶつぶつ 

 ガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリ



 恐怖と耳鳴りに捕らわれ、丹村の意識が薄れていく。


 ぼやけた目で見上げると処置室の扉の上に据えられたランプが使を示していた。



 その扉がゆっくりと開き、白い光が漏れ出してくる。


 そして逆光の中に父のシルエットが浮かび上がった。



 手術服に身を包み、肘を曲げ、両手を天上に向けた父の影。



 父は丹村の前に立つとと息子の身体を抱きかかえて、白い光の奥へと運んでいった。




 じゅぼ……じゅぼぼぼぼぼ





「ぎゃるぐじゃるぐりゅすぺりかたらすかるけとほむくせるときばさげりゅどぅねとらいさは?」


「じゅじゅるぐげるばかり、被死のどじゅげるま禍のすべりはいかがですか?」


「じゅぼぼのことは、いみきらわれたるぎゅるぎゅぎゅ、冒涜冒涜冒涜のきるきりくりすと……!! 生業とする……!!」


 ごぽぽぽぽぽぽぽぽぽ……ごぽ





 丹村は意味不明な声と奇怪な音で目を覚ました。


 相変わらず頭は酷く重たくて、身体は粘土のようで力が入らない。



 真っ白なタイルに覆われた処置室には、薬品の鼻を突く鋭い臭いに混じって、汚物と血の臭いが充満していた。



「道隆起きたか……」



 父さん……


 そう言おうとしたが、声が出なかった。


 声のした方に目をやった丹村の心臓が凍る。


 相変わらず聞こえる不気味な声と音の元凶が、父の向こう側に立っていた。



 血の気の失せた白い顔で、女は虚空を見つめたまま呪文のように音の羅列を繰り返している。


 父は女の腰のあたりに何かを施しているようだったか、作業する手元は見えなかった。



「痛みとは人を成長させるうえで欠かすことの出来ない要因ファクターだ」



 そう言うと父は作業の手を止めて鎖と繋がったハンドルをくるくると回し始めた。


 すると天上の滑車に吊られて丹村を乗せた台が起き上がり始める。



 丹村は改めて自分の身体が台に固定されていることに気が付き非常な恐怖に見舞われた。



「痛みの先にこそ成長がある」


 父は淡々とそう告げる。




 身体が起き上がるにつれて、父の向こう側にある景色が見えてきた。


 女の全容が明らかになり、それが何かを理解して激しい動悸が丹村を襲う。



 全身が白ずんだ裸体の女は身体の至る所を削ぎ落とされ、剥き出しになった白い骨が見えている。


 太腿には太いステンレス製のパイプが刺されており、それが機械の動きに合わせて、女の全身の血液を抜いていた。



 じゅぼぼぼぼぼぼ……ぼぼ…



 裂かれた腹からは内臓がこぼれ落ち、床に置かれたたらいの中でとぐろを巻いている。


 それなのに女は口をもごもごと動かして、何事かを呟き続けていた。


 声を発することなど出来るはずのない、死んだ女の咽頭奥から、意味を成さない言葉の羅列が聞こえてくることに、丹村は心底の恐怖を感じて悲鳴をあげそうになるが声が出ない。



「彼女は見事に痛みの先へと進んだ」



 父はそう言って振り返った。


 その顔には見たことのないような笑みが浮かんでいる。


「痛みの先には死が待っている。痛みを乗り越えた先にある死こそ、真の成長だ」



「道隆、お前もそういう年頃になった」


 やめて……


「愛を知り、大人になった」


 助けて……


 父は穏やかな表情で近づいてくる。


 顔には血飛沫がこびりつき、手には外科用の丸鋸が握られていた。



「痛みだ。痛みこそが命の証だ。大事にしなさい……大事にしなさい……大事にしなさい……」



 電源の入った丸鋸が残酷な唸り声を上げる。


 父は狂ったように笑いながら、身動きできない丹村の指をしっかりと握った。



「痛いぞ? 我慢しなさい」



 ぶりゅりゅりゅりゅぐっ……!!


 激しい痛みと振動を伴って、丹村の指が宙を舞った。



「うわああああああああああああああああああああ!!」



 丹村が悲鳴を上げて飛び起きると、そこは自分のベッドの上で、辺りはすでに明るくなっていた。

 

 慌てて指を確認すると、指の付け根に赤い痣のような跡が残っていた。

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