2-8【父と息子】
夕闇に呑まれた薄暗い林を抜けると、木造の診療所がぼんやりと見えてくる。
丹村診療所
それに繋がる居住スペースが丹村の家だった。
丹村は診察スペースへと続く正面玄関には向かわず、建物の背面に設けられた勝手口へと自転車を走らせる。
父が手作りした雨よけに自転車を停め、ステンドグラスの嵌め込まれた重たい木の扉を押し開けると、中からカレーライスのいい香りが漂ってきた。
「ただいま」
丹村はそう言って台所に立つ父の元へと向かった。
「遅かったな」
父は鍋をかき混ぜながらそれだけ答えた。
「うん……忘れ物して取りに戻ってた。手伝うよ」
そう言って丹村は手を洗うと、食器棚から深皿を二枚取り出し、炊飯器からご飯をよそって父に手渡す。
父は口を閉じたまま皿を受け取るとそれにカレーをかけて丹村に返した。
何度も繰り返されてきた二人の夕食の光景。
テレビもなく、会話もない。
しんと静まり返った食卓にはカトラリーの触れ合うカチャカチャという音と咀嚼音の他にはほとんど何も聞こえない。
時折林から聞こえる動物の声と、木々の擦れ合うカサカサという音だけが慰めのように静寂に染み込んでいく。
そんないつもの食卓に突如父の低い声が響いた。
「道隆……恋人でも出来たのか?」
ただでさえ食事中に口を利かない父から、予想外の言葉が飛び出したせいで、丹村は目を見開き硬直する。
そんな丹村を一瞥して父は「図星か……」と独りごちた。
しばらく丹村はカレーライスを見つめて固まっていたが、やがて静かに口を開く。
「恋人とかじゃない……」
「じゃあ何だ?」
「ただのクラスメイト……本が好きらしい」
……馬鹿どもとは付き合うな……
父のいつもの言葉が丹村の脳内にリフレインする。
カレーライスの味がしなくなった丹村は、スプーンを置き小さく呟いた。
「もう関わらないようにするよ……」
そう言って席を立とうとする丹村に父が言う。
「なぜだ?」
「え……? いつもなら……馬鹿どもとは付き合うなって……」
恐る恐るそう言う丹村に、父は首を振る。
「それはお前を堕落させる連中のことだ。馬鹿騒ぎで大切な時間を浪費するような輩とは付き合うな」
父は机に肘を付き、手を組んで言った。
「だが愛は違う……愛は人が生きるうえで絶対に必要なものだ……父さんに、母さんが必要だったように……」
食卓の上に吊られた深緑のランプシェードからは、複雑な形のフィラメントを内包した美しい電球が、黄金色の温かな光を注いでいた。
丹村は不意にチェストに置かれた写真立てに目をやる。
そこには記憶に存在しない、幼い頃に亡くした母の笑顔があった。
「良かったじゃないか。お前もそういう年頃だ……健全な付き合いをして、大事にしなさい」
丹村は頷くと、再び席に付いてカレーライスに手を伸ばした。
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