気を抜くなよ

白兎

第1話

 事の始まりは、普段の何気ない朝礼の一言からだった。

「本日、伊東たかしさんは、流行り病でお休みです」

 上司が開口一番にそう言った。なんだよ、流行り病って、時代劇じゃねえんだ。言い方が古風だな。しかし、この上司、三十代半ばだ。冗談交じりで言ったんだろうな。うけなてないみたいだぞ。誰からも質問はなくスルーだ。どうせあれだろ、今流行りのvirusに感染したんだ。しかし、まてよ。たかっしーの奴と、先週の金曜日、マスク無しで会話してたんじゃないか? 思い出したぞ。そうだ、間違いなく俺は工程管理室で、奴と会話をしていた。必要があってほんの三十分ほど。今日が月曜日だ。たかっしーはいつ感染したんだ? あいつはヲタだから、休日に自宅に籠ってアニメかゲームだろう? どこからvirus貰って来たんだ? 金曜日はまだ発症前だったんだろうな。だとしたら、まだ潜伏期間だった。ということは、奴も職場で感染したのか? うちの部署以外の奴からか? どちらにしても、たかっしーの感染は他人事じゃねえ。俺への感染の可能性は濃厚だ。周りの連中は、まだ律儀にマスクをしていやがる。


 まあ、何にしても、今日が始まったんだ。仕事はこなす。体調も今のところは問題ないんだ。そう思っていたが、夕方になると徐々に身体に現れ始めた。頭痛持ちの俺は、常備薬として痛み止めを職場にも置いてある。頭痛は日常の事だから、飲んで止める。だが、違う何かが起こっていた。なんなんだこれは? 身体がふらつく。倦怠感というやつか? まさかな? 俺がvirusに感染なんてするはずがないと、何の根拠もなく言い聞かせる。だが、おかしい。身体のあちこちに痛みを感じる。インフルエンザにかかった時のように。それでも、俺は否定する。感染なんかしていないと。


「今日、悪いんだけど、残業できるかな?」

 そう言われて、いつもなら笑顔で頷いて見せるが、今日はそれももう出来そうにない。俺がどんな顔をしているかなんて分からないが、具合が悪い事は見て分かったようだ。

「無理しないで、気を付けて帰って」

 と気を遣われた。職場で感染者が出たんだ。誰が感染してもおかしくない状況。自宅へ帰って熱を測ると、38.7度。それを見たら、さすがに認めざるを得ない。感染した。

 熱が出たことは、上司にメールで報告し、翌日病院へ行って検査する旨を伝えた。


 翌日、まずはかかりつけの内科に電話で相談すると、時間を指定してきた。その時間に行くと、感染者対応の準備して、看護師が車まで来てくれた。車から降りることなく、問診表の記入、検査を行い、結果を待つ。検査の結果、陽性だった。そうだろうな。説明には女医が対応した。この内科、おじいちゃん先生とその娘の二人の医師がいる。まあ、このvirus感染者対応には、おじいちゃん先生にはさせられないだろう。年寄りなんて感染したら死ぬ。だから、女医が一人で感染者に対応していた。車で待機している連中は、みんな感染者だ。こんな小さな開業医のところにどれだけの感染者が来ているんだ? 一人で大変だろうに、女医は笑顔で優しくこう言った。

「必ず治ります。がんばって乗り切りましょう!」

 それは心が折れた奴には心強いだろう。しかし、俺は別に心は折れていない。まあ、どうせ、風邪だろう? 治るに決まってるじゃないか。だが、女医の優しさは嬉しかった。


 甘く見ていた。ただの風邪だと侮っていた。熱はすぐに下がった。解熱剤が効いたというのもあるのかもしれないが、二日目には解熱剤を飲まなくても熱は上がらない。俺の免疫があらかたvirusを退治したのだろう。元々、免疫は高い方だと自負している。ここ数年、風邪も引かない。体調不良で仕事を休むこともない。ただ、頭痛、咳、鼻水、のどの痛みは続いた。その中でも咳は厄介だった。


 医師が処方した咳止め「メジコン15」これは妥当だが、咳は止まらなかった。去痰薬の「ムコダイン500」、炎症を鎮める「トランサミン250」も飲んだが、効果は一時的。夜、身体を横たえると咳が出る。一度、喉が刺激されれば、咳は止まらなくなる。だから、しばらく座って目を瞑る。毎晩その繰り返しだ。月曜の夜から金曜の夜までだぞ。これは何の修行だよ。毎晩座って瞑想。横になれば咳が出てまた瞑想。

 

 だから、昼間に少し寝てみようかと思うが、昼だろうが夜だろうが同じだ。横になれば咳が出る。咳が出ればまた、喉を傷める。咳のし過ぎで腹筋が痛い。思わぬところで筋肉痛だよ。腹筋が痛くなるまでトレーニングしたことなんてないぞ。まあ、トレーニング自体しないが。これで、腹筋は鍛えられたのかもしれないと前向きに捉えるべきか? 


 いや、そんなことはどうでもいいんだ。とにかく今日は土曜日なんだ。月曜日には完治して出社の予定なんだ。そのためには、この状況を何とかしなければならないだろう。咳が止まらなければ、月曜日も寝不足状態だ。出勤しても迷惑がかかるだろう。まずは喉の炎症を鎮めて、咳を止める。これ以上医者に負担をかけられない。薬局で何かないか探そう。「?」外出禁止じゃないかって? それは過去の話だ。今はインフルエンザと同じ扱いだとよ。


 だから、自分で買い物に出かけてもいいんだ。もちろん、自粛はする。だが、熱は下がって三日経つ。マスク着用、手指消毒をして、感染リスクを最小限にして、細心の注意をはらって行動する常識は持ち合わせている。

 なんとか、この土日で全回復を目指そう。


 これはノンフィクションか、それともフィクションなのか? そんなことは、ここでは問題ではない。ただ言えることは、virusはまだ、確実に存在している。お前らの傍でな。

「気を付けろよ!」

 これは俺からの警告と共に、自分への戒めだ。もう脅威は過ぎ去った。などと、油断していた結果がこれだ。流行りが過ぎた頃に地味に感染するなんてお笑い草だ。


 ほんとに、みんな、気を付けろよ。気を抜くな。まだ、戦いは終わっちゃいない。

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