2.結界


 ◆


 爺ちゃんは俺を立ち上がらせると、そのまま俺の手を引いて小走りで進んだ。


 普段なら聞こえるはずの蛙の鳴き声が一切聞こえなかった。

 いや、蛙だけじゃない。虫も獣もそうだ。

 息を潜めて、なにか恐ろしいものに気づかれないようにじっとしている。

 嵐が過ぎ去るのを待つかのように。

 そんな風に思った。


 連れてこられた場所は村の寺だった。


 一度、兄ちゃんと一緒に爺ちゃんに連れてこられたことがある。

 その時見た、扁額――お寺の看板の文字があまりにも難しかったけれど、あとで爺ちゃんが「悪霊とか妖怪とか絶対殺す(寺-゛)」と読むんやで、と教えてくれた。

 つい、一週間前のことだ。

 その一週間前が遠い。どれだけ手を伸ばしても届きそうにない。

 兄ちゃんは死んで、俺も――なにか恐ろしいことに巻き込まれている。


「儂や……」

 爺ちゃんが人目をはばかるように、そろりと言った。

 厳重に閉められていた寺門が、ぎいぎいと軋んだ音を立てながら僅かに開く。


「来たか……」

 でっぷり太った住職が俺たちを迎え入れ、寺門は再び閉ざされた。


 先週、訪れた時には境内に血に飢えたドーベルマン百匹が放たれていた。

 境内ではお坊さんが思い思いに座禅を組んでいて、血に飢えたドーベルマンに噛まれて頭からダラダラと血を流しながらも、目を開けず、苦悶の声も上げなかった。

 お寺のことはよくわからなかったけれど、きっと凄い修行なんだろうなと思った記憶がある。


 けれど今日は一匹もドーベルマンがいなかった。

 道中をドーベルマンに襲われることなく、俺たちは住職の先導で本堂へ向かう。

 本堂の電気は全て消されていて、住職の持っている蝋燭が灯りの全てだった。

 少し風が吹けば消えてしまうそうな火に、光を託しながら俺たちはゆっくりと本堂を進み、内陣へと辿り着く。


 きらびやかな金の仏壇がある、本堂の一番広い部屋。

 電気に比べればか弱い光だけど、部屋の中央に燭台があって火が灯っている。

 燭台の放つ光を受けて煌めく金色が今の俺には何よりも頼もしく思えた。

 壁にはありったけの御札が貼られており、何故かおまるも置かれている。

 

 俺たちは内陣についてからも一言も喋らず、ただ住職に促されるままにその場に座った。爺ちゃんは胡座だったけれど、俺は正座だ。足が痺れるから普段なんかは絶対にしたくないんだけど、今日だけは胡座の方が苦しくなりそうだった。


坊主ボン……」

 むっつりと押し黙っていた住職が、重々しく口を開いた。

 住職はさっきから俺に視線を向けて、何かを言おうとしては言葉を見つけられずに閉じた口の中で言葉を彷徨わせていた。

 それがとうとう、俺に言うべき言葉を見つけたようだった。


「……兄ちゃんのことは残念やったな、やが、せめて坊主ボンのことは――」

「絶対に守る」と住職は言った。


 太い言葉だった。

 太く、無骨で、頼もしい。

 あらゆる装飾を剥ぎ取った――けれど、ピカピカに磨き上げた。

 そんな言葉だ。

 その言葉を聞いて、俺の頬に熱いものが伝う。

 少し遅れて、俺は泣いているのだと気づいた。

 爺ちゃんが俺の頭に優しく手を置く。

 爺ちゃんの骨と皮ばかりの枯れた手が分厚く思えた。


 それから住職はぽつりぽつりと話し始めた。

 兄貴が見てしまったであろう、この地に潜む邪悪なる妖怪――くねくねについて。


 くねくね。

 その名前の通り、くねくねとしている――らしい。

 らしいというのは誰もその姿を見たことがないからだ。

 いや、正確には見たことのある人間は何人もいる。

 だが、その姿を説明できる人間は誰一人としていない。

 その姿を見たものは皆、脳を破壊されてしまうからだ。

 その呪力はSSS級ランクであるとも云われ、一回のくねくねでNTR一万回分の脳破壊ダメージを相手に与えるという。


 そういう説明を住職はしてくれた。

 専門用語が俺にはよくわからなかったけれど、恐ろしい存在であるということはわかった。


 そして、住職は俺に「くねくねはお前の元にも来るだろう」と前置きをした上で、さらに話を続けた。


 致死率十割神社は元々くねくねの生息地に存在していた『八尺様封印記念、ざまぁみろ一生ここで鉄の塊に埋まってろ神社』を改造して作ったものである。

 唯一の出入り口である鳥居に超高速稼働する無限ギロチンを設置し、鳥居以外から出入りしようとすれば、自動迎撃装置や、飢えた野犬、寺から逃げ出したドーベルマン、寺から逃げ出した破壊僧に襲われて死ぬ。

 しかし、それでくねくねを封印できているわけではない。

 誰もくねくねに近づけないようにすること、そのための致死トラップだ。

 くねくねは普段は動かないが、自らに近づくものがあればそれに興味を抱いて徹底的につけ狙う。

 不幸にも致死罠にかからなかったものはくねくねに脳を破壊されて死ぬことになる。


 そうやってあの神社は致死率零割から始まって、致死率十割という恐るべき数字を叩き出すこととなった。

 そのような話を住職はした。


 何も言えなかった。

 寒い。

 粘りつくように暑い熱帯夜であるというのに、歯の根が合わない。

 悍しいものが来る。


坊主ボン、今からこの内陣の扉を閉める。そしたらワシがありったけの法力で結界を張って、くねくねがこの部屋に入れんようにする……生半可な妖怪やったら触れただけで消滅するレベルの奴や……くねくねがどんだけ呪力を使っても扉の破壊までは出来んぐらいの奴や。そしてワシと爺さんは別室の法力高める用の部屋でくねくねの様子を霊視で監視し、くねくねの気が緩んだタイミングで坊主ボンを外に出すから、車に乗って東京に帰れ」

 住職はそう言うと、部屋の四隅に塩を盛り、爺ちゃんを伴って内陣を出た。


「霊視って……見て大丈夫なの?」

「安心せい、霊視は……まぁ見ずに見るようなもの……まぁ説明しづらいが、くねくねによる悪影響は無い」

 そう言って、住職は不安を吹き飛ばすかのように笑った後、言葉を続ける。


「いくらくねくねでもこの内陣には入れん、やが……坊主ボンが招き入れたら別や。誰が来ても絶対に開けるな。どんな声を掛けられても開けるな。部屋から出てええんは……ワシらが外から扉を開いた時だけや」

 扉越しの住職には見えていないだろうに、俺はコクコクと頷いた。

 扉に鍵はないが、自然に開いたりすることはないらしい。


「一人の夜は寂しくて恐ろしいやろうけど、頑張ってくれるか坊主ボン

「大丈夫、爺ちゃんがついとるからな」

 住職と爺ちゃんの扉越しの声が、俺の胸をじんと暖めた。

 頑張ろう、絶対に生き残ろう。

 そう思った。


「あとは……坊主ボンが寂しくならんように、ペット型ロボットも置いとく。寂しかったら起動してくれ」

 部屋の隅を見るとドーベルマンの姿を模した金属製のロボットがある。

 背中の起動スイッチを押した瞬間、ドーベルマンロボが唸り声を上げる。


「グルルルルルルル」

 こいつ、血に飢えている!

 俺はドーベルマンロボの電源を切り、それから――特に意味もなく内陣の真ん中に座り込んだ。


 広く暗い部屋だった。

 一人になるとそう思う。

 二人がいなくなった分の隙間よりも大きい孤独が部屋を埋め尽くしていた。

 寝てしまおう。

 ごろりと横になり、目を瞑る。


 目が冴えている。

 とても眠れるような気分じゃない。


 目を瞑れば、その闇の中に兄ちゃんの頭部爆発が蘇る。

 かといって目を開けば、暗闇の中に孤独と恐怖が浮かび上がる。


「オタクくん」

 唐突に女の子の声がした。

 扉の外からだ。


「あーしだよ、オタクくん。引き篭もりなんて身体に悪いよ、ねえ……外に出ようよ、それともあーしの方がオタクくんの部屋の中に入っちゃおっかなぁ……♡」

 淫蕩な声だった。

 声の中に優しさはなく、ただやらしさだけがあった。

 絶対に開けちゃいけない。


「オタクくん、入れてよ……入れてくれないなら無理やり入っちゃ……グ……グオオオオオオオオオオオオオ!!!!!このA級妖怪オタクに優しいサキュバス様がこのような結界でグオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!!」

 部屋の外で爆発音がした。

 どうやら、外の妖怪が結界の力で爆死したらしい。

 凄まじい結界の威力だ。

 それと同時に――恐ろしくなった。

 くねくねだけじゃない。

 もしかしたら、他の妖怪がいるのかもしれない。


 俺は目を閉じた。

 湧き上がってくるものに瞼で蓋をするかのように、力を入れて。

 意識よ消えてくれ。そう、願いながら。


 時間感覚がなかった。

 あれから数時間が経ったのかも知れないし、十分も経っていないのかも知れない。

 そんなタイミングで、外から声がした。


「よう頑張ったなぁ……くねくねは行ってもうた、今のうちに出るぞ」

「爺ちゃん!」

 爺ちゃんの優しい声。

 俺はすぐに出口に向かい、扉に手をかけようとして――住職の言葉を思い出した。


――誰が来ても絶対に開けるな。どんな声を掛けられても開けるな。部屋から出てええんは……ワシらが外から扉を開いた時だけや。


「あけて」

 爺ちゃんが言った。

 開けられるはずの扉を前に。


「爺ちゃんが開けてよ……」

「あけて」

 扉の前でその言葉が繰り返される。

 爺ちゃんの声で、爺ちゃんではないものがそう言っている。


 悲鳴を押し殺し、俺は扉から離れて隠れるように仏壇の裏に回った。

 大丈夫だ。

 結界にそいつは入ってこられない。

 やり過ごせばいい。

 やり過ごしさえすれば――そう思った瞬間、部屋の四隅にある盛り塩が爆発した。

 さらに連鎖的に壁の御札が爆発していく。


 どごん。

 何かが砕ける音がした。

 視線を音のほうにやる。


 木製の壁に大穴が空いていた。


 そこには女がいた。

 今まで見てきたどんな女性よりも、いやどんな男よりも大きい。

 もしかしたら二メートルを超えるかもしれない巨体。

 白いワンピースに白い帽子を被り、その顔は曖昧だった。

 太い身体をしていた。

 胴体。腕。脚。首。頭の天辺から指先に至るまで、何もかもが鍛え抜かれている。

 その太く長い右腕に孫の手のように金属バットを握っている。


 そして、女は言った。


「大した法力ぽねぇ……流石のこの私の呪力でもこの結界は破壊できなかったぽ……しかし……法力は強くても暴力には弱かったぽねぇ……ぽーっぽっぽっぽっぽ!!!!ぽーっぽっぽっぽっぽ!!!!!!」

 悍しい顔で女が嘲笑った。


 ◆


「……ま、まさか……そんな!!」

 その十分前。

 住職もまた驚きに目を見開いて叫んでいた。


「くねくねが……あのS級呪力を持ち、見ただけで相手の脳を破壊するくねくねが……この日本でもっとも悍しい妖怪とも言われている……あのくねくねが!?」


 霊視の光景が住職には信じられなかった。

 致死率十割神社の中にあるくねくねの生息地、くねくね谷――そこにいる全てのくねくねが、全身をボコボコにされていた。


『ずびばぜん……許して下さい……』

 その上、そのくねくねした身体を器用に折り曲げて土下座までしている。

 たった一人の妖怪を相手に。


「いかん!相手はくねくねではなかった……封印されていたはずの……」

「ぽ?」

 住職の言葉に返答するかのように、背後で音がした。

 その音に思わず、住職は振り返ってしまった。


「いかんッ!!!目を伏せろォォォォォォッ!!!!!!」

 老人の声は遅かった。

 瞬間、住職は見てしまったのだ。

 細長いくねくねの胴体。

 その両端には、取っ手状のリンフォンが二つ。

 まるでヌンチャクではないか。

 そう思うよりも疾く、そのヌンチャくねくねが高速で動かされた。

 ブルース・リーめいた圧倒的なヌンチャクワーク。


 くねくねは一回見るだけで、NTR一万回分の脳破壊ダメージを受ける。

 そして、本来ならばくねくねを二回以上見ることは出来ない。

 一回の視聴で、もはや自分が何を見ているかわからないほどに脳を破壊されるからだ。


 しかし、ここに例外が存在する。


 圧倒的なヌンチャクワークにより、脳が破壊されるよりも疾く圧倒的なくねくね視聴会ウォッチパーティーを叩き込む。


「ぐわああああああああああああああああああああ!!!!!」

 果たしてどれほどの脳破壊ダメージ量か。

 圧倒的なくねくね捌きを見てしまった住職の脳が破壊され、爆発した。


「貴様はッ!江戸時代に封印されていたはずのA級妖怪……八尺様ッ!」


 正解のジングルを鳴らす代わりに、心底愉快そうに嘲笑った。


「ぽーっぽっぽっぽっぽ!!!!」


【続く】

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