Bitter Enders

@attarimaeda

第1話

『BITTER ENDERS』


(一)

 画面の右肩に突然『秋秋』の文字が現れた。トントン、トントン、ドアをノックするように点滅を繰り返す。夜中に目覚めどうにも寝付けず、ひとり居間のテーブルでノートパソコンを開いたときのことだった。『秋秋』 名前?  男?それとも女? 

パソコンから目を離し窓から差し込む柔らかな明りの先、大きな月が目にとまった。

「うん? ほれほれ、お前さんを呼んでるよ!」

お月さまが空の上から囁いたような気がして、思わず点滅する『秋秋』にマウスを当てた。

 

「私のこのメッセージを読んだらあなたが思うまま私に返信ください。私の名前は秋秋。香港人です。そう香港生まれの中国人ではなく香港人。二十八歳会社員、独身女性です。港大を卒業しましたが途中二年間留学生として東北大に通いました。仙台はとてもきれいな街。あの二年間の想い出は今でも私の大切な宝物です。私はいま自分の意志でデモに参加しています。こんなことは初めてです。でもどうしてもじっとしていられませんでした。香港、それは私のSoul Identityが宿る街。私が私であるための拠り所なのです。だから誰にも譲れないし誰にも汚されたくない。六月の「逃犯条例」の改訂反対がすべての始まりです。その時の私は今回のデモに参加していませんでした。私はテレビを観ていただけです。そのあと若い人たちが大陸、中華人民共和国への不満をデモで訴えるようになりました。「反送中」から「反中共」にデモは様変わりしていきます。十代の、私よりも若い人たちが香港政庁や中国政府に香港の自主独立を叫び出したんです。私はそれを観ていて全身が震えてしまいました。何かやっと来た!待っていたものがやっと目の前に現れた。そんなことを感じた体の震えだったと思います。

 確かに今までは経済第一、政治は二の次でした。六・四と呼ばれる天安門事件も今から三十年前のこと、私にとっては過去の出来事です。雨傘運動も結局経済優先でうやむやになってしまいこの社会の何も変えることはできませんでした。私の友達は言います。結婚してかわいい赤ちゃんや幼稚園に通う子供のいる人たち。「人に任せておきなさい。わざわざあなたがやらなくてもいいのよ。」確かに私一人の力は小さく参加してもしなくても大きな違いはないでしょう。でも、もういや。そういう他人任せは。私たちは今立ち上がらなければだめなんです。時代革命、それが今なんです。

 今夜、初めて火炎瓶を作りました。明日は最前線に出るつもりです。今日、日の出とともにこの火炎瓶をリュックに詰めてデモ現場に持って行きます。途中警官に止められたら私は逮捕されるでしょう。正直に言うと私は今迷っています。この先どんな行動を取るべきなのか。デモで知り合った中大四年生の彼、私より五歳も若い彼はすばらしいリーダーです。でもこの頃は何かに追われている、追い詰められて何かすごく焦っているようです。

 先日私が目撃したことです。それはデモの最中スマホに応援依頼のメッセージが入って1ブロック離れた通りに移動中のことでした。途中に前のデモで大きな窓ガラスを割られたスタバのお店があって今はガラスの代わりに厚いベニヤ板を窓枠に打ち付けWe are openの紙を表のベニヤ板に貼りながら営業を続けている理大近くの公園に面したお店です。さすがにその日は小さな入り口も板で締め切っていました。それを勇武派の人たちが入り口の錠をハンマーで打ち壊して中に入り机や椅子、カウンターや戸棚をグチャグチャに壊していたんです。私が止めようとしたらリーダーの彼が私の腕を取って入るなと止めたんです。今は仲間が我々の応援を待っているんだ。余計なことに関わってはだめだと言うんです。普段、そこで働いている店員さんもみな私たちと同じくらいの年恰好。毎日朝早くからそのベニヤ板で囲まれ日差しの入らないまるで大きな木箱のようなお店のテーブルやカウンターをきれいに拭いているあの人たち。これを見たらきっと悲しむと思うんです。デモに参加することと街中で暴れまわることは違うんじゃないか、自由を勝ち取るための破壊活動は正義なのか。・・・わからなくなってしまいました。こんなことをしていれば黒社会の人たちとやっていることはちっともかわらないじゃないか。・・・でも、でも、私、今夜この月が沈めば火炎瓶を持って家を出ます。」

「え?え?」

 慌てて空を見ると大きな月が西の山の端に沈みかけている。急いで返信しようとキーボードに指を当てたが、指先が固まって動かない。突然光り出したパソコン画面の右肩をつい衝動的にクリックしたら飛び込んできたメッセージ、どうやって返信すればいいのだろう? どこをどうしたら返信できるのか? ただでさえデジタル操作には疎いのだ。するといつの間にかパソコン画面が真っ白に変わった。後先を考えずにキーボードを打ち出すと文字が白色画面に打ち出されていく。

「はじめまして、秋秋さん。私は香港在住の日本人、名前は唐渡圭トワタリケイといいます。今年還暦を迎えた親父です。決して若い女性と付き合いたいなどという下心あっての返信ではありません。突然私のパソコンにあなたのメッセージが届き、そのメッセージの最後に月が沈んだら火炎瓶を持って家を出るとあったので大急ぎでこの返信を打ち出しました。早まってはいけません。今日はデモに参加してはいけません。今秋秋さんは自分の行動に疑問を抱いている。それならば尚更です。もう一度しっかり落ち着いて自分自身に問いかけてみるべきです。あなたさえよければ私はいつでも相談にのりますから。」

 ここまで打って白い画面をにらみながら腕組みしていると画面がポッポッポーオと輝き次第にフェードアウトして消えた。同時に奥の方から(送信しました)の文字が浮かび上がって来る。パソコンを見つめてしばらく待ったが再び『秋秋』の文字が蛍火のように画面に点滅することはなかった。何が起きたのか皆目解らない。その内、大きな夏みかんのような月が山の向こうに沈んで消えた。居間の時計を見ると朝の五時を少し回った頃だった。

 秋秋という彼女のメッセージ、書き出し部分は高飛車で要求高い香港人女性そのものだ。だが読み進んでいくうち繊細な心根を持った若い女性がひとり勇気を奮い起こして必死に向かい風の中を歩いている姿が見えてくるようで他人事と放っておけない気がしてきた。

 明け来る山際が緋色に輝くと太陽が昇り出した。辺りが薄いオレンジ色の皮膜に包まれていく。ビルの壁面が紅色に染まり出し、背後の山並みも紅黒く輝き出した。その山を二つ三つ越えればもうそこは中国だ。今しがた秋秋と名乗った女性が「香港を取り戻せ。時代は革命のときだ。」と叫び独立を求めて戦う共産党独裁政権の大国がそこに在る。


(二)

 ぼんやり夜空を見上げると窓辺に繁る台湾相思(タイワンアカシア)の枝先に丸く大きな月が見えた。デッカイお月さんだな。中秋節だっけ今夜は? 今頃みんな蘭桂坊(ランカイフォン)辺りで騒いでんだろうか。

 立風の研修医生活も二ヶ月目に入った。今夜は二十四時間連続勤務の夜だ。昼間は忙しくアッと言う間に時間が過ぎてしまうけれどひとりで過ごす長い夜の身の置き所がまだおぼつかないでいる。ゆっくりと専門書を読返し勉強を為直してみようと思うのだけれど、いざ夜の静寂(しじま)に身を置くとこれがなかなか難しいのだ。

「・・・ も・・  し ・・ も 。」

拍子抜けした人の良さそうな静かな声が耳に流れ込んで来る。

「嵐(ラン)。今何してる?」

「??  ああ、立風(タフ)兄ちゃん?・・・今何してる?

 ・・・・・寝てたんだよ。今何時?」

「うん? 夜中の二時十五分だ。そうだよな、寝てるよな。」

「どうしたの?」

「いや、ちょっと嵐の声が聴きたくなってさ。ごめん起こしちゃったな。」

「いいけど、べつに。何かあったの?」

「いや、別に。何もないんだ。うん。何もないんだ。それじゃまたな!」

プツ! ツーツーツー。

「え? え? あ!ああ!!」

 立風は夜半ひとりでいると時々無性に人恋しくなるのだ。それでだろうか成人してから折り合いが悪く些細なことで仲たがいをしたままの父親を想うことが増えた。病院の机の引き出しの中に一冊の詩集が入っている。前回帰宅したとき黙って父親の本棚から持ち出してきた山村暮鳥詩集。多分、父親が結婚を機に香港にやって来るとき日本から持ち込んだものだろう。相当年月が経っているその詩集の背表紙は黄ばみ四隅もささくれ立っている。

  丘の上でとしよりとこどもと

うっとりと雲をながめてゐる

おーい雲よ

ゆうゆうと

馬鹿にのんきさうぢゃないか

どこまでゆくんだ

ずっと磐城平の方までゆくんか

  そっさな、まんず行けるところまで。

  もっともっとその先まで。  

「そっさな、まんず行けるところまで。・・・」

この最後の部分はこの詩集には書かれていない。  

 ?? そうか親父のアドリブだったのか。

  もっともっとその先まで・・・

あの頃の親父はどんな思いでこの詩を自分や弟に聴かせてたんだろうか。


(三)

 あれから二日が過ぎた。夜、寝室の文机で圭がパソコンを開くと画面の右肩に『秋秋』の文字が点滅している。西向きの窓にはまだその姿は見えないが多分大きな月が東の空に昇っているのだろう。開いた窓から月明りに照らされたビルの輪郭や遠く重なる山波のうねりがくっきりと浮かび上がって見える。

『秋秋』をクリックする。二日前の夜と同じように文字がパソコン画面に現れた。

「ありがとうございます。秋秋です。」

返信しようとしたがなぜか今夜は画面が白色無地に変わらない。あれ? どうしたんだ?画面を見つめていると遠い空の上から囁くような声が聴こえた。

「ほれ! 何グズグズしとるんじゃい。しゃべらんかい。画面に向かってしゃべるんじゃよ。ほれ! 照れずにほれ!」

「??・・・ え~え~。聞こえますか?」

「はい!」

「え? 聴こえるんですか?」

「はい。秋秋です。連絡ありがとうございました。返信もせず失礼いたしました。」

画面は白色無地に変わり、音声に合わせその画面が揺れ出した。

「今、お話しできますか? ご迷惑じゃありませんか?」

「ええ、構いませんよ。ちょうど食事を終え、一休みしていたところですから。」

「そうですか、よかった。

私、昨日デモには行きませんでした。一日家にいました。」

「そう、そうでしたか。なによりです。」

「それで、一日ゆっくり自分のことを考えてみました。それでいろいろなことが分からなくなってしまって。

 唐渡さん、自分勝手なことだとわかっているんですけど、これから相談にのってくれませんか? お仕事もあり申し訳ないのですが、私のわがままをきいてくれませんか?」

「はい、いいですよ。何も遠慮なく。

 やぼったい偏屈親父ですがそれでよければ私は喜んで秋秋さんの相談相手になりますよ。」

「嬉しい。ありがとうございます。どうかよろしくお願いします。

昨日は大変だったようです。大勢の人が逮捕されたり怪我をしたり。」

「ええ、私もテレビニュースを観ました。」

「私、今日の昼間ひとりで尖沙咀(チムサーチョイ)のデモ現場に行ってみたんです。

催涙弾の酸っぱい匂いがまだ辺りに立ち込めていて、放水車が残した青色に蛍光された水跡がずーと広い道路の先まで・・・

 そこに立っていると私、涙が出てきたんです。残った催涙ガスのためなんかじゃないんです。どうして泣き出したのか自分でもわからないんです。彌敦道(ネイザンロード)大きな榕樹の並木が続く道で、あっちこっちにメッセージの殴り書きがあって。『光復香港』『時代革命』『民主必勝』『林鄭下台』。警察署の壁には『狗警』って書いてありました。私たち、バリケードを作るのに使うんですよ歩道の鉄柵、それもほとんど取り外されてて何もないんです。道に敷かれたレンガも警官隊に投げつけたんだと思いますあちこちはがれていて。

 道路の脇に大きなバスが一台、真っ黒に焼け焦げて止まっていました。そんな戦場みたいな場所をみんな物珍しそうにキョロキョロしながら歩いてるんです。なかにはスマホでピースサインをしながら写真を撮っている人もいて。

 デモ現場の跡に立ってまわりの人たちの反応を見ているとどうしてかわかりませんが涙が出て来てしまって。大きな榕樹の並木道。広く伸びた枝から垂れ下がった長い気根を泣きながらぼんやり眺めていたら突然風が吹いたんです。たくさんの気根、鍾馗様の髭のようなそれが一斉に揺れて。「おい! お前!」って鍾馗様に怒鳴られたような気がしたんですよ私。でもそのあとの言葉が聴こえてこなかったんです。「え? 何ですか鍾馗様。何ですか?」って何度も心の中で訊いたんですけど。それからはもうだめでした。私が私じゃないみたい。ワンワン泣いちゃって。」

「秋秋さん、前回のメッセージでスタバのことが書いてありましたよね。そのスタバ、港晶中心(ハーバー・クリスタル・センター)にあるものですか? もしそうならば私もよく知っていますよ。私が勤めている会社も尖沙咀にあって毎朝通勤途中、市政七十周年記念公園ですか? あの公園、あそこを横切り店の前を通るんですよ。We are openの貼り紙を目にしたときは内心『頑張ってるな。負けるなよ!』って思ってました。

 私は紅磡(ホンハム)の駅を降りて香港島に繋がる海底トンネルの広い出入り口を跨ぐ高架橋、あそこを歩いて会社に行くんですけど。あの高架橋の床にも壁にも天井にも、秋秋さんが今日デモ現場で目にしたような殴り書きがあっちこっちに書いてあります。香港政庁や警察を罵倒するポスターもいっぱい貼られていてね。その床に書かれたデモ隊のスローガンをわざわざ靴底で蹴りつけて通る人や天井に貼られたポスターを憎々し気に見上げる人、無関心を装って歩き過ぎる人や熱い眼差しを向ける人、メッセージを真剣な表情で読んでいる人、毎朝私が目にする街の人たちの反応はそれぞれですけど。それでも・・・これはあくまで私個人の感覚ですよ怒ったりしないでくださいね。勇武派と呼ばれる人たちがしている行為には多くの人たちが悪感情を抱いているんじゃないかと感じます。例のスタバの一件、『黒社会の人』つまりヤクザの人たちですよね。彼らと同じじゃないかって書いてましたけど、私もまったく同感です。たとえ経営者一族の誰かが中国政府を擁護するような発言をメディアで発表したとしてもその営業を妨害する、それも暴力で。それじゃ黒社会の人たちと同じですよ。いくら志、目的が違うと言ってもやっていることは一緒。他人の迷惑を顧みず自分たちの利益だけを考えて好き勝手なことを繰り返している。まともな大人のやることじゃありません。

 秋秋さんがそんなことをするような人ではないことは初回のメッセージからもよくわかりますが一歩間違えばそんな無法な行為と一緒にされ兼ねませんよ。

 これは余計なことと承知の上でお尋ねしますけど、秋秋さん。今あなたがデモに参加していることやその行動に悩んでいること秋秋さんのご両親はご存知なんですか? もしご両親に内緒でのことならば、秋秋さん。しっかりご両親とお話しすることが必要だと思いますよ。私は。」

「いえ、それはできません。」

「どうしてですか?」

「そんなことをしたらデモ活動を止められてしまいます。それに、両親に心配を掛けたくありません。」

「どうして?」

「どうして? だって、お父さんお母さん、私を愛してくれているから。私がそんな危険なことをしていると知ったらどんなにショックを受けるか。」

「仮に秋秋さんがデモ参加中に怪我でもしたらご両親のショックはそんなものではないんじゃないですか?」

「・・・・・」

「出来るだけ冷静に秋秋さんの気持ちをご両親にお話すればいいじゃないですか。いま秋秋さんが思い悩んでいることを。口論になったらゆっくり落ち着いて何度でもご両親に秋秋さんご自身の言葉で説明すべきです。最後にはきっときっと聴いてくれますよ。だってご両親は秋秋さんを愛しているんでしょ。さあ、秋秋さん勇気を出して。」

 少しばかりの沈黙があった。パソコン画面の奥で深いため息が漏れたような気がした。その後その白色画面はゆっくりフェードアウトして消えた。


 秋秋はベランダに出てさっきまでの会話を反芻する。夜空には右弧がほんの僅か欠けた大きな月が昇っていた。こうしてゆっくりお月さまを見上げるのは何年振りのことかしら。柔らかな明かりを全身に浴びているとその色も形も朧に観える表面の斑紋さえもすごく身近な、まるでお父さんやお母さんが私を見つめていてくれているような優しい感覚に包まれていく。その瞬間全身がすーと軽くなったような気がした。大きな月を眺めながら両手を広げて思いっ切り胸いっぱいに夜の澄んだ空気を吸い込んでみる。そしてゆっくりと吐き出した。一回二回。目を閉じて耳を澄ますと遠くから楽し気な音楽が聴こえて来た。目を開く。ベランダから見下ろす清水湾の小さな入り江、月明りに照らされた海のステージで琥珀色した無数の子うさぎたちがおもいおもいにダンスを踊り歌い飛び跳ねている。どうして今まで気付かなかったんだろう。秋秋は子うさぎたちを見詰めながら両手のこぶしを固く握りしめ全身に力を込めた。大学で教鞭をとる父は何か調べ物でもしているのだろうか書斎にはまだ灯りが燈っている。秋秋は居間に戻ると父親の書斎に向かった。


(四)

 立風は頬杖をつきながら机の上に広げた便箋を眺めている。それは医師試験合格発表の夜父親から手渡された手紙だ。あの時はサッと目を通しポケットに押し込んだ。それ以後読返すことは一度もなかったけれど研修医となった今どうにも気になって仕方がない。あらためて今夜読み返してみたところだった。


                 青雲賦

 医師試験合格おめでとう。

 医者としての君の人生はまさにこれからが本番。時に体力的精神的に追い詰められ、やるせない朝を迎えることもあると思う。しかし君のことだ、どんな困難も必ず乗り越えやっていけると信じている。何事にも自信を持って正々堂々立ち向かっていきなさい。

 私の日本の両親の家系を遡っても医者になった者はいない。君が今日、六年間の勉学を終え香港でひとりの医師として出発することに私は君の父親として誇りを感じている。

 今、私が君に思うことを少し気取って「青雲賦」と名付け書いてみた。時間の許す時で構わないから一度読んでみて欲しい。

㈠ 君の名前の由来

 一九九四年(平成六年)十月七日 君は香港に生まれた。

「あなたがこの子の名前を考えて。」お母さんは私に君の命名を一任したんだ。男らしい、日本人らしいという理由から私は漢字三文字の名前にこだわって『凛太郎』『権兵衛』『竜之介』を提案した。しかしお母さんは「だめ!やめてよ!恥ずかしい。」即座に拒絶したんだ。何が恥ずかしいのか私には分からなかったが内心むっとしたことだけは覚えている。日本の法律では誕生後二週間以内に出生届を提出しなければならない。私は焦った。(これは私の勘違いだった。実は海外で出生した場合は三カ月以内。本来は充分に時間があったわけだ。)

 日が迫るなかまだ名前も決まらずどうしたものかと悩んでいた時だった。突然、頭の中でメロディーが流れ出したんだ。それは私が若い頃よく聴いた さだまさし の『風に立つライオン』という曲だった。

♬突然の手紙には驚いたけれど嬉しかった。何より君が僕を怨んでいなかったということが、これから此処で過ごす僕の毎日の大切なよりどころになります。ありがとう ありがとう。♬

 日本に愛する人を残して一人アフリカに渡り医師として生活する青年。自分の決断に後悔はないけれどやはり寂しい、恋人を慕う気持ちが心を離れない。そんなときその恋人から別の人と日本で結婚しますと手紙が届く。

 この歌は歌手の さだまさし が知人から伝え聞いた話しを基に想像を膨らませ作詞作曲したものだ。私は名曲と思う。

♬診療所に集まる人々は病気だけれど少なくとも心は僕より健康なのですよ。僕はやはり来てよかったと思っています。辛くないと言えば嘘になるけどしあわせです。♬

♬あなたや日本を捨てたわけではなく、僕は現在(いま)を生きることに思い上がりたくないのです。空を切り裂いて落下する滝のように僕はよどみない生命(いのち)を生きたい。キリマンジャロの白い雪、それを支える紺碧の空。僕は風に向かって立つライオンでありたい♬

『風に向かって立つライオンでありたい』

 そのとき私の頭に一つの景色がくっきりと浮かんできた。これだ!と思った。日焼けしたひとりの青年が見渡す限りの荒野を前に両目をカッと見開き歯を食いしばって立っている。風は向かい風。髪を風に流し、こぶしを握り締めたその青年は太い腕をウン!と前に振り出して一歩を踏み出す。

風に向かって立つ。

「立風」 タフ Tough Guy の タフ。 

 そして君の名前は唐渡立風となったんだ。君が君の名前を気に入ってくれているかどうか私は知らない。ただ大事にして欲しい。唐渡立風なかなかいい名前じゃないか!

㈡ 医師という職業

『医は仁術』という。『仁』は儒教の中で最も高位の徳のひとつとされている。つまり、医術に携わる者は人としてしっかりしていなければならないということと思う。

 しかし現状は果たしてどうだろうか。勉強が得意で学校の成績がいい者、要領がいい者、経済的に恵まれている者、そんな人が医者になれる。医者になればお金には困らない、一生安泰で贅沢な暮らしが保証されている。医者になった本人もそして世間一般もそんなステレオタイプの思考に固まっているんじゃないだろうか。

 しかし私は違うと思う。医者こそ泥臭く野暮ったくかつ誠実に生きる人間が務めるべき職業なのだ。医師という職業は金儲けのためのものではない。己の『仁』を日々磨き上げるためのこの世で最もやりがいのある職業だと思う。だから驕るな。怒るな。偉ぶるな。私が子供のころは医師のことを皆『お医者さま』と呼んでいた。xxさま、それだけ社会の中ではありがたい尊敬される存在だったということだ。医師とはそれだけ責任の重い仕事を担っているということだ。

㈢ 最後に

 君を立風と名付けるヒントを授かった さだまさし の歌『風に立つライオン』それは若い日本人医師がひとりアフリカで苦労した話しをモチーフにしたものだった。そして君も医師になる。

 君の前には見渡す限りの広い荒野が拡がっているはずだ。一歩を前に踏み出すことを恐れるな。目の前の荒野は君の夢、君の可能性そのものなのだから。君には私やお母さんが出来なかったことを成し遂げられる大きな力がある。君の周りにはいい友達がいっぱいだ。友達を大事にそして君自信を大切にして欲しい。ひとりでも多くの人に巡り合えて幸せだったと思われるそんな医師になって欲しいと願っている。

                            二〇一九年三月二三日


 絶対書かない。こんな臭い文章と立風は思う。唐渡立風、自分の名前は好きだ。それにしても権兵衛なんて名前にならなくてよかったと胸をなでおろす。立風は頬杖をついたまま暗い窓を見上げた。その時だ。ピーピーピー天井の赤いランプが回り救急搬送を知らせる警報が鳴った。「よし!」立風は椅子を蹴って立ち上がると救急車が入って来る病院裏口に急いだ。


(五)

 あの日、アンディーはひとりグループから離れ警官隊と対峙する最前線まで移動した。ひょっとして秋秋がいるんじゃないかと思ったから。冷静に考えれば彼女がいるはずはないことは解っている。数日前に彼女本人から活動には当分参加できないとメールをもらっていたのだから。それでも彼女の顔が見たかった。

「時代革命」今がその時と信じ積極的に活動をして来た。しかし早急な結果を求め過ぎて自身の行動を制約させてはいないか、焦りから判断を誤ってはいないか。活動が注目され香港各地に拡がっていくうちに予期しなかった力が我々自身の活動に影響を及ぼすようになってきた。いろいろなうわさが耳に入るようになった。ある同期の学生リーダーはいまポルシェに乗っているらしい腕にはローレックスをはめて。別のリーダーは中学生をしきりに勧誘していると聞いた。テレビで報道され話題になった一件がある。親中派と思われる初老のタクシードライバーが運転席から顔を出し勇武派が暴れる道路先を指さしながらテレビクルーの質問に答えているそのとき中学生のような少年が近づいて突然ドライバーの顔めがけて硫酸をまき散らした。そのニュース報道画面の端にそのリーダーの顔が映っていたというのだ。中国と接する新界と呼ばれるエリア。新興住宅地として急速に開発が進んだ元朗(ユンロン)の街で事件が起きた。鉄道駅を封鎖しようと集まった学生たちに入れ墨をした一団が手にナイフや鉄パイプを持って襲いかかったのだ。警官隊の到着は遅れ、一般市民はその乱闘を遠巻きに見守るだけだった。このままでは香港社会全体が崩壊してしまう。そんな不安を感じ始めた。秋秋に逢いたかった。逢ってあの優しい大きな瞳を見ながらじっくり語り合いたかった。

 前線で小学生だろう、八歳ぐらいの男の子が道路の真ん中で泣いているのを見た。最初、何が起こっているのかアンディーにも理解できなかった。どうしてあんな小さな子がこんなところに? ちょうど警官隊が催涙弾を数十発続けざまに発射して一斉にデモ隊が後方に退いたときだ。歩道鉄柵で作られたバリケードの下、その少年がひとり蹲り咳込んでいるのが見えた。瞬間、少年は顔を上げバリケードを跳び越え何かを叫びながら警官隊に向かって走り出したのだ。「動くな!」アンディーはその場を飛び出していた。ポッポッポッ小さな炸裂音が風を切った数秒後、息ができないほどの衝撃が彼の左後ろわき腹を走ったが痛みに堪え少年の体に覆いかぶさる。そのあとの記憶がアンディーにはない。気が付いたらベッドに横たわって淡いピンク色をした天井を見上げていたのだった。


(六)

 何の花の匂いだろう?プルメリア?いやあんな甘ったるい匂いじゃなかったな。さっきふっと鼻先に流れてきたそんな気がしたけれど。あの匂いを嗅ぐといつも下駄が僕の頭の中でカランコロンと歩き出すんだ。ああ、太い首だったなあ。僕が小さかった頃、父さんに肩車してもらいよく外を出歩いた。はじめはおっかなびっくり父さんの首にしがみついてたんだけどそのうちに慣れてさ。自慢だったな。父さんに肩車されて散歩に出るのは。みんな僕を見上げるんだ。父さんが下駄を履いていたから物珍しさもあったんだろうし大きく見えたのかも知れないけど。近くの海浜公園、芝の生えた小さな丘に座って夕方だったかな。あの詩を教わったのは。

 『おーい雲よ! ゆうゆうと馬鹿にのんきそうじゃないか』

ひつじ雲っていうのかな、小籠包(ショーロンパオ)みたいなやつが三つ四つ五つ東の空にお尻の方を真っ赤にして流れて行くのを父さんとふたりで見てたんだ。

 中学三年のとき母さんが癌だって父さんから告げられて。嵐と僕、ふたりとも納豆巻きが大好物。父さんが「今夜、寿司屋に行くぞ。」母さんが入院して一週間ぐらい経ったころだったっけ。事情を知らない僕らは有頂天でさ。三人でカウンターに座って。あの時の父さん、まっすぐ前を見て僕らの顔を全然見ないんだ。「話をするときはちゃんと人の目を見て話せ」っていつも言ってるくせに。僕らの顔を見て話したら自分が泣き出しちゃうことわかってたんだなきっと。あのときの父さん。

「おい、立風、嵐、母さんは癌だ。昨日手術だった。結腸癌でステージ4だそうだ。医者は五年先まで母さんが生きられる確率は5%以下だと言うんだ。父さんは絶対にあきらめない。お前たちもあきらめるな。でも、いざというときの覚悟だけはしておけ。お前たちは男なんだから、しっかりとな。」あの時の父さん『どんなことがあっても母さんを守ってやるから心配するな。俺を信じて前を向いてろ。』そんな感じ。カッコ良かったよ。

「先生、先生、立風先生!

 疲れているようならあちらのソファで横になっててくださいな。今夜は静かなようだし、何かあれば私が起こしますから。」

ベテランの陳看護師長が怒ったように立風の肩をゆさぶった。

「あ!すみません。僕寝てました?・・・ああ、  夢か?」

「え!先生。夢見てたの?どんな夢、どんな夢なのよ? ひょっとして私がその夢に出てきたりなんかしちゃって。ね?ね?」

「あ、いえ。そんな、まさか・・。」

「まさか!?」

「・・・そうだ、ちょっと病棟の様子見てきますね。」


  何 愛国 アンディー ホー

  二三歳 中文大学四年生

  左斜め後方より催涙弾が胸を直撃

  左の第八・九肋骨を骨折

  失神時に右目上を強打し額割創

  フレイルチェストの症状なし


 整形外科病棟三階三〇六号室。深夜、個室の扉から明かりが漏れている。立風は廊下に立ち止まり声を掛けた。

「何(ホー)君、まだ起きてるの? 少しいいかな?」

「ええ、どうぞ。」

暗いが張りのある声がドアの向こう側から返って来た。何は寝台を起こし本を読んでいたようだ。厚手の本が開かれたまま彼の膝の上に置かれている。

「まだ、起きてたの?」

「ええ、なかなか寝付けなくて。」

「傷は痛まない? 呼吸は大丈夫?」

「額の傷が少し。でも胸の方は大きな声を出さなければ大丈夫です。」

「そう、それはよかった。」

同窓のよしみもあって立風は手術後この患者とよく話をした。表情にどこか翳りがあることも少し気になっていた。

「随分遅くまで起きてるんだね。」

「すみません。」

「いいんだよ。ところでどんな本を読んでたの?」

「民法概論です。」

「民法概論? アンディーは法学部なんだね。僕も中大出身なんだよ。」

「え? そうなんですか。中大の医学部ですか?」

「法学部の学生でデモに参加してるんだね。」

「・・・」

「学校の勉強は大丈夫なのかい?」

「今は勉強よりこちらの活動の方が大切ですから。」

「そうだろうか?」

「??」

「学生の身分で勉強より大切なものって他にあるんだろうか?」

「立風先生は学生は勉強だけやってればいいって言うんですか?」

「勉強だけ、とは言わないけど。勉強するのが本分だから、学生は。」

「僕の親父と同じようなこと言いますね。」

アンディーの表情に翳りが増した。


(七)

 会社から戻りパソコンのスイッチを入れると画面の右肩にメッセージ着信を示す『秋秋』の文字が点滅していた。

「唐渡さん、秋秋です。私は今日仕事を休みました。先日、両親に話しました。私がデモに参加していること、私が今考えていること、私が悩んでいること。全部話しました。

 父は静かに聴いてくれました。母は泣いていましたが、うん、うん、時々私が話す言葉に頷いてもくれました。話はいろいろ拡がっちゃって私がまだ幼かった頃のことや中学大学生の頃両親に抱いた感情や不満や、いろいろ話してしまいました。本当は話すのがつらくて。父や母に申し訳ないような気がして。でも今は話してよかったと思っています。両親とも少し寂しげな顔でしたが『話してくれてありがとう』って言ってくれました。まずは、それだけでも唐渡さんに報告したくって。」

私はその画面に映し出された文章を読み終えて少し待ったが今回も画面は白色無地に変わらない。恐る恐る画面に話しかけてみた。

「え~、唐渡です。聞こえますか?」

「はい! 秋秋です。聞こえます。よく聴こえます。」いつの間にか画面は白くなり秋秋の音声に合わせてそのモニター画面が揺れ出している。

「今、秋秋さんからのメッセージを読みました。辛かったんですね。でも、秋秋さん立派ですよ。」

「いえ、いいんでしょうか? こんな事、唐渡さんにお話ししても? ご迷惑じゃ? それにお仕事でお疲れじゃないんでしょうか?」

「いいんです。いいんですよ。」

「ごめんなさい。」

「いいんです。謝らないでください。私自身いろいろ考え直さなければならないことがあって。

 私は秋秋さんがちょうど一歳の頃香港にやって来たんですよ。私の妻は香港人なんです。彼女との結婚を機に私は無職で香港にやって来ました。二十七年前に。ちょうど日本で勤めていた会社が倒産してしまいましてね。」

「そうなんですか。」

「普通日本人のサラリーマンなら会社から派遣されてやって来ますよね。住宅や家族の扶養手当なんかを貰いながら。無茶って言えば無茶なんだけれど、職を失って結婚して無職で海外に渡るなんてね。まあ、私は根っからの楽天家なんでしょうね。何とかなるだろうぐらいにしか思ってませんでしたよあの当時は。私には息子が二人居りましてね。今思い返せば若い頃の私は相当我がままだったように思うんです。がむしゃらだったと言えば恰好いいんですけど。妻や子供たちにどうしてもっと余裕を持って接してやれなかったんだろうって今悔やむんです。真面目に正直に生きて来たとは思うんですけど。それだけじゃいけなかったんじゃないのかなって。妻とも子供たちとも何か距離を感じるんですこの頃。もっと本音をさらけ出して許し合って生きていけばよかったんじゃないのかなって今更ながらに思うんですよ。勝手ですよね。でも、こうして秋秋さんと意見交換していると何かが見えて来るような気がするんです。自分の中で少しずつですが何か我々家族のこれからの将来の在り方が朧気に現れて来るような、だから気にしないでください。むしろ私の方が秋秋さんに助けて貰ってるような気がするんですから。だからどうか遠慮なく思うことを聞かせてください。」

最初は中空に浮かんでいた今夜の月も今はかなり西に傾きかけている。夜が更けた。

「そう、そんなことまで秋秋さんはご両親とお話しをされたんですか。羨ましいな。そんなことまで家族で話せるなんて。本当に羨ましい。」

「・・・」

「そうでしたか。夜も更けましたけど、いい機会のように思いますから。今から一ヶ月ぐらい前かな? 私が経験したことを今夜秋秋さんにお知らせしようと思います。いいですか?」

「ええ、私は大丈夫ですけど。唐渡さんは? 今日はもうかなり遅いですよ。明日もお仕事なんでしょう。」

「あれ? 秋秋さんは明日会社には行かないんですか?」

「私、今日から一週間ブロック休暇を取りました。今後のことゆっくり考えてみようと思って。」

「そう、それがいいかも知れませんね。最初にも言いましたが私が秋秋さんと話をしたいんですから心配はご無用です。気にしないでください。秋秋さんが今後のデモ活動にどんなふうに関わっていくかもう一度考える参考になればと思いますし。言っておきたいんですよ。今夜是非とも。」

「わかりました。」

「じゃ、始めますね。その日私はいつものように駅で電車を待っていたんですが電車がまったく現れないんです。駅のプラットホームはどんどん人で溢れ返って来て。当分してアナウンスが流れてきました。どうも勇武派の連中が三つ先の駅で大暴れをしているらしくって全線列車の運行をストップしたようなんですね。おまけに私がいつも乗りかえて紅磡(ホンハム)駅に向かう路線も同じような状況だって言うんですよ。結局バスならば動いているとアナウンスがあって隣町のバスターミナルまで私大汗をかきながら歩きました。人でごった返すバスターミナルでどうしたら会社までつまり尖沙咀(チムサーチョイ)まで行けるかと考えたんですね。バスも動いているのはいつもの三分の一ぐらいだったんじゃないかな。結局、バスで香港島に渡って香港島から地下鉄で尖沙咀に行くことにしたんです。新界の端からわざわざ香港島まで出て尖沙咀に戻るなんて普段であれば到底考えられない馬鹿げたコースなんですけどね。

 香港島の北角(バッコゥ)辺りまでなんとか辿り着いてね。バス停から地下鉄駅まで歩きました。その地下鉄駅、どうしてなのかエスカレーターは動かないし空調も止まって構内は蒸しかえるような暑さで。ホームは電車を待つ人であふれていましたよ。皆気が立っていることは表情でわかりました。五回ぐらい乗り過ごしたでしょうかね、やっとの思いで金鐘(ガムチョン)まで、ここで荃湾(センワン)ラインに乗りかえるわけですが、実はここでもひと悶着あったんです。でもそれは次回もし機会があればお話ししますね。結局私が会社に辿り着いたのは午後二時頃でした。家を出てなんと六時間が経過していましたよ。普段だったらどんなに遅れても一時間以内には会社に入れるのにね。」

「そんなことがあったんですか。」

「ええ、多分私のような経験は他の皆さんもしてるんじゃないかな。秋秋さんたちが訴える『光復香港』『香港独立』それを実現するための方法はまだ他にいろいろあると私は思うんです。デモをしたり暴力に訴えたりするだけじゃなくて。私は日本人で所詮部外者ですけど、もっと平和裏にもっと穏健に進めていく方策があると思うんですよ。最初のメールで秋秋さんは香港人だと書いていましたよね。それならば香港人であるという特権をもっと活かすべきじゃないかと。異なる背景を背負った人たちがそれぞれを許容して発展してきた多元文化の街があなたの愛する香港です。自由に誰に憚ることなく自分の信じることを言える、主張できる香港。でも、このまま仮に反中共の人たちが勝利したとしてもはたして秋秋さんたちの思い描くような自由な場所に香港はなるんでしょうかね。それぞれの違いを認め合い朗かに意見を交わし合う大らかな社会そんな香港になるんでしょうか。今起こさなければならない行動は革命ではなくて独立派も親中派ももっと冷静に考えを語り合い、違いやギャップを認識してお互いが認め合うそんな場面を作り出す行動だと私は思います。今ならそれが出来る。それこそ大陸中国ではできない香港の強みじゃないですか。一方的で無責任な意見で申し訳ないようにも思いますが、今の私の正直な気持ちなんです。」

 右弧を欠いた寝待月は西の山の端に沈みかけていた。白色の画面は徐々にフェードアウトして消えた。


(八)

 会社から帰宅すると普段の夜に比べ辺りが何か騒々しい。二つ通りを挟んだ先にある警察署を今夜デモ隊が取り囲みブロックを投げたりレーザーポインターを照射して抗議活動をしていると妻が話していた。ベランダに出てみた。生暖かい風が頬をなでる。確かに夜風に混ざり大勢の人の気配が漂って来るようだ。事情を知ったからだろうが遠いところで何かが押し返し動く空気の波動を感じる気もする。アジテーションだろうか叫び声が聞こえたとおもったら大きな歓声が沸き起こった。ベランダに佇み空を見上げると右半分を陰にした下弦の月が寂しく辺りを照らしている。遠くから風に乗って歌が聴こえて来た。若者たちの応援歌なのだろうか行進曲を想わせるその旋律はなぜかバラードのように甘く切なく心に沁みった。

何以 這土地 涙再流   どうしてこの地に涙が流されるのか

何以 令衆人 亦憤恨   どうして皆が怒りに震えるのか

昴首 拒黙沉 吶喊聲 響透  顔を上げ沈黙を破り叫ぶのだ

盼自由 帰於 這裡      自由よ再びこの地に舞い戻れと


何以 這恐懼 抹不走     どうして恐怖が消えないのか

何以 為信念 従没退後    どうして信じて諦めないのか

何解 血在流 但邁進聲 響透  どうして傷ついても声を上げ前に進むのか

建自由 光輝 香港      自由を打ち立て香港を光り輝かせるために


在晩星 墜落 彷徨午夜   星降る夜に彷徨い歩く

迷霧裡 最遠處吹来 號角聲  霧の中はるか遠くから聴こえてくる角笛の音色

捍自由 来斎集這裡 来全方抗對  自由のためここに集い力の限り抗うのだ

勇気 智慧 也永不滅     勇気と英知は永久に不滅なのだから


黎明来到 要光復 這香港   夜明けのときがやって来たここ香港に光あれ

同行兒女 為正義 時代革命  仲間たちよ正義のために革命を起こすのだ

祈求 民主興自由 萬世都不朽 どうか民主と自由が永遠であるように

我願栄光帰香港        香港が再び栄光を取り戻しますように

力強くも哀調帯びたその歌声は切れ切れに夜空に散って消えて行った。


(九)

 あのとき秋秋さんとご両親のやり取りを聞きながら不意に三年前に他界した自身の父親のことを想い出していたのだった。

 希望の大学に合格し高校卒業と同時に郷里を後にした。あの当時はまだ新田町と呼ばれた故郷から東京に向かう朝、駅に続く田舎道で遠く雲雀が囀りながら春空高く飛び上がるのを遠くに見た。足元では蛹から羽化したばかりの紋白蝶が覚束ない羽ばたきであちこちに咲く大根の花の辺りを飛び廻っていた。頼りない小さな蝶がこれから東京で一人暮らしを始める己自身に重なり、胸の中は期待と不安ではち切れそうだったことを今でも思い出す。

 二十二歳の秋。就職活動が思うように進まず留年すると決めたときこれまで四年間の学費を工面するのも大変だったはずなのに父親は愚痴一つこぼさなかった。就職留年をしておきながら途中で心変わりをして青年海外協力隊で途上国に行くと言い出した時も父はだまって頷いてくれた。そんな父が人前で泣いたという。協力隊員としてアフリカ ザンビアでの二年間、途中一度はるばる両親がアフリカの赴任地まで訪ねてきたことがあった。日本に戻る飛行機の中で父親は憚ることなく声をあげて泣いたらしい。父が他界した後母から聞かされた。電気も水道もまともな道路もない未開の地で牛糞を練り込んだ土壁の粗末な家での息子の暮らしぶりを目にしてのことだという。我がままし放題で期待を裏切り苦労ばかりかけてきたというのに。父親の愛情の在りかに気付くのが遅すぎた。

 ザンビアで二年暮らした後東京に本社を構える大手証券会社に就職した。入社後は海外駐在が続き中東のUAEを皮切りにアメリカ、オーストラリア、香港と渡り歩いた。日本に戻ってしばらくしたあと創業百年を誇るその大手証券会社がまさかの倒産の憂き目に遭う。先輩や同僚たちは銀行や外資系の証券会社に次々と移籍して行き、自身も可愛がってくれた上司から一緒にやらないかと声を掛けられたが、いっそこの機会に恋人が暮らす香港で己の可能性を一から試してみるのも面白いじゃないかと思い立つ。外国人を妻に迎えることも上司からの誘いを断って勝手に異国に渡ることにも両親は反対しなかった。すべてを許してくれた。それから勝手をした本人さえ思いも寄らぬほどの長い年月が異国の地で過ぎて行き父親は三年前に鬼籍に入り母親がひとりまるで畦道に立つ小さな地蔵様のようにひっそり田舎で暮らしている。

 父は大の酒好きだった。尋常小学校を出て地方官吏の職につき定年退官後は庭いじりを唯一の趣味として毎日を過ごしていた。高校二年の夏に庭造りを手伝わされたことがある。父親の兄弟が全員集まり庭師だった長兄の指示に汗だくになりながら石を据えた。小さな枯山水の庭。築山の松葉や飛石に薄く積もっていく雪を眺めながら大好きな酒をチビリチビリやっていた冬の夕暮れどき、父は脳卒中で倒れ短い入院のあとこの世を去った。満九十歳だった。

「まーず、おやげねえべさ。お父さんの庭が。なっから草っ子生えとっちゃ。こうしてちっとつでもね。」

「おっぱなしときゃええって。やっとこさ動けるようになったのに。また、入院すればたまったもんじゃないだがさ。」

「そんでもねー」

 母親は一昨年の夏、買い物帰りに小さな段差に躓いて転び腰骨を折っている。その時は二週間の入院で何とか退院したものの去年の冬、夜中ベッドから落ちて背骨を骨折した。医師からは骨粗しょう症と診断され、ちょっとしたことで全身どこの骨が折れてもおかしくない状態だと告げられていた。それでも少し暖かくなれば父が大切に手入れしていた庭に出て下草を引っこ抜いたり落ち葉を拾ったり。腰をかがめるにも一苦労しながら「お父さんの庭、お父さんの庭が。」まるで念仏でも唱えるようにあの小さな枯山水の庭に出るのだった。夜中ベッドから落ちて動けなくなったときは痛さと寒さを堪えながらどうしたものかと思案していたらしい。運よく父親のかつての部下だったサッちゃんが牡丹餅を持って朝早くに訪ね来てくれ大事に至らずに済んだ。サッちゃんといっても三人の孫持ち、今年七十三を迎える歴とした婆様である。


(十)

 仕事から帰り部屋に入ると『秋秋』のサインが点滅していた。

今回は画面に何らメッセージはない。代わりに白い画面が最初から浮かび上がって来て向こうから声が聴こえて来た。

「唐渡さん?」

「はい!」

「まだ私、結論は出ていないんです。どのようにこの活動に関わって行けばいいのか。それでも唐渡さんとお話がしたくって。構いませんか?」

「どうぞどうぞ。私も秋秋さんとこうしてお話ししていると私自身人生の宿題が解けていくような、そんな気がするんですよ。だから遠慮なく。いつでも大歓迎ですから。」

「ありがとうございます。唐渡さんとお話を始めたのが満月の夜でしたよね。あれから今日まで私の周りでいろんなことがあって。私もいろいろ考えました。香港のこと、私自身のこと。デモの後の現場をひとり歩いて泣いちゃったり。それを唐渡さんにお話ししたら唐渡さんから悩んでいることすべてを両親に相談しなさいって言われて。あの後、ひとり月を観ていたら心が軽くなって自分に素直になれて、お月さまに見守られていることを感じて私自身を客観視できるようになったというか。それで、デモに参加していることだけじゃなく今までの私、幼いころから成人して社会人になった今までの不安や悩みやいろんなことをお父さんとお母さんと話をして。それで、私また泣いちゃって。ハハ、私泣いてばっかりですけど。唐渡さんからもいろいろお話を伺ってアドバイスを頂いて。」

「ご両親も秋秋さんも立派ですよ。私に足りなかったのはそんな姿勢じゃなかったかなといま反省しているんです。多分、今の香港社会に欠けているのもそんな視点じゃないんでしょうか。私たち社会全体が不都合なことに目を背けているというか一点固まった方向からしか物事を観ていないというか。そんな気がしてならないんです。

 これは先日経験したことなんですけど。面白いことがあったんですよ。午後会社近くで大きなデモが実施されるっていう情報が入ってね。早めに退社することになったんです。でも都合が悪いことに東鉄ラインも紅磡(ホンハム)駅から九龍塘(カオルーントン)駅までは電車が動いていなかったものでね。仕方なくまた香港島まで出て銅鑼湾(コーズウェイベイ)のそごうの前のバス停でバスを待つことにしたんです。私、烏渓沙(ウーカイシャ)って言うところに住んでるんですが近くに行くバスが銅鑼湾のそごう前を通るんですよ。それで香港島に出てバスを待つことにしたんです。」

「知っています。沙田(シャティン)の入り江の近く、いいところですよね。烏渓沙。海辺がずーと遊歩道になっていて。」

「ありがとう。確かに静かで住みいいですよ。二十年ぐらい前はベトナム人の大きな難民キャンプがあるだけで相当寂しいところだったんですけどね。」

「へー、そうなんですか。難民キャンプが香港に?」

「そごう前のバス停にはすでに何人か待っている人がいてね。それで私もその人たちの後ろに並んだんですけど。三十分四十分待ってもバスが一台もやって来ないんですよ。後ろに並んでいた若い男性が自分のスマホを他の人たちに見せて何やら言い出したんです。それで何人かは列から離れてタクシーを捕まえたり、諦め顔で地下鉄駅に戻ったりして。暫くしたらその彼が周りの人を行こう行こうって誘ってるんですよね。私、目が合っちゃいましてね、その彼と。私に近づいて言うんです。待っててもバスは来ないぞ。バス会社がデモ騒ぎでバスの運行経路を変えたんだって。どこまで行くんだって訊くから烏渓沙に行きたいんだって答えましたらね。それじゃ途中まで同じだから一緒に行こうって私を誘うんですよ。私一人じゃどうしようもないんで彼に付いていくことにしたんです。私の他に三~四人いたかな。その男性、次のバス停でもその次のバス停でも同じように待っている人たちに説明して一時は二十人ぐらい彼の後ろをゾロゾロとね。ちょっと、ハーメルンの笛吹き男みたいな話になっちゃいましたけど。ハハハ。

 最初は賑やかだったんですよ。でも途中一人欠け二人欠け四十分ぐらい、もっと歩いたかな?気が付いたら彼の後ろを歩いているのは私だけになっちゃって。確かに彼の風体は怪しいというかちょっと普通じゃなかったんですけど。でも、今更と思って私ひとり最後まで付いていきました。彼に連れられて行ったのは私も初めて使うバス停でした。でもね、暫くしたらバスがちゃんとやって来たんですよ。かなり時間がかかりましたが彼のお陰でその日は無事に烏渓沙の家までたどり着くことができたんです。

 私、香港人は人見知りで不愛想だって言われますけど、基本的にお節介やきだと思うんですよ。こんな大都会で、結構目にするんじゃないですか。見知らぬ人同士であ~でもないこ~でもないってワイワイやっている場面を。東京じゃまずお目にかかれないな。人前であんなにワイワイガヤガヤやってる風景は。」

「ふふ、確かに。」

「お互いがお節介をやく、そんな気質があるんじゃないかな。香港人には。前にも話しましたが香港はいろいろな背景や事情を抱えた人たちの集まりの場でしょ。だから助け合う、互助の精神が街中に息づいているんですよ。きっと今でも。こんな時代、香港人のそんな気質はかなり貴重だと私は思うんです。」

「なるほどね。今お話しされたこと。私が考えていることの大きなヒントになるような気がします。」


(十一)

 夜、驟雨がやって来た。ツンと土埃の匂いが鼻を突いたと思い窓に目をやると、ちょうど雨が降り出した。大粒の雨が滝のようにコンクリートの地面に叩きつけられ、勢いよく跳ね上げられる雨しぶきで辺りが一瞬白く濁る。窓先の台湾相思の枝葉も厚い雨のカーテンに遮られ見ることができないほど、まるで滝つぼに居るようなゴーと唸る雨音が辺りの雑音を包み込む。点の音が面の音にかき消されていく。

立風は本を閉じアンディーの病室に向かった。


「ああ、そうなんだよ。周りは大騒ぎでさ。僕が大学三年生の頃だったかな?」

「ええ、そんなこと仕出かしたんですか? 立風先生、意外にやんちゃなんですね。」

 立風とアンディーの笑い声が病室から洩れて来る。アンディーは本来の明るさを取り戻しつつあるようだ。

「アンディー、君。大きな運動を成功させるには『英雄』が現れないとダメなんだって。言ってただろうこの間。」

「前に立風先生と話したとき? ええ、そう思います。散発的な活動では目的を達成することは難しいし、多くのリーダーを一つにまとめるにはカリスマって言うか英雄のような存在がやっぱり必要だと思います。」

「そう、でも僕はそうは思わないんだ。」

「どうしてですか?」

「だって、インターネットやSNSがこんなに発達した社会でさ。英雄なんて本当に存在するのかな? 逆にそんなものが現れたときは疑ってかかるべきじゃないのかな。胡散臭いってさ。英雄って我々の憧れや妄想、願望が造り出す人物像のように思えるんだよ。今の時代は一人の英雄に引きずられて事を成就する。そんなんじゃだめじゃないのかな。僕ら一人一人がしっかり考えて見て知って判断していく。社会の動きも変革もそんな市井のワンピースワンピースがはめ込まれて大きな夢の絵が出来上がる。そんな社会像、それが理想だと思うんだ。」

「理想?」

「そう、理想。僕ら若者の特権さ理想を憚ることなく大声で語るのは。焦りは禁物だよアンディー。今はじっくり己の理想を温める時だと僕は思うんだ。」

「・・・」

「一週間ぐらい前かな、ひとりの女性が運ばれてきたんだ。左目にゴム弾が当って。結局失明したよ。デモ参加者でいつも前線に出ていたんだその女性。女性っていっても十七歳、中学六年生だよ。この先、彼女の人生は今までの何倍も続くっていうのに。」

「・・・」

「僕と同期の研修医の病院に一昨日、焼身自殺の青年が担ぎ込まれて昨日亡くなったんだ。港大生。亡骸を引き取りに来た両親、父親は警察官でね。母親は『この子が死んだのはあなたのせいよ。あなたがこの子を殺したのよ。』って一晩中泣き叫んでたそうだよ。

 僕の弟サッカーが得意でさ。そのチームメイトで港大を卒業して幹部警察官になった先輩がいてね。当時は監察官になって内部統制をしっかりやるんだって意気込んでたんだ。でも彼、半年前に警察官を辞めちゃったよ。今は保険のセールスマンをしてる。

 アンディー、君も仲間からいろんな話を聞いてるんだろ。家族や友達や知り合い同士での軋轢っていうか、諍いや衝突。僕たちみたいな若者が途中で夢を諦めてしまった話や将来の希望を見失って自暴自棄になっちゃったって、そんなことがあっちこっちでいっぱいあるんだろ?」

「・・・」

 アンディーは押し黙っていたがちょうど半年前の光景が彼の頭に蘇る。

 肌寒い朝だった。厚い雲で覆われた薄暗い雨の日、居間の大きなフレンチ窓から見える庭木は雨雫に濡れ、テーブルに置かれたマイセンのティーカップから淡い湯気が立つのが見えた。

「お前は私のこれまでの苦労を何だと思ってるんだ!」

「僕は、僕は父さんのために生きてるんじゃない!」

「何だと!お前!」

「やめて、やめてちょうだい!あなたたち。アンディーもお父さんも、もう、もうやめてちょうだい。親子でいがみ合うのはもうたくさん!」

 父親は中国で事業を拡大し成功を収めた。広東省の共産党幹部とは後ろめたい取引が多々あるようだ。進学についても父親は中国国内の大学、北京大か清華大に行って経営を学べと言う。お前の成績ならば大丈夫、もしもの場合は私が何とでもしてやると言った。

 アンディーは香港の中文大法学部に進んだ。そして今回の一連のデモにリーダーとして参加している。

「もういい。お前がそんな愚か者とは思わなかった。出ていけ!この家から出ていけ!もう二度とお前の顔は見たくもない!お前とは縁を切る。」

「あなた、なんてことを!」

それ以来アンディーは実家に戻っていない。どうしてこんなことになってしまったんだ? どうして。


(十二)

点滅する『秋秋』をクリックした。

「秋秋です。今大丈夫ですか?」

「はい、構いませんよ。私も秋秋さんとお話ししたいなって思っていたところですよ。」

「あ!うれしい。今日は私の結論。いや、そうじゃないですね。結論はまだまだ先のようですけど。でも、朧気ながらも何か少し判って来たと言うか何か少し見えて来たと言うか。だから唐渡さんとどうしてもお話ししたくなって。」

「そうですか。それじゃ、秋秋さんのお話しを伺う前に私の方から少しいいですか?前回の続きになるんですけど。どうも言い足りなかったようで話しておきたいんです。大したことじゃないんですけどね。どうも言わないと気が済まないんですよ、オジサンは。すみません。」

「アハハ、どうぞ。私は構いませんから。」

「それでは、お言葉に甘えて。私はデモに参加する人たち、そのほとんどの人たちが秋秋さんのように平和的で理性的な行動を取っていることはよく知っているつもりですよ。『和理非』って呼んでるんですよね。前にお話しした件とは別の日、私がいつものように出勤途中、紅磡(ホンハム)行きの列車に乗りかえようとしたとき目にした光景を今日はお話しします。その日の朝、多分大学生のグループと思います、数十人がホームに入った列車のドアにしがみついて発車妨害をしているんです。『香港加油!香港加油!』って叫びながらね。秋秋さん、知っているかなあ、あの東鉄沿線は結構ブルーカラーっていうか、エアコンの効いたおしゃれなオフィスでパソコンを前に仕事をしている人よりも騒音に包まれた工場や屋外で汗だくになって働いている人たちが多く住んでるんですよ。そんないつ解雇されるかわからない仕事についている人たちは日々の暮らしに追われてね。職場に行かないと生活が成り立たないんです。だから、そんな学生たちと口論になる。実際の生活を背負ってない若造に何が分かるって思うんでしょうね。小競り合い、殴り合いが始まっちゃって。警察官はやって来ないし。私は正直うんざりでしたけれど。そんな中でジーパンを穿いたまだ二十歳前後のひとりの青年がいきり立つ人たちひとりひとりに落ち着いてこんこんと説明している姿を目にしたんですよ。私は広東語がよく解らないんで何を言っているのか理解できなかったんですが、多分この活動の意義を訴えていたんじゃないかと思うんです。その後もね、一両ずつ車両を移動して身重の妊婦さんにはすみませんって頭を下げていましたよ。

 また、別の日には沙田(シャティン)のショッピングモールで大きな模造紙に書いた意見書を床に広げてその周りに自分たちで造ったんでしょうね、たくさんの折鶴を置いてね。行き交う人たちに訴えているグループがいました。顔つきはまだ中学生のようでしたよ。男女それぞれ半分ぐらいかな総勢十人ほどのメンバーでした。私、いつもそのショッピングモールの日系スーパーで日本食品を買うんですよ。そのときも日本酒や納豆、いろいろと買い込んで帰るときちょうど彼らも予定したことをやり終えたんでしょうね後片付けをしていましてね。床に広げた紙を折り畳んで折鶴を手提げ袋にしまいながら楽しそうにみんなで談笑しているんですよ。最後に忘れ物はないか、床にゴミは散らかっていないかしっかりチェックしていました。私は立派だなと思いましたよ。

 先週末は大相撲をテレビで観ていましてね。秋秋さん留学時代は仙台に暮らしたと最初のメッセージに書いてましたよね。東北も相撲が盛んですからきっと一度は目にしたと思います留学中に。太った男同士が裸で円い土俵の中でぶつかり合うやつです。太ってるといっても決してデブじゃないですよ。ああ、やっぱりデブか。それでも普通のデブじゃない。動きは敏捷で力強くて駆け引きもあって一瞬の勝負が面白いんです。一応、日本の国技と呼ばれていてね。相撲、いや柔道、剣道、合気道など日本の武道はすべてと思いますがタイミング、自分と相手との間合いが大切なんです。あんな大男同士が頭からガツンとぶつかりあって丸太のような太い腕で相手を土俵の外に押し出そうとしていても相手が自分に逆らって押し返してきたときにスッと体を後ろに引いて相手をはたき込んだり、相手が回り込んできたらその瞬間、同じ方向に投げを打って相手を土俵に転がしたり。力任せに一方的に押したり投げたりしているわけじゃないんですよ。これは我々の住む社会でも言えることだと思うんです。世の中何事も相手の出方やこちらの対応の仕方、そのタイミングと間合い次第だと思うんですよ。まあ、これ、六十になって感じたことですけどね。世の中、一元的なことなど一つもありませんよ。すべてが多元性を秘めているんです。我々はそれに気付かないだけ。円く見えても角度を変えれば四角に見えるじゃないですか。だから焦ってはダメなんです。しっかりと見極める、それが肝心なんです。

 それから以前話していた彌敦道(ネーザンロード)の榕樹、よく知っています。毎日通る道ですからね。私も好きですあの通りの景色。よく昼休みに彌敦道の隣に有る九龍公園あそこを散歩するんですよ気晴らしに。あの公園にも見事な榕樹がたくさんありますよ。われわれはカジュマルの樹と呼ぶんです。多分、沖縄の言葉だと思いますが『カジュマル』。私が生まれ育った群馬県にはない樹ですね。カジュマルの大木の前に立つと何と言うんでしょうね、時空の外に身を置いたような感覚って言うんでしょうかねえ。あの存在感、樹相には圧倒させられます。どんなことがあっても愛するこの地で生き抜いて行くんだっていう生命力の塊のような樹ですよね。秋秋さん、焦ってはいけません。今はグッと堪えて準備のときだと私は思います。長くなりましたがそれが言いたくって。」

圭と秋秋の会話は今夜も夜遅くまで続いた。


(十三)

「今、いいかい?」

「立風先生?どうぞ。」

「具合はどう?」

「体調はいいですよ。痛みはすっごく引きました。立風先生のお陰です。」

「そんなことは無いけど。」

「立風先生、大人気ですよ!」

「え? なに?」

「立風先生お医者さんにしては珍しくマッチョマンだし日本語が話せるって。若い看護師さんたちワイワイ、すごい噂ですよ。患者の僕にまで訊きに来るんですから。立風先生と仲いいみたいだけど、立風先生ってどんな人って。整形外科の看護師長知ってます? あの怖そうなおばさん。」

「ああ、勿論。よく知ってるよ。」

「あの看護師長が、立風ちゃん寝顔がかわいい。な~んて言ってましたよ。」

「うそだろ、まさか。」

「僕は怪我をしてこうして入院することになって本当に良かったって思ってるんです。だって入院しなかったら立風先生と巡り合うことはなかったんですからね。立風先生といろんな事を話しをして相談できて気持ちがスッキリしたっていうか、新しい景色が見えてきたっていうか。」

「へー、どんな景色?」

「う~ん?まだはっきり姿、形にはなってないんですけど。今までは僕焦ってたんですね、きっと。この時を逃したらダメになっちゃうんだって。無我夢中っていうかただただ前に押し出すことばかり考えてたんだと思うんですよ。」

「そう、それって多分アンディー、君の心の中に一本太い柱になるようなものをしっかり据えられたってことなんだろうな。きっと。」

「柱? う~ん、そうかも知れませんね。立風先生、整形外科医よりも精神科医の方が似合ってるんじゃないんですか? 」

「ハハハ」

「ところで立風先生、お父さんのことよく話すんじゃないですか。口ではあの親父、頑固でひとの話を聴いてくれないとか人付き合いが悪くて不愛想で偏屈だとか手厳しいこと言ってましたけど。何かお父さんのこと話しているときの立風先生の顔、本当に楽しそうですよ。いつも何か生き生きしてましたよ。どうしてですか?」

「え? そうかな? そんなことはないだろ?」

「いいえ、そんなことあります。間違いありません。」

「僕のことよりもアンディー、君のお父さんはどんな人なの? デモに参加している君とお父さんとの関係は大丈夫なの?」

「・・・」

「ごめん! 余計なこと訊いちゃったかな。」


(十四)

『拝啓、唐渡圭様・・・』いや、おかしいよな。自分の父親の名前に様を付けるなんて。『拝啓、父上。・・・』これじゃ気取り過ぎか。書き出しは『初秋の候』それとも『晩秋の候』で始めるのかな? う~ん、難しいものだな。たかだか一枚の手紙を書くのにこんなにてこずるなんて。

「そこは『を』ではなくて『に』。それは『一個』ではなくて『一錠』日本語にはものを数えるときにその数えるものがどんなものかを表すことばが付くんだよ。助数詞って呼ぶんだ。猫は一匹、二匹。鳥は一羽、二羽って数えるだろう。でもな、鳥じゃなくて兎も一羽二羽なんだぞ。それはな・・・」静まり返った深夜の病院で親父の五月蠅い小言が蘇る。

 研修医として働いたこの数ヶ月間父親に対するわだかまりを自分なりに整理しようと考えた。数日前に医師資格試験合格発表の夜父親から手渡された文章を読返して立風は思い立った。よし!わだかまりをぶち破るには正面からぶつかってやろう。俺も手紙を書いて親父の本音を訊き出してやろう。


「前略、お父さん。はじめて手紙を書きます。『立風』僕はこの名前が大好きです。

 僕自身がイメージしていた名前の意味とは違っていたけれど父さんが一生懸命考え名付けてくれた立風という名前、気に入ってます。中文大学を卒業して医師の資格を取り、研修医として毎日を過ごしているといろいろなことに気付かされます。自分の未熟さ、経験の乏しさは仕方ないとしても無知で無力な自分に自信を失うやら反省させられるやら。今までの自分がどれだけ傲慢だったか思い知らされています。今日は二十四時間連続勤務の夜。静かな病院の部屋でひとりこうしていると僕や嵐がまだ小さかった頃、よく父さんと一緒に出掛けた近所の公園や浜辺で過ごしたいろんな出来事を想い出します。僕らはいつごろから会話が無くなってしまったんでしょうか。お母さんや嵐とは日頃から話をしたり相談したり相談されたり。でも、父さんとは僕が成人してから一度もゆっくり話したことがありませんでした。

 僕が父さんを避けていたから。多分、その通りです。口うるさくて頑固な父さんが嫌いでした。話をすればいつも父さんからの意見ばかり聴かされ、だんだん会話がなくなったんじゃないかと思います。僕が担当している患者さんの中に民主化デモに参加して怪我をしたやはり中文大の学生さんがいます。幸い来週には無事退院できると思いますが、彼もまた自身の父親との関係で悩んでいます。僕は診察の折に彼と話をする度に父さんとの思い出が重なってしまって。僕の机の引き出しに詩集が一冊入っています。『山村暮鳥詩集』黙って父さんの本棚から持ってきました。ごめんなさい。時々それを開いて見ています。懐かしい詩がいくつかあって。他にも面白いものをいくつか見付けました。父さん、例の『雲』の詩以外でどの詩が好きですか? 今度教えてくれませんか父さんの好きな詩。

 僕も嵐ももちろんお母さんもみんな父さんのことが大好きなんです。でも、どこか歯車が噛み合わない。原因がどこにあるのか、今まで僕は真剣に考えて来なかったことに今悔やんでいます。病気の治療も一緒ですよね。原因を突き止めなければ誤った治療をしてしまい病気は悪くなるばかりです。これから僕も逃げずに父さんと向き合っていこうと思い直しました。研修医としていろんな患者さんを診ているうちに、今からでも少しも遅くないことに気付かされたんです。傷はかならず治癒します。人は何度でもやり直せるはずですから。

 まずはこの手紙が僕のはじめの一歩です。最初はもっとエレガントというか重厚で格調高い文章を書こうと思ったんですが、やっぱり今の僕には無理なようです。父さんの言う通り中学時代にしっかり日本語を勉強しておくべきでした。でも、いつもの様にテニオハがなってないとか文章があやふやで何が言いたいのか判らないなんて言わないでくださいよ。これでも僕にはかなりの勇気と時間が必要だったんですからね。

 父さんが僕にくれた手紙に書いてあったように唐渡立風という医師と知り合えて幸せだったとひとりでも多くの患者さんから思われるような医師になれるようこれから僕は頑張るつもりです。父さん見ていてください。 

                                   草々                                    

                         二〇一九年九月二五日 深夜 


(十五)

 暁月も近づいた木曜日の夜、秋秋さんと交信をした。多分、夜空には日本刀を上段に構えて袈裟に切り込むような鋭い月が昇っているのだろう。

「今、大丈夫ですか?」

「どうぞどうぞ、ご心配なく。」

「唐渡さん、私ホームページを作ろうと思います。」

「え、何ですか? ホームページですか?」

「ええ、誰もがアクセス出来て討論できるそんなプラットフォームを作ろうと思います。みんなで香港の将来を語り合えるそんなホームページです。それに許(ホイ)教授の公開講座にも参加するつもりです。」

「許教授? あの、民主運動の理論的指導者の? よくテレビに登場する?」

「ええ、そうです。先日、葉(イプ)議員にも手紙を送りました。公開討論会の開催を呼びかけようかと思って。」

「葉議員って国建党の党首ですか? 親中派の大物ですね。」

「はい、いろいろ勉強したり情報を集めたり。まずは中立の立場でもっともっとみんなを巻き込んでいきたいんです。平和的に安全にできれば和やかに。以前、唐渡さんが仰ったここ香港の利点を100%活用して。私にできるかどうか分かりません。少しずつでもいいんです。欲張りません。今はそのための準備期間だと思っています。」

「なるほどね。それはいい考えですね。いいじゃないですか秋秋さん。是非やってみるべきです。たとえ時間がかかっても焦らずじっくり。

 今、ふと思い出したことがあるんです。これ、場違いというかちょっと今秋秋さんが話されたこととはピントがずれているようにも思いますけど。私が学生時代、もう四十年前の話になります。話してもいいですか?」

「どうぞ。是非聞かせてください。」

「大学三年の時、生協の本屋で歌集、短歌ですけど。本を見付けたんです。平積みに置かれていて、その書名が目に飛び込んで来たんですよ。気に入って買っちゃいました。衝動買いですね。あの当時の私は真っ黒に日焼けして胸や脚は筋肉がパンパンに張っていましてね。大学でボートを漕いでいたんです。肝心の勉強なんかそっちのけで。たいした漕手じゃなかったんですけどね。毎日汗びっしょりになってトレーニングして。練習のないときは酒を呑んでました。つまりその当時の私は『詩集』や『歌集』を片手にキャンパスを歩いているような学生じゃなかったんですよ。外見もお頭の中も。それが大学生協の本屋で手が伸びたんです。『無援の抒情』っていう短歌集です。道浦母都子っていう女流歌人が書いたものでした。その歌集の中の歌を想い出したんです。秋秋さんに聴かせたいなって思ったんですよ。今ふと。・・・こんな歌です。


『明日あると信じて来たる屋上に旗となるまで立ちつくすべし』


『ガス弾の匂い残れる黒髪を洗い梳かして君に逢いゆく』


『催涙ガス避けんと秘かに持ち来たるレモンが胸で不意に匂えり』


日本でも今から五十年前。学生運動が盛んでいろんな事件が国内で起きたんですよ。その時の学生の置かれた立場は香港の今と真逆ですけどね。

 一九六八年十月二一日国際反戦デー。東京の新宿駅に全国から学生が集結しましてね。日本政府はその日の深夜、その集まった学生らに騒乱罪の適応を決めるんです。何か天安門事件みたいですけど。機動隊が新宿駅に突入して大勢の学生を取り押さえて逮捕する事件があったんですよ。

 私の結婚式、仲人していただいた方の奥さんはその日わざわざ岡山大学から参加したって言ってました。夜中、深夜喫茶に逃げ込んで服にしみついた蛍光塗料を必死に洗い流したそうです。あの当時の日本も今の香港のように相当熱くなっていたんでしょうね。

 その前後に作った歌だと思います。道浦母都子自身、大学生で当時の学生運動にも参加していたはずですから。だから臨場感があるっていうか、説得力があるっていうか。初めて読んだときドン!と何かで胸を突かれたような衝撃がありましたもの。

 繰り返しますが、今秋秋さんがおかれている立場とは違いますよ。でも何か一本真ん中を貫く精神棒というか大きな柱のようなものが共通するように感じるんです。いいでしょ、最初の歌。残りの二首はなんか過激な学生運動の最中でも乙女心を感じて私好きなんです。」

「本当素敵な歌ですね。ありがとうございます。私もやってみます。いろんな立場の人たちが一緒に集えるようなそんな広場に立って。明日がきっとやって来るって信じながら立ってみます。」


(十六)

 仕事から戻ると寝室の文机の上に手紙が置いてあった。差出人は唐渡立風とある。今日の昼間、洗濯物でも持って家に立ち寄ったのだろうか。

 その手紙を何度も何度も読み返した。そしてその日の夜、ひとり外に出た。烏渓沙(ウーカイシャ)と呼ばれるこの辺り、以前は海沿いに伸びる二車線の道路だけが香港の中心街に繋がるそれは鄙びた場所だった。二十年ほど前に道路が拡張され周辺の開発が始まり、十年前には鉄道も延伸して海岸線もきれいに整備された。海岸線に並行して伸びるプロムナード。点々と街灯が灯り、小さな湾には漁火が揺れて空には星が瞬いている。今ではここは人気のベッドタウンだ。

 移り住んだ頃はまだプロムナードも海辺も整備されておらず、草を分け入り小さな子供たちを連れて浜辺に遊びに出たものだ。立風は浜に流れ着いた古タイヤやドラム缶、大きな浮きやポリタンクを木切れでトントントントン叩いて歩き回り、嵐はそんな立風の様子をワイワイ囃し立てひとり楽しそうに騒いでいた。子供たちが成長し学校に通い出してからは近くの公園でよく二人とサッカーをした。本音を言えば息子たちとキャッチボールがしたかった。それは結婚当初からの夢だ。一時グローブを買い与えたことがあるが結局、立風も嵐も興味を示さずサッカーに夢中になった。嵐はサッカーのセンスがあるらしく中学校にあがるとクラブに入りたくさんのメダルやトロフィーを貰って帰って来るようになった。気付かないうちにその公園の樹々も大きく育ち今では街灯を覆うほどに幹も枝も伸びている。子供たちの上にもその時間は同じように流れ、彼らも成長した。

 新月が近づいた。思えば『新月』とはおかしな月だ。形が見えないのにその月の名前がある。月がそこにあるのに私たちには見えない。目に見えなくてもそこに在る。地球と互いにピンと張った力で引き合っている。今夜は大潮だろうか、海辺の方から時折り潮の騒めきが聞こえるようだ。妻や子供たちともそんな関係でいたいものだと思う。見えないけれど側に居る。お互いをしっかり感じ合っていられるような関係。


(十七)

 新月の夜、これが秋秋さんとの最後の交信となるはずだ。

「へーそんなことが。やはりこれだけ大きな社会現象になれば運動の局面局面で、ジジッジ それぞれ個人の暮らしや生活にいろいろな影響があるんでしょうね。私たちの知らないいろんなことが起きているんでしょう。きっと。そういうジジッジ 個人的なことってあまりニュースにならないから。ジジ」

「ええ、一個人 ジジッジ のことはニュースとして取り上げられませんから。家族でも親子間で ジジジ も学校でも生徒や教 ジジ 師の人たちとの間でも互いに対立したり疎遠になったり。」

「なるほどね。」

交信状況が悪化する中でもそれぞれの意見交換は続いた。

「ええ、私もそう思います。秋秋さん。社会の健全性は言論の自由を担保されない限り成り立たない。ジジジ 誰もが信じることを ジジッジ 口に出せるそんな社会でなければ未来はあり得ません。そう思います。ジジ 仮に経済的に潤っても、それは見せかけの豊かさだと私は思います。」

「そうですよね。社会に生きる人々、取分け若い人たちが将来の『理想』を語り合える社会。大人たちが我が子に ジジ その未来を託せる社会。当たり前のようですけど、香港が ジジジッジッジ そんな社会ではなくなってしまいそうで。私、とてもとっても不安です。」

「ところで、秋秋さん。我々がこうして通信し出したのが満月の夜でしたよね。」

「ええ。そうですね。大きなお月さまがお空に浮かんでいましたあの夜。」

「秋秋さんは香港の未来を憂いて民主化運動に携わろうとしている。ジジジ 行政長官はそんな民主化運動を中国の強い要望を受けて徹底的に抑え込もうと ジジ しているわけでしょ。キャリー・ラム 行政長官の彼女の漢字名は林鄭月娥。ジジッジ 『月娥』って嫦娥のことですよね。月の女神の。何か皮肉っぽいって言うか、何かおかしいですよね。」

「え? どうしてですか? 何がですか?」

「だって、ジジ 私はお月さまが ジジッジ 秋秋さんと私を巡り合わせてくれたんじゃないかと。こうして交信させてくれてるんじゃないかと思うんですよ。ジジ 月の明かりが私たちの間を取り持ってくれてるんじゃないかとね。」

「え?もしそうだとしたら。今日は多分・・・新月ですよ。ジジ・・・」

「ええ。」

「え! もしそうだとすれば。もう私と唐渡さん、こうしてお話しできなくなるってことですか? 今日が最後に。ジジジ」

「ええ、私はそう感じています。多分、今日が最後じゃないかと。もうすでに ジジジ ときどき ジジ 途中で交信が途絶えたりしていますよ。秋秋さんの方は? 秋秋さんの方はどうですか?」

「確かに、ええ、何度か音声や ジジジ 画面 ジジ が乱れたりして・・・います。」

「そうですか。やっぱり。」

「・・・・・・」

「どうしました?」

「私、私嫌です。ジジジ このまま唐渡さんとお話しできなくなるなんて。絶対に嫌。」

「・・・・・・」

「唐渡さん、どこかでお会いできませんか? それが出来なければせめてメールアドレスか携帯の番号を知らせてもらえませんか? ジジッジ」

「だめでしょうか? 唐渡さん。ジジ 唐渡さん!」

「・・・・・ 止めておきましょう秋秋さん。仮に今日を境にこうして交信できなくなったとしても。それが自然のように思います。ジジッジ 正直に言うと私も秋秋さんに会ってみたい。でも、ジジ それはしない方がいいように私は思うんです。」

「でも・・・・でも・・・・・・   分りました。・・・残念ですけど。唐渡さんの仰る通りにします。

 ・・確かにあの日満月の夜、私はフェイスブックにメッセージを投稿したんですよ。ジジ なのにそれが唐渡さんだけに届いて。しかもそのあとは私がお話ししたいなあと思っているときに必ず繋がりました。確かに不思議です。」

「多分、お月さまが助けてくれたんですよ。きっと。

秋秋さん、もうあなたは大丈夫。しっかりやって行けますよ。

秋秋さん、決して希望を捨てないこと、信じることです。

必ずやって来ますよ、秋秋さんの希望が叶うその日が。きっとかならず。」


 互いにこの交信がまた再開されるとすればそれは香港が甦るその日だと確信した。

 

彼らは港から大海原へと舟を漕ぎ出す

彼らが古(いにしえ)となるその日まで

月華よ彼らの旗をかざし給え

月魄よ大海原を漕ぎ進む勇気と力を彼らに与え給え

 

秋秋との交信が途絶えて三ヶ月が過ぎた。

 その間、中文大学では大学構内に警官隊が突入して多くの逮捕者を出した。理工大学でも学生が構内に籠城し大学キャンパス近くを走る交通の大動脈である香港海底トンネルの出入り口を封鎖。数週間に渡る警官隊との激しい攻防の末、海底トンネルは再開通される。

 今日もその理工大学近くのトンネル出入り口を跨ぐ高架橋を渡り会社に向かう。途中横切る香港市政七十周年記念公園にはたくさんの洋紫荊が花を付けていた。香港の区旗や区章に描かれる洋紫荊の五弁の花。赤紫のその花が私を見下ろしている。

 風が吹いた。ハート型した大きな葉が蝶のようにはらはらと舞い葉先の花たちも一緒に揺れる。仲たがいした兄弟たちに団結を促し、彼らを諫めるため一夜の内に枯れてしまったという故事を持つ洋紫荊・バウヒニアの花。その花言葉は『愛』『和睦』『連帯』だそうだ。またいつか香港の人たちが肩を組みこの花を愛でる日が一日でも早くやって来ることを私は祈った。しかし、例のスタバは依然厚いベニヤ板に囲まれ改修工事の始まる気配は今もない。       

                                      完


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Bitter Enders @attarimaeda

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