峠モール
西野ゆう
訣別なき道へ
多くの郊外型ショッピングモールは、安価な土地を利用して(多くは農地転用許可を得て)平地に広大な敷地を有する。しかし、そのショッピングモールは平地ではなく、峠に位置していた。麓から見える姿は、さながらスコットランドのエディンバラ城のようでもあった。
A棟からE棟までの全五棟は全て地上三階建てだが、建物の外から見ると階段状になっていて、瀟洒な時計塔のある中央のC棟が一番高くなっている。A棟とE棟の三階がB棟とD棟の二階に繋がり、それぞれはC棟の一階に繋がっている。
「儂はね、この店に連れて来られる度に真壁仁の峠っちゅう詩を思い出すのじゃよ」
「峠、ですか」
B棟の三階から出た所にあるA棟屋上の喫煙所で、私はその老人から一遍の詩を聞かされた。
峠は
峠には訣別のためのあかるい憂愁がながれている。
峠路をのぼりつめたものは
のしかかってくる天碧に身をさらし
やがてそれを背にする。
風景はそこで綴じあっているが
ひとつをうしなうことなしに
別個の風景にはいってゆけない。
大きな喪失にたえてのみ
あたらしい世界がひらける。
峠にたつとき
すぎ来しみちはなつかしく
ひらけくるみちはたのしい。
みちはこたえない。
みちはかぎりなくさそうばかりだ。
峠のうえの空はあこがれのようにあまい。
たとえ行手がきまっていても
ひとはそこで
ひとつの世界にわかれねばならぬ。
そのおもいをうずめるため
たびびとはゆっくり小便をしたり
摘みくさをしたり
たばこをくゆらしたりして
見えるかぎりの風景を眼におさめる。
この天碧の下、ゆっくりと小便をするわけにもいかず、こうしてたばこをくゆらす私も、眼で以って見える限りの風景を心におさめようと試みた。
「でも、ここは絵になる景色じゃないですね」
広がるモールの屋上に点在するベンチと作り物の樹木。屋上からはみ出た空には民家の屋根から電柱へと飛ぶカラスが仲間を呼びながら徘徊している。せめて青い鳥でも飛んでいれば真壁仁の言うところの「大きな喪失」になり得る景色になっただろうか。
私は試しにスマートフォンを取り出して、そのレンズ越しに綴じあう風景の片方を覗き見た。だが、やはり画面上のシャッターボタンを押す気持ちにはならなかった。加えて、「こんな面白くもない景色を眺めるのはよせ」と言わんばかりに、画面は現実を呼び寄せた。いや、画面越しの風景も現実には違いないのだが。
「もしもし。ああ、電気屋だね。わかった。じゃあテレビ売り場の前で」
家族とのいつもの待ち合わせ場所だ。我が家には絶対に必要のない八十インチのテレビの前。そのソファーが指定席だ。
「もうね、この景色は大きな喪失をした後なのだよ」
電話を終えた私に、老人ははっきりとした口調で言った。
「そうかも知れませんね」
私の記憶にもわずかに残っている。昔ここにあった風景。その風景はやはり私の胸の奥においても大部分が喪失されていた。
D棟にある妻に指定された待ち合わせ場所。だが、大型のテレビモニターの前に妻や子供たちの姿はない。きっとここに来る途中、子供達におもちゃをせがまれているのだろう。
私はソファーにワイヤーで固定されているテレビのリモコンを操作した。メーカーオリジナルものではなく、大きなチャンネル変更ボタンと音量調整ボタンだけが付いているリモコンだ。チャンネルをひとつずつ変えていると、途中でありえないものが映った。
「砂嵐?」
砂漠地帯で起こる本当の砂嵐ではない。テレビがアナログだった時代、映像信号と音声信号を受信していないとき、画面が砂嵐のようにランダムな光の粒を映し、スピーカーからはザーッという音が流れていた。その砂嵐が、八十インチの画面に広がり、スピーカーを響かせた。
吸い込まれる。
そう思った。だが、無論そのようなことが起こるわけがない。
しかし、一瞬ではある。一瞬ではあるが、私の世界の全てが砂嵐で覆われた。闇と光の粒と風の音。荒い粒子がぶつかる音は、私の脳内で電子が駆け回る音のようにも聞こえた。
ふと目の前を飛び立つ青い鳥。一羽、もう一羽と群れを成し、やがて私の視界を砂嵐から青一色に変えていく。
「信号を受信していません」
その文字を認識した時、ソファーに座る私の膝の上に圧力を感じた。
「パパー、ミニカー買ってもいい?」
見下げると息子の甘えた笑顔。見上げると妻の困り果てた笑顔。妻が抱く娘は眠りの中だ。
峠。
峠は
峠には訣別のためのあかるい憂愁がながれている。
峠路をのぼりつめたものは
のしかかってくる天碧に身をさらし
やがてそれを背にする。
風景はそこで綴じあっているが
ひとつをうしなうことなしに
別個の風景にはいってゆけない。
大きな喪失にたえてのみ
あたらしい世界がひらける。
私は喪失してしまった記憶さえ喪失しているのだろう。
A棟の屋上で会った老人の表情さえ思い出せない。
自身の中の旧世界との訣別と新世界との出会いを謳う真壁仁は、昭和22年に詩誌「至上律」で訣別すべき過去の自分を永遠に残した。皮肉だ。彼は自身の「峠」という作品を、峠を迂回してどこからでも見える景色にした。
「お前たちは太陽とか月であって欲しいな」
私は妻を見上げて呟いた。
この世界のどこにいても失うことのない景色に。それは欲張りなことかも知れない。砂嵐の中にあっても存在を疑うことのないものに囲まれていたい。
意味の分からぬことを言う私の首を傾げる妻の手を取り、膝の上に乗る息子を片手で抱き上げる。
「じゃあ、ミニカー買って帰ろうか」
息子のお目当てのミニカーを買い、C棟の中央口から駐車場へ向かう。
私は自分の車に乗り込む前にA棟の屋上を見た。
そこに誰がいるかは分からない。だが、過去の世界から立ち上る狼煙のような紫煙が、天碧に向かう憂愁の形を見せていた。
峠モール 西野ゆう @ukizm
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