第4話 嘘

 二人は朝食を終えて片付けを済ませ、夏海の記憶喪失の理由についてきちんと話し合うことにした。

 白いローソファに腰掛ける夏海の腹の中には、重い空気の中食べた朝食が居心地悪く居座っている。

「それで、記憶喪失の理由なんだけど……」

 圭悟は言いにくそうに首を傾げる。

「例え辛い理由だとしても、聞く覚悟はできてるから大丈夫。何も分からない方が怖いの」

 夏海は決心がついたように圭悟を見据えた。

 その顔を見て、圭悟は自分に言い聞かせるように何度も頷くと、ゆっくりと言葉を選ぶように慎重に話し始めた。

「一番の原因は、ナツのお母さんだと思うんだ」

 夏海の顔を確認して、一呼吸置いてから続ける。

「その、凄く言いにくいんだけどね。ナツのお母さんは君に、暴力を……」

 言葉を詰まらせて俯く圭悟を見て、夏海はいたたまれない気持ちになった。

「ナツはお母さんとおばあちゃんと三人暮らしだったんだけど、おばあちゃんの認知症が酷くてそのせいでお母さんが精神的に参っちゃって、そのストレスのせいできっと、きっとナツに──」

 圭悟は、込み上げてくるものを抑えきれずに、膝の上で握りしめた拳の上にぽろぽろと涙を落とした。

「ごめんね。もう分かったから、ありがとう。言いづらい事だったのに教えてくれてありがとう」

 肩を震わせながら声を押し殺して涙を流す圭悟の背中を、夏海はゆっくりとさすった。

 気が付けば夏海の目からも大粒の涙が零れていた。その涙の理由は、自分が母から暴力を振るわれていたことに対するものではなく、圭悟の感情に共鳴して流したものだった。

「僕、そんなナツを見てるのが辛くて、だから二人で暮らそうって言ったんだ」

「ケイ君が助けてくれたのね。それで私はいつ記憶をなくしたの?」

 圭悟は涙を拭って顔を上げる。幾分か冷静さを取り戻したようで、やや詰まりながらも説明を続けた。

「昨日のお昼過ぎ、多分十三時くらいだったと思う。デートの約束をしてたから僕がナツを家まで迎えに行ったんだ。そしたら家の中から物凄い怒号が聞こえてきて、玄関から出てきたナツに何があったか聞いたんだ。そしたら、お母さんがおばあちゃんを殴ったって。ナツは泣いてるし、お母さんはパニックになっておばあちゃんを起こそうとしてるしで、僕どうしたらいいか分からなくて。だから、ナツを連れて逃げたんだ」

 もちろん夏海は圭悟が語ったことなど何一つ覚えていなかった。

 事実を知り絶句している夏海を横目で捉えながらも、圭悟は続ける。

「家に着いた時、なんだかナツぼーっとしてて、何を言っても上の空みたいな感じでさ。あんな事になって相当ショックだったんだと思う。だからその日はまだお昼だったけどもう寝かせることにしたんだ」

「それで、目が覚めたのがさっき……?」

 圭悟が首肯する。

「昨日そんな事があったなんて……。本当に何も覚えてないの。その後お母さんとおばあちゃんはどうなったの?」

「分からない。け、けど、もう戻らなくていいんじゃないかな。戻ってもまた暴力を振るわれるだけだよ。ずっとここに居れば僕が守ってあげるよ。だからここに居て?ここで僕と幸せになろうよ。ね?」

 圭悟は余裕がない様子で早口で捲したてて同意をせがんだ。

 圭悟の鬼気迫る表情にただならぬ恐怖を感じた夏海は、何も言葉を返せなかった。

 本人は柔和な笑みを浮かべているつもりなのだろうが、実際に笑えているのは口元だけだった。その口元でさえ歪んでいる。

 夏海は、圭悟の笑わない目の奥に、何か、狂気にも似たものを垣間見た気がして身震いした。

「大丈夫だよ。結果的に二人で暮らせる事になったんだしさ、必要なものは僕が全部揃えるし。だから安心して」

 一瞬見せた歪な表情から一変し、人懐っこい笑みで夏海に微笑みかける。

 夏海は心のどこかに感じていた圭悟への不信感が、確かなものへと変わっていくのが分かった。

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歪な愛の片鱗 阿久津 幻斎 @AKT_gensai

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