第九十七話 乙姫の狂気
「お母様……もう、もう良いのです。もう、もう闘わなくても良いのです」
そう告げるシズ姫に乙姫は
「もはや敵も味方も意味はなし。喰らい尽くしてやろうぞ」
それは狂気の目だった。
大妖ハデスの
その怨念を一身に受けて、まともでいられるはずがない。
正気を失っている。
「ああ……お母様」
シズ姫は傷つつき尽くした母を、抱きしめようと腕を広げる。
「お母様……」
その両頬にいく筋もの雫がこぼれ落ちた。
その姿を見ても乙姫には響かなかった――いや、誰を認識しているかもわからない。
「うがぁぁ――っ」
神楽を止めてしまったシズ姫に、もはや結界はない。
乙姫のあまりの変貌ぶりに、身をすくませていた一同の中から太郎さんが飛び出した。
「危ないっ」
とシズ姫の身を突き飛ばし、黒い瘴気をもろに被ってしまった。
「ぐはぁッ」
黒い炎に焼かれ身悶えする。
「「太郎殿っ」」
クロウさんと七郎さんが駆け寄り、上着を脱いで火をはらいおとそうとするが、叩いても叩いても黒い炎は消えることはない。
「お父様っ」
我に帰ったシズ姫が、神楽鈴を手にしゃらーーんと鳴らすと、涼やかな音が金粉となって太郎さんに降り注いだ。
シャラシャラ……シャラシャラシャラーーン……と鈴の音は鳴り引き、金粉はまとわりつくように太郎さんのまわりを舞う。
「ぐうっ……」
瘴気の業火に焼かれて、激しく身悶えていた太郎さんがゴロリと仰向けになった。
黒い炎は金粉が触れるたびに浄化されていき、霧散していく。やがて金粉も消えると太郎さんはよろよろと身を起こした。
「おのれ、我を見捨てて逃げた男がいっぱしの父親気取りか? シズ姫より先におまえを食ろうてやろうぞえ」
巫女服の袖からニョキニョキと腕が伸びていく。乙姫の美しい顔は目が吊り上がり、真っ赤な唇からはみ出す牙を剥き出すと、
「かぁっ!」と吠えた。
膝を屈伸させるとヒョウと飛びかかってくる。
そのまま長い腕を振りかざすと、刃物のような爪で斬りつけてきた。
「七郎っ「若っ」」
と呼応するクロウさんと七郎さん。
手にした刀と薙刀で振り下ろす爪を受け止めた。
「邪魔だ、きさまらも食ろうてやろうか」
と乙姫がこちらへ向き直る。
そこへ太郎さんが倒れ込むように割り込んで手で制した。
「オト――乙姫、目を覚ませ。この通りだ」
と例のイケボで訴える。
「殺す――殺して魂を食ろうてやる」
「ああ、そうなさい。私の魂もくれてやろう、それで貴女の痛みが収まるなら。苦しみが救われるなら」
太郎さんは見事な土下座をしていた。
「貴女の心をどれだけ傷つけたかもこの十三年でよくわかったよ。萎びた翁に変えられてよくわかった」
地に顔を伏せたまま
「失った時間の大事さをよくわかったのだ。思う人がいなくなってしまう辛さがよくわかったのだ」
と肩を震わす。
「貴女の憎しみは私一人に――私一人で許してもらえぬだろうか」
「きさまごときで治るものかっ。欲にまみれた人間の全てを喰いつくしてやる」
と再び腕を振り上げたとき。
クロウさんが懐から取り出したモノを突き出し
「乙姫殿っ、御免」
と乙姫の腹に押しつけると、やがて乙姫が薄い光で包まれる。
「グォォォ――――っ」
乙姫が苦悶に身を捩らせた。
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