第八十四話 大妖ハデスの進撃の後ろで

 憎悪を喰らって巨大に膨れあがった大妖ハデスは、“ラの国”の布陣する街道へゆっくりと移動を始めた。

 ズシンッズシンッと歩を進めるほどに地響きがたち、シュウシュウと全身から黒い瘴気を噴き出している。


 ゴツゴツとした表面は焼けただれた火溶岩流のように赤黒く、ゴリラのように長い腕を地につけて、極太の短い足は踏みしめるほどに地を穿った。

 その背には黒い楕円形の盾のような甲羅を背負っており、その先に見える小さな頭らしきものは、巨体から飛び出した半球の突起物に見える。


 時折それを左右に巡らせているのは、獲物を探しているのか、それとも幾千年ぶりに降り立ったこの世に戸惑っているからなのか。


 やがて“ラの国”の軍勢に体を向けると、

『ヴォォォォォォ――ッ』

 と何度目かの咆哮を上げ、ゆっくりと王都エテルネルの城壁に四本のうちの一本の腕を振り上げると、積み木を壊すようなたやすさで打ち壊した。


――――その大妖ハデスが去った竜宮城の跡地に。

 宮殿はただの瓦礫と化し、わずかに残った石壁のおかげで無傷で済んだ王族のびょうがあった。


 漆黒の瓦と漆喰の白い壁に、柱だけが朱色に染め上げられたそれは今や爆撃の火災と大妖ハデスの巻き起こした土埃ですすけだって、荒屋のようになっていた。

 その扉がぎぃと鳴り、中からクロウさんがひょっこり顔を突き出す。


「もう大丈夫なようだの」


 爆音が止み、大妖ハデスの咆哮が遠ざかったのを見計らって、外の様子を覗きに顔を出したのだ。


「若ッ、拙者が偵察しますほどに、しばらく大人しくしておいてくだされ」


 ほっておいたら、どこに行くかわかりませんからな。と続けそうな迷惑げな顔で七郎さんが、クロウさんを廟に引き込む。


「む? 七郎よりはワシが素早かろ? 心配無用じゃ」

 クロウさんが口をへの字に曲げていると、その脇をすり抜けるように戸口に身を寄せて、シズ姫が外を窺っている。


「お母様……」


 と胸の前で指を絡めて上下させている。


「安心いたせ。ワシが見てきてやるからの」


 そう言い捨てると、ヒョイと外に飛び出した。

「クロウさまっ、まだ危険でござる。火が治るのを待って――」


 あちこちで爆撃の跡から燻る煙が上がっていた。


「七郎も手伝え。大妖ハデスがどこへ向かったか見定めるのじゃ」


 ついて参れ、そう言って竜宮城を囲っている城壁を指差すと駆け出した。


せわしいガキだ」

 と廟の奥からワルレー軍卿の声が響いた。


「本当にあのバケモノを治ることができるのか? ここは王族の力を見せてもらわねば、軍部も空手形だけでは納得せぬぞ」

 とシズ姫を見やる。


がやろうとしていたことを眼前にして、何を仰っているのですか?」


 震える声で反駁するシズ姫の肩を、太郎さんがそっと抱く。


「シズ姫……大丈夫だよ。乙姫がそう言っていたじゃないか?」


 と優しく微笑んで。


 常世の国へ逃れて十五年弱の年月が流れて、父親らしい顔ができているのかわからないままに、娘にどう向かい合えば良いのかわからない男は複雑な顔をしている。


「それでは私がおとなしくしていれば、お母様が無事――と言うこともないでしょうに」

 と恨みがましい目でシズ姫に口ごたえされると、


「そうではある――だが、お母様がこの太郎めに頼みますと言った以上、シズ姫は私の諫言をお聞きくだされ。今はここで待つのも大事な役目ですぞ」


 とにっこり微笑んだ。

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