沼らせる男、沼る女。沼らせる女、沼る男。

土車 甫

別に私はもう好きじゃないから

 街に出かけた際、一目見て気に入って買った服を初めて身に纏う。


 それだけで気分は自然と上がり、化粧のノリもいい気がしてくる。


 それに。今日は彼氏の部屋にお邪魔する予定だから。


 鼻歌混じりに準備を済ませて、浮き足立てながら部屋を出て彼のもとへ向かう。


 彼の部屋に行くのは初めてじゃないけど。好きな人の部屋で同じ時間を過ごすことに高揚を覚える。


 彼の部屋がある階までマンションのエレベータを使用して上がる。備え付きの鏡で身だしなみを整える私の表情は明るい。服も似合っている。


 部屋の前に着き、インターホンを押すと、しばらくしてドアが開いて彼の姿が現れた。


「入って」


 彼はそう短くと言って部屋の奥に戻ろうとする。


 私は急いで閉まりかけるドアを押さえ、中に入る。


 部屋の至るところに置かれた空き缶や洗い物が溜まったキッチンを見て、後で掃除をしなきゃなと思いながらリビングに入ると彼に抱きつかれた。


 嬉しい。彼の匂いが鼻腔をくすぐる。私も彼を抱き返そうとする。


「あぁ、いいから」


 気づけば彼の手は私の服を掴んでおり、そして、そのまま上にずらしていく。


「どうして脱がすの」


 まだ褒めてもらっていないのに。


 体を突き放すことはなく、言葉だけで抗議をする。


「だって邪魔じゃん」


 それだけ言って、彼は動きを止めない。


 あぁ、そうだ。こういう人だった。


 私は心の中で悪態をつきながら、彼にされるがままになる。


 事が終わり、私に用がなくなった彼は携帯を弄り始めた。


 部屋の掃除をしながら、上半身裸のままだと風邪を引くよなんて小言を言っても返ってくるのは生返事だけ。


 あぁ、最悪だ。最低野郎だ。


 その日はあと何回か求められたあと、数日分のご飯を作って家に帰った。家に着いた連絡をしたけど、その日のうちに返事はなかった。


 翌日。大学の講義を終えたあと、バイト先のレストランに向かう。


 入学してからすぐに始めたバイト。既に三年目に突入しており、この店ではベテランの内に入る。


 だから業務も手慣れたもののはずなのに。小さな失敗を繰り返し起こしてしまった。


 ため息が漏れる。


「どうしたの? もしかして彼氏?」


 私の異変を察した友人に問われ、否定する必要もないなと首肯する。


「はあ。人の彼氏にケチつけるのは気が引けるけどさ、やめときなよそんな奴。正直、あんたがあんな奴のどこに惹かれてるのかわかんないよ」


 彼のいいところ? ……なんだろう。思い浮かばない。


 どうして私は彼と付き合ってるんだっけ。なんでこんな思いしてるんだっけ。


 ……あぁ、そうだ。別れよう。あんな奴、こっちから捨ててやる。


 自分の中で気持ちが冷めていることに気づいた私は、それから数日間彼に連絡を取ることもなく過ごした。


 近所のコンビニに買い物に行くために着た適当な服の格好のまま、自室でぼーっと過ごしていると携帯の通知が鳴った。


『どうして最近来ないの? きて』


 久しぶりの連絡。なのに命令口調なんだ。ムカつく。


 そろそろ別れ話をしないといけないと思っていたんだ、丁度いい。


 これで終わりにするんだと固く決意して彼の部屋へ向かう。


 エレベーター備え付けの鏡に映る今日の私の表情は明るくない。


 部屋の前に着いてインターホンを押す。するとすぐにドアが開かれ、まだマンションの廊下であるにも関わらず抱きしめられる。


「はなして」


 冷たく突き放すように言う。


 すると彼は一瞬間を置いたあとゆっくりと離れ、「入る?」と俯き気味にきいてきた。


 そういえば、彼の部屋に置いてあるものあったっけ。


 私は彼の問いには答えず、無言で中に入った。


 先日きれいにしたばかりなのに、既に部屋は荒れている。何もないところを探しながらリビングまで歩く。


「今日の服、かわいいね」


 別れ話をして荷物を回収したらすぐに帰ろう。そう思っていたのに。彼は余計なことを言う。


「初めて見た。最近買ったの? 似合ってる」


 何を言ってるんだ。先日も同じ服を着てきたのに。その時は何も言わず脱がしてきたくせに。


「どうして。どうしてさっき抱きついてきたの」


 つい口にしてしまった問いに、彼はどこか気恥ずかしそうに答える。


「なんか落ち込んでる気がしたからさ」


 その原因は誰なのか。そんなの明白なのに、本人に言ってやればいいのに。私は口を噤む。


「レイ」


 私の名前を呼んで、再び抱きついてくる彼。


 彼から意識を逸らすように視線を移す。テーブルの上には空になったカップラーメンの容器が積み重なっている。


 あぁ、またこんなものばかり食べて。誰かがちゃんと作ってあげないと。本当にダメな奴。


「本当に可愛いよ。その服も、着ているレイも」


 そんな甘い言葉を並べながら、彼の手は私の胸に移動する。横にあった顔も、気づけば正面にきていた。


 反省してるのかと思ったけど。そっか、結局するんだ。


 まあ、いいか。今日は見逃してあげる。目を瞑ってあげる。


 だけど次はないから。


 本当だから。

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沼らせる男、沼る女。沼らせる女、沼る男。 土車 甫 @htucchi

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