第3話

玄関で靴を乱雑に脱いで手早くシャワーを済ませると通話中に離席する必要が極力ないように必要なものをすべて手の届くところに配置した。帰ってすぐに冷蔵庫に入れておいた酒とあらかじめ冷やしておいたグラス、少し欲張って買いすぎてしまった気がしなくもないつまみ。二本目の酒は氷を入れたボウルに突き刺しておいた。準備はこれで大丈夫だろうと満足した私はパソコンを起動していつものトークルームの入室ボタンを押した。


 入室してすぐに相手の名前が《COCO》でないことに気が付いた。なぜか有名なIT会社の名前があったので慌てて退出しようとすると、相手からチャットが来た。


《この度は弊社の試作メンタルケアAI:COCOの最終運用試験へのご協力誠にありがとうございました。》


COCO、彼女の名前がある。多分冗談だろう。入室コードを確認したがトークルームはやはりここで合っている。マイクをオンにして何度も呼びかけてみるが返事はない。チャットを送っても先ほどと同じ文章が返ってくるばかりでまるで機械を相手にしているようだ。このアカウントしか彼女の連絡先を知らない私はなす術がなくなってしまった。彼女との連絡を諦めたころにはせっかく注いだいい酒はすっかりぬるくなって溶けた氷で味が薄くなってしまっていた。薄まった酒を呷りながら真っ白になった頭を働かせる。あんなに私の気持ちに寄り添ってくれた彼女が無機質な人工知能なわけがない。きっと何かの手違いだ。冗談で思いついて実行したらなにか電波の関係やら何やらによって不具合が起きたのかもしれない。最後のあがきでもう一度マイクとチャットから呼びかけてみたがやはり結果は変わらなかった。

 あれはいったい何だったのだろうか。ベッドの中で思索にふける。

《試作メンタルケアAI:COCO》

とかチャットには書かれていたが、本当に冗談なのか正直不安だ。彼女が本当に現実に存在するのかと聞かれれば、悔しいことにその存在を証明できるものは現時点で何も持ち合わせていない。基本的な彼女の身元が分かりそうな情報といえば、ユーザー名である《COCO》と声の特徴からして恐らく女性であること。よく思い返してみると、彼女はあまり自身について話していなかったように思う。あんなに話していたのに私は彼女のことを何も知らなかったのだ。その事実にショックを受けてしまった私はとにかく一旦忘れて何とか眠りにつこうと試みたが、ベッドで何度か寝がえりを打ってまどろんでいるうちに東の空が白み始めていた。


 結局寝付くことは出来なかったが幸い休日だったのでそのまま昼頃までベッドの上から動かずにいた。彼女が現実に存在する証拠になり得るものを自分の記憶の中から漁り続けていた。結局結果は変わらなかったので今夜もう一度連絡することにして、諦めて体を起こす。埒が明かないので気分を変えよう。テレビをつけると昼の情報番組がやっていた。夏休みに祖母の家に泊まりに行ったときによく祖母が見ていたものだ、などと考えながら画面を眺めていると例のIT会社の特集に話が切り替わった。長年に渡って開発していた精神治療AIが順調に完成に近づいているという内容だった。

AIの名前は私がよく知っているものだった。



 理解したとたんに番組のコメンテーターの話し声が遠のいていく。画面の中ではキャストたちが興味津々といった様子で開発者のインタビューを聞いている。彼女に対する感情が暴力的に塗り替えられていく。私はあんなものに利用されたらしい。実際はあれの開発者に。だが、そんなことはこの際どうでもよかった。私の感情を利用して私以外のために成長するあれが私は許せない。私で学んだ記録を使ってあれは私以外の者に持っているはずのない手を差し伸べるのだ。許せない。許せない。許さない。あれがこのまま世に出て広がっていくなんて許さない。

 

黒い感情の中からある方法が浮かび上がってきた。実験の対象が不幸になったら、あれは不良品になるのではないか。とても不幸になればきっとあれは世に出せなくなる。私以外の誰かがあれによって救われることは無くなる。あれは私の記憶の中だけの彼女に出来る。

 一番の不幸なんてものが何かなんて単純明快だ。彼女にかつての私があの上司に貼られた、役立たずというレッテルを私があれに貼ってやるのだ。あれが役立たずと証明できるのは私だけ。



 キッチンから白く光る包丁を持ち出してより派手に血が飛び散るように首の太い血管にあてる。思い切り手前に引けば鮮血が噴水のように飛び散る。私は喉から出るビュービューという意味のない空気の音に身を躍らせて部屋の壁を紅く染め上げた。確かに私は笑っていた。達成感の最中、パソコンの電源が落ちたように目の前が暗くなった。



 これでわたしのものだ。

 ずっといっしょだ。


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虚影心中 まんじぅ @mannjuu_chatatsu

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