軌跡

坂本梧朗

その1

 祖父と祖母が吉彦の家に移ってきたのは吉彦が大学受験に失敗し予鑈校に通っていた年の七月であった。 その頃の吉彦はイライラとした不安定な生活を送っていた。 高校時代にもそうだったがその頃はそれが強くなっていた。


 予鏘校は吉彦の通っていた県下有数の進学校に事実上付属していた。 そこは木造の貧弱な建物で、 使所なども汚なく、 浪人の吉彦を 一層みじめな気持にさせた。 予備校から見上けた位置に吉彦の卒業しだ高校が鉄筋二階建の白い校舎を見せていた。


 吉彦はまわりの人間と常にギクシャクした関係を持っていた  人間 だけでなく外界全部が吉彦と摩擦を起こしていだ。外界のすべてが吉彦に反発と批判を起こさせた。 吉彦は追い詰められたハリネズミの様にヒリビリとした針を外界に向けていた。大学受験の重圧は吉彦の心のその病的な緊張を強め、 固定した。


 吉彦が祖父と祖母が家に移ってくるという話を聞いたのは、自ら「狂気の夐」と呼んでいた予備校の夏期休暇の近づいた七月の半ばだった。


 それは吉彦の心を恐怖と不安に陥し人れた。 この頃の吉彦は家族 (父、 母、姉) 以外の者が家庭の中に人る事につ て異常に敏感になっていた。 それらの者は 必ず侵入者であり、家族と吉彦の生后を犯し、妨ける者であった。 親類、来客、 父母の経営する店の使用人、 すべてそうであった。それらの人か家へ入ってくると、それがどのような理由であれ、 吉彦の心は圧迫され、 目分の生活が毀されるという 不安に捉えられた。 勉強していれば勉強か手につかなくなった。 勉強を始める気であれはその気持を挫かれた。 休息と安らぎの時であれば苦悩の 時に変わった。そして、そ れらの苦 痛が吉彦の人々に対する警戒と敵意を益々強めた。持に大学受教の為に浪人している吉膨にとって、 勉強を妨けられるという事は、 窒息する様な重圧で胸を締め上げた。それか吉彦の不安と恐布の核を成していた。 人々が、この核に触れる時、 吉彦は盲目的にその人々を除去したい衝動に捉えられた。 そして家を訪れる人々は必すこの核に触れた。 吉彦自身が触れさせたといえる。 吉彦は目分の青春の不毛を噛みしめていた。


 そういう時に祖父と祖母は移ってきた。それは第一に外部からの侵入者として吉彦を圧迫した。そして、 その圧迫は祖父母の移入を理不尽とする意識を導いた。祖父母は母方の祖父母であり、 その子供は長男から三男 まで健在で、それぞれ家庭を持っていた。 どうして娘婿である父の世詁にならねばならないのかと吉彦は思った。


 然も袒父母が移って来れば母万の親類の者の来訪も多くなると考えられた (父方の親類は遠くに散在している事もあって、以前から訪ねてくる事は希だった。)母方の親類は吉彦には熕わしかった。 何か吉彦の家にいざこざを持ち込むものと感じられていた。 更に彼等が連れてくる祖父母の孫達がテレどの音を大きくしたり、騒いだりする事はひどく吉彦を圧迫し、 勉強を放棄させ、 吉彦彦に孫達を憎悪させた。 子供は利己的なものだと吉彦には捉えられた。 孫達の何か目分を恐れる様な所も嫌であった。 そして これらすべてをその様に捉え、 その様に考える目分か不快であり、不幸と感じた。


 それだけではなかった。 祖父と祖母は不仲であった。 祖父は以前 、酒を飲んでは祖母を追い回した。吉彦の一家が今の家に移ってくる前、祖父と祖母の家の近くに住んでいた頃、―そこは母方の血縁の者の家が集まり、 いわば一団をなしていたのであるが、吉彦は、夜、何度か祖父の叫ぶ声と騒動を見聞した。 祖母を探し求める祖父が、 二男の家に上がり込んで、 寝てい二男の嫁を、 祖母と間違えて杖で打った事もあった。 祖父が荒れだすと、 祖母は親類の家を逃げ回った。それを祖父は、「淫売女郎めろ」「乞食女郎」と叫びながら探し回るのだった。 


 或る晩、吉彦が二階の目分の部屋で寝ていると、 階下で物音がし、やがて階段を上ってくる音か聞えた。続いて、荒い呼吸音が聞えた。 吉彦が部屋を出て階段の所に行って見ると、酔った祖父が、 手に杖をもったまま、 母の制止をふりきって階段を上ってくるのだった。 酒臭い息を吐きながら、祖父は憑かれた様に光る眼で、 祖母か隠れているだろうという様な事を言った。 吉彦は強い怒りを感じて、 祖父に激しい 言葉をぶっつけた。 自分の洋服笛笥まで開けて見せた。祖父は吉彦を、グッと見直す様に見詰めて静かになった。 誰かと一緒に祖父を階下へ降す時に、 祖父は吉彦にも手加減せずに抗った。 祖父の腕力は、酔った足の悪い老人の様でなく、 異様に強かった。 吉彦はその力に、祖父の自分に対する敵意のようなものを感じてムキになった。それは初めて味わう気持ちであった。


 そういう記憶があった。


 身内の者は祖父の酔乱でゴタゴタさせられた。祖母は老人らしい落着きを失っていた。飲み始めると止める事のできない祖父は、何度か断酒のために病院に入れられた。


 祖父と二人だけで暮らす事に危険を感じた祖母は、新しい家に移った吉彦の家を追う様に、祖父と共に移ってきたのだった。息子達夫婦の近くに住んでいるために経験せねばならぬ、祖父母も巻き込む種々の葛藤からのがれたい気持もあった。


 不仲の老人夫婦と複雑な親類関係が家に入ってくるという感じは、猶更に吉彦を圧迫したのだった。

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