その2
緊張した重苦しい日々が始まった。吉彦は、今ではその力を増した“狂気の夏”に捉えられぬために、夏期休暇中も、毎日予備校に通った。
祖父母の仲は悪く、一日中家に居る祖父は内にこもる陰気さを持っていた。吉彦の一家に対する遠慮がその陰気さに卑屈さを加えた。酔乱の挙句に吉彦の家に連れてこられた感じの祖父は、自らを恥じている様な所があった。
祖父は無為であった。酔って転んで痛めた足を少し引きずる外は達者であったが、既に人生から降りた様に無為であった。足を麻痺させないための散歩や、軽い運動などを勧めてみても、自らする事はなかった。一日黙って家にいた。吉彦の家族には努めて柔和であったが、祖母と二人になると、憎しみを込めた太い声で祖母を罵った。それは吉彦の家族の気持を暗くさせた。
祖母はよく体を動かす人であった。少しもじっとしていなかった。忙しい母の代りに家事を見、無尽とか、買物などによく出かけた。吉彦の家族に対する気がねもある様に思えたが、それはむしろ地であった。しかし祖母の行動性には、元気が良いと素直に微笑めないものがあった。祖母には、家に居ても、老人らしく落着ける場所がないのであった。祖父と祖母の部屋はあったが、祖母は朝起きると殆どそこには居なかった。祖父が一人、黙然とそこにいた。祖父と祖母は、二人で話をすれば、必ず口論となった。寝る時と食事の時との外は、二人は殆ど離れていた。祖母の活発さは、そういう不幸の影を感じさせるのだった。
祖父母の不和は吉彦の家族に浸透していった。皆がそれを意識し、しかもそれから離れようとしていた。祖父と祖母が顔を会わせる家の食事の時は気まずさが漂う様になった。
夫婦共稼ぎで商売をしてきた吉彦の家には、俸給生活者の家庭の様な落着きはなかったが、自由な陽気さがあった。吉彦は家族と共に居るのが楽しかった。家族の間には、お互いの事や、何か面白い事を話したく、また話せば返ってくるものがあった。祖父と祖母の不和は、その様な雰囲気を水と油の様に弾いた。一つの家の中に家族の雰囲気が通じない部分が生まれたのだった。……
吉彦は圧迫を受けながら過ごした。祖父母が自分の将来を閉塞させる壁の様に思えた。祖父母を憎みたくはないのに、憎まねばならぬ自分が悲しかった。他にもやたら吉彦と摩擦を起こす外界との矛盾を思うと、自分がとても呪われた人間の様に思われた。危機だと思った。祖父母は何で、俺が一番悪い状態のこの時期にやって来なければならないだと思った。せめて、大学入試が終った後に来ればいいのにと思った。自分の受ける苦痛と、そこから出てくる行為によって祖父母の受ける打撃を思うと、吉彦はこの事を何かに訴える様に思った。
吉彦は祖父母の不和の原因を知らなかった。時折、知りたく思ったが、生活の緊張がそういう興味を永続させなかった。だから対立する祖父母のどちらが本当は正しいのか解らなかった。ただ、祖父は吉彦達家族の前では殆どしゃべらなかったが、
祖母は折に触れて祖父の事を話した、目分の苦労と祖父の行状の 話であった。 恨みの言葉か混じった。特に実の娘である吉彦の母とは、 食事の後など台所で詁して涙を流した。 吉彦は祖父が祖母を苦しめていると思った。祖父が悪いと思った。
無為を他に対しては恥じる様でありながら、目分では当然とそこに安住している様な感じの祖父よりも、常に何かをしていようとする、 そして解放的な祖母の方が、吉彦は人間的に好きだった。 祖父はよく、「年を取って、もう駄目だからのう」と言った。 それか嫌だった。 そういいながら、食欲は旺盛で肉付きもよく、 衵母との確執には執念をこめた、太い声をあけるのだった。身の周りのことは祖母が居なければ何にもできないのにそうだった。
祖父は、最初の男の孫である吉彦を孫達の中で一番可愛がった。 吉彦の 一歳の誕生祝いに、乗れもしない幼児用の自転車を、祖父は送って寄こした。 母や近所の人々は吉彦に、 「鼻のかぶが大きいのかじいちゃん似だ」とか「耳の大きいのはじいちゃん似」とか言った。吉彦は幼い頃から、祖父が目分を可愛がっているという事を言い聞かされてきたし、感じてもいた。 祖父の手を引いたり、側にいって何か話したりした。母親はその様に吉彦にさせたし、 吉彦も自分でその様にして祖父に応えようとした。しかし心からの親しみはなかった。祖父には甘えられない所があった。一方、その頃の祖母の印象は、体の大きなおばあさんという位しかなかった。
そんな所から、吉彦は、自分の嫌だという気持が、祖父に向いているのに当惑しだ。 祖父の前では可愛いい孫でありたかった。 それがまた吉彦の心を圧迫した。
吉彦は祖父母の事は考えない様にした。 “勉強馬鹿に徹せよ“と彼は日記にそう書いた。そんな事を者えていたら俺は破産すると思った。吉彦の心は、予 備校から家に帰って来ても、受験勉強と、祖父母に敏感に応じようとする気持を抑えたり、そらしたりする為に緊張していた。
祖父母が、母の弟で長男の叔父の家へ移るという話を聞いたのは、十一月にはいってからであつた。吉彦の心は激しく動いていたが、 その様な目分が人間としても、勉強についてもそんな事には無関心でなければいけないんだと考え、そう振舞った。
しかし、祖母や母などが移転について話を始めると、祖父母の移転の日付を熱心に聞き出そうとしている自分を見出すのだった。それは抑圧 された者が解放の日を知りたく思う様なものであった。 それは何時までこの状態に耐えたらいいか、 そして、 それが終ったらどうしたらいいかを考えるための必要な目途であつた。
叔父は家を新築していた。 地方公務員である叔父は組合運動をしてにらまれ、二十年務めていたが、係長にもなれなかった。叔父にとって家を新築する事は一大事業であったが、 実直な叔父は、それを機に両親をやはり引き取るべきと考えたのだった。 衵父母の為に、無理 をして一間をつくっているという話を吉彦は聞いた。
移転は十一月下旬という事になった。祖母は食事の時ふと、「あと×日で良の所へ行かんならん」という様な事を言った。 引越しは気が進まぬ様であった。 「じいさんが酒を飲まんで、うちを退い回さんかったら、O町の家に居ら れたのに……年を取って、あっちこつら行かんならん」と目をしばたたいた。 叔父は良一という名であった。 O町は祖父母が移ってくる前に住んでいた所であった。祖父はそう言う祖母を金壷眼でにらみつけて下を向いた。
吉彦は祖父母が憐れであった。だ が、 やはり移って欲し い、 と胸の中で言っていた。祖母がそんな時、 吉彦の顔 を見ながら唐突に 「ばあちゃん達、あと、×日で、 いなくなるよ」と微笑んで、同時に探る様な目付きで言った事があった。 その眼は「 淋しくない? 」と問いかけている様であった。吉彦は自分がどんな表情をして、何を言ったらいいのかわからなかった。
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