その3

 吉彦の密やかな期待にもかかわらす、十一月下旬になっても、祖父母は一向に移転する気配がなかった。日々は同じ様に流れていった" 家人は誰もその事に触れなかった。吉彦も苦しい沈黙を続けた。 しかし迫ってくる入試の 事を考えると 叫びたくな った。 いい加減で俺をこんな宙ぶらりんな気遣いから解放して勉 強に打ち込ませてくれ! と怒鳴りたかった。


 そして皮肉な諦念が訪れるのだっった。自分は不幸な人間だ、物事は俺の望まない方向にしか動かないのだ。祖父母は移りそうにない、俺は四月にこの家に引越してきて、 それなりに新しい気持で浪人生活を始めた。ところか三カ月しかたたないのに、祖父母という不幸か執ように俺を追ってきた、思えばそんなに簡申に不幸が俺から 離れるわけがないのだ、……。


 吉彦は何者かに感じる強い怒りを押えなから、歪んだ冷笑を浮かべた。吉彦はそれ以後祖父母の移転に対する期待を押し殺そうとした。


 祖父母は十二月に人って移転する事になった。 吉彦は″ああそうですか 〃という感じを持ったし、そう感じる様に努めた。 もう感情を動かしたくなかった。 しかし、 荷物を運ぶ日付か決まり、叔父が相談に訪ねて来る様になると、それに強く捉われ、 浮き立つ自分を感じた。 叔父が弟から借りてきだ車で袒父母の家具を運ぶのを、 吉彦も手伝う様 に言われた時、 即座に承知した目分が何ともバツが悪く、見苦しく嫌 であった。


 助手席に座った吉彦は、自分の解放感を表わすまいと努めていた。 叔父は隣りで運転していた。 四十代の叔父は既に頭髪が,溥く なっており、ロ数が少なかった。 吉彦の大学受験の事 などを、何か遠慮深そうにポッポッと尋ねた。 祖父母の事で迷 惑をかけて済まないと感じている様に吉彦には思えた。 自分の心の底を見透かされている様で嫌であった。吉彦はその気持ちに反発する様に快活に答えた。 そして、 叔父の二人の娘達の事を聞いた。 それは祖父母の孫達の中で、吉彦姉弟に次いで年長の孫であった。吉彦は姉の方が来年もう中学に進むという事を知った。叔父一家が十年程前、祖父母と一緒に庄んでいた0町の家を出て以後、吉彦が叔父の家族と会うのは年に一回ほどであった。叔父一家が祖父母の家を出た時、叔父の嫁と祖父母との折合いが悪かったということを、吉彦はかすかに耳にした記憶があった。


 吉彦は祖父母を引き受けなければならない叔父の事を思った。母から叔父を例として、つましいサラリーマンの生活については聞かされていた。商売をしている吉彦の家とは異質な様であった。祖父母を引き受けるのは大変だろうと思われた。少し冷たい感じを受けていた叔父の妻―正子叔母はどうするだろうと思った。吉彦は、耐えきれぬ重荷を背負った人が、他人にそれを肩代りさせる時の様な、後ろめたさと、それを押し返すような、必ずそうしてもらわねばならぬという衝迫感を叔父に感じていた。家の長男だから当然なんだという考えがやはり吉彦の思考に決着をつけるのだった。解放感は自然と唇をほころばせ、軽口にさせた。吉彦はそれを抑えかねた。


 叔父の新築した家は、新たに造成された住宅用地の草原の中にポツンとあった。他にはまだ家が建っていなかった。玄関に迎え出た正子叔母は、何かを決心してしまった後の様な、吉彦には意外な、サッパリした、ある陽気を持っていた。しかし車に積まれた祖父母の家具を見ると、眉を少しひそめた。


 吉彦は、解放感とそれを抑えようとする気持、叔父一家と自分に感じる後ろめたさ、そしてあの衝迫感の中で落ち着かなかった。叔母の眼に、自分の心を見透かす様な光が表われるのを、吉彦は恐れた。


 娘達二人は随分成長していて、活発であったが、既に少女らしいはにかみを見せていた。着いたとき、妹は居間でピアノを弾いてい、姉の方は自分の部屋で勉強をしていたが、吉彦と叔父が居間に入ってしばらくすると、陽気な好奇心とはにかみの表情をして出てきた。妹は少しおっとりしていたが、姉はきんきんした声でものを言う子だった。吉彦は姪達に陽気に対応しようとしたが、この子達もこれから苦痛の多い学校生活を送り、苛酷な受験と競争の苦しみを舐めねばならぬという考えが浮かび、姪達の子供らしい活発さを陽気に受け取る事ができなくなった。この子達は祖父母とうまくいくだろうかと思った。


 新築した家は平家で、無駄なく設計されていた。台所、居間、子供達の部屋、夫婦の部屋、トイレ、風呂、これらが長方形の家の枠の中にきっちりと嵌めこまれていた。あるべきものはすべて揃っている様であったが、規格化されたものを狭い空間に詰め込んだという感じで、家の中に伸びやかさと広がりがなかった。奥に祖父母の為の六畳間があった。既に祖父母の黒塗りの大きな箪笥が運び込まれていた。家具を運び込みながら、吉彦はふと、祖母はこの家に居られなくなるのじゃないかと思った。祖母と割り当てられた一つの部屋で暮らすのは祖父には窮屈だろうという感じがあった。それは嫌だと思った。ここに居て欲しいと吉彦は思った。

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