【後編】

私が私だと気が付けば、そこは暗いだけの闇の中だった。

闇の中にある、ぼやけた自分の輪郭がただ心地よく、全てが消えてしまわないよう、私は輪郭の内側に意識を向ける。

そうか。

私は彼女と共に最期を迎えたのだ…。

ほんの少し前の出来事と、随分と昔の事を思い出した。


私が初めて彼女と出会ったのは、一体いつだったのだろうか?

もう何千年も、何万年も前だったようで、遥かに遠すぎて覚えていない。

気が付けば共に居て、愛を伝えて、互いを欲し、交わった。


人の理の外であった頃の私と彼女は、穢れの主と清浄の主だった。

穢れと清浄。人の秤では交わらぬもの同士だと思うかもしれないが、私達に愛が生まれるのは、至極当たり前の事で、それが摂理というものだ。

私達はただ交わって、そこに愛が生まれて、愛があってまた交わる。

ただそれだけで満ち足りて、また進めるのだ。


そんな二人の激情の安寧の最中、何故だか人は彼女を称え、その意識を人の世に移した。

神が人の世で神たる故は、人が神を望んだからだ。


「人間はいつの時代も勝手な生き物だ」


そう吐き捨て、私は彼女との別れを受け入た。

私は、ただ此処に在るだけのものになった。



やがて巡り巡ったその日、何故だか彼女は人の子になり、私の元に帰ってきた。

私は嘆き悲しんだ。

人に堕ちてしまった彼女の存在に。

もう交われぬ営みに。

愛の生まれぬ喪失感に絶望を覚えた。


けれど彼女は彼女のままだった。彼女は私を愛してくれた。

だから私は幾度も幾度も、数えきれない程、彼女の最期を見届けたのだ。

最期の最期まで、再び私の元へ帰って来るようにと、願いを込めて祈ったのだ。


人間の器は、朽ちて変われば生も変わるものらしい。

肉が朽ちる度、彼女は私の事を呼び起こすのに、長い時間を要していた。

彼女は生ては朽ちる、生ては朽ちるを幾度も繰り返すうちに、とうとう完全に人間側に堕ちてしまった。

こうして、ついに彼女は人間の世に、人間として生まれてしまった。

そして勝手な人間として私を封じる為に私の元へやって来たのだ。


きっと完全に人間に堕ちてしまった彼女は、私のことなぞ覚えていない。もう思い出す事も出来ないだろう…。だから私は全てを諦めた。


「貴女がそれを望むのなら」


そう呟いて、静かに人間どもの、滅を望むその思いの丈を受け入れた。

こうして首が落ち、体を縫われたその時、独りで在る事の全てに諦めの念を抱いたその時。

何故だか彼女は私と共に封じられようとした。

だから彼女に抱かれた頭だけになった私の、その両の眼は、巫女となった彼女の顔を追いかけた。

すると彼女の眼は私を捉え、懐かしい笑みを湛え、涙を流したのだ。


「形は違えど、共に過ごせる日々をずっと重ねて行きましょう」


私はその言葉に望みを見出してしまった。彼女は最後の最期に戻って来たのだと。

そして彼女はいつまでも、彼女であると、望みを見出した。

そんな砂粒程の希みを胸に、彼女と共に瞼を閉じたのだ。


こうして穢れの主たる私と、清浄の主たる彼女は、最後の最期に相まみえる事ができたのだ。




*****




暗い、ただの暗い闇の中。

遠くのような直ぐ近くのような、そんな何処かの闇の中から、何者かに問いかける声が響きます。


「もし貴方様が人の世に堕ちる覚悟があるのなら、巡らぬ時を歩くのです」


ただ暗いだけの闇に溶けこんだ穢れの主は、聞き覚えのある声に、かつて自分の側付きだった者の事を思い出しました。


「巡らぬ時を歩くか…」


穢れの主は導かれるように暗闇の中を歩きました。彼は足を絡めとる砂の一粒一粒の砂の重さに怯むことなく、一歩、また一歩と前に進みました。


それから千年は超えたと思われた時、穢れの主の元に再び問いかける声が届きました。


「未だ貴方様が、人の世に堕ちる覚悟が残っておりましたら、このまま沈まずに、巡らぬ時を歩いて下さい」


穢れの主に再び届いた声も、かつて自分の側付きだった者と同じように語りかけます。

穢れの主は聞こえる声の近さに、まるで側付きだった者が本当に傍にいるように思いました。そして再び、その声に導かれるように、ただひたすら真っすぐに砂の中を歩き続けました。


それからまた千年は超えたと思われた時、穢れの主の視界が開けました。


「お帰りなさいませ、主様」


聞きなれた側付きだった者の声が穢れの主に届くと、今まで歩いてきたはずの、足元に広がる砂の粒は消え失せ、広い石畳みの間に変わりました。

そして穢れの主が、その広い石畳の間に、側付きだった者の姿を認めると、穢れの主は未だ、自分が穢れの主で在れた事に安堵しました。


穢れの主を迎えた側付きだった者は、そのまま穢れの主の傍に付きました。

側付きだった者は多くの布を手に持ち、穢れの主に言いました。


「まだ貴方様の首は戻っておりません。こちらをお被りください」


穢れの主は差し出された長い布を、かつて頭があった場所にぐるぐると巻きつけました。けれどまだ頭は半分も戻っておらず、上手く布を巻く事が出来ません。


「貴方様は相変わらず不器用でございますね」


側付きだった者は、穢れの主に巻かれた布を整えながら尋ねました。


「貴方様は、あの方をお迎えにあがりますか?」


三度聞かれた問いであっても、穢れの主は肯定の言葉を発しました。

すると側付きだった者は満足そうな笑みを浮かべると、封印の国に向かうと言いました。そしてこの時代は砂を渡る船があるのだと言って、穢れの主を船に乗せました。


封印の地に向かう砂上の船。

その船旅の中、側付きだった者は穢れの主に色々な事を語りました。


封印の日より二千年経った今では、人間が砂を渡る船が作れるようになった事。

人間の成り立ちが大きく変わった事で、人間が増え、広がった不毛の土地が砂漠になった事。

そして不浄の主様が人間の記憶から消え、人間の世で現す力が尽きてしまった事…。それによって人間の世は不浄が進んでしまい、業の苦しみが始まったと言いました。


そんな側付きだった者の話を聞く穢れの主様は、切れ間も無く話し続けるその様と、尊大な佇まいの図々しさに、懐かしさより先に呆れが漏れるほどでした。




*****




側付きだった者は、穢れの主である私に淀みなく言い切った。


「あの方を取り戻すには、主様とあの方が封じられた印を解かねばなりません」


相変わらず図々しくて厚かましい。

ならば、どのように解くのだと尋ねると、再び淀みなく言い切った。


「人間の業など分かりません」

「…お前はいつまでも変わらん」


私は呆れからため息を零した。けれど私はそれで良いと思えた。

人間の業。そしておよそ見込みのない我の望み。どうせ、首の堕ちたこの体。

一度でも彼女と相まみえるのなら、ただそれだけで構わない。

だからそれも合わせて、構わぬと答えた。


そんな素っ気ない私の返事に、側付きだったものは、暫く思案の姿を見せた。

ならば憂いはございません、彼女が封じられた地に行きましょうと言った。

まるで決定権は自分にあると、そう言いたげな図々しさに、この者はいつまでも変わらないとも思う。

そんな図々しさに任せていれば、封印の地があるその国へ向かう交渉は、全て側付きだった者が行ったようだ。


「主様が人間と言葉を交わすなど、許させる事ではありません」


全てを任せなさいと言った彼は、人間との会話に、思いのほか楽しんでいる様子も見せた。だから私は再び、呆れからため息を零した。


私の側付きだった者は、いつも私の傍にいた。それはまるで人間から私を隠すかのように思えた。私の姿をなぞ見たい人間はおらぬだろうに。それでも彼は私の首に巻いた布と、被せた布が乱れぬよう、何度も何度も整えた。


こうして私達は封じられた地に赴いた。

迎えた新月、私達が封印の広場へ向かうと、広場の台座に祀られる解けぬ氷が見えた。


(…変わらない)


自身の首を抱く彼女の姿に、変わらない愛しさがこみ上げる。

そして氷の中に閉じられた自身の頭と、頭を抱える彼女の視線が交わすのを認めると、私はあるはずの無い頭で彼女に視線を向けた。


気が付けば、私は氷中の頭に在った。

やがて頭と氷の境界を意識すると、周りの氷がゆるゆると溶けだし、私の胴と頭が繋がった気がした。

私は身体が戻った感覚で彼女を抱きしめると、抱かれたはずの首だった私が彼女の身体を抱いていた。


(軽い…いや、重いのか…)


私は羽根のような軽さの彼女に肉としての重さを認めると、やがて自分の足にも重さを感じる事が出来た。そして慣れない重さの乗った足で封印の台座を踏みしめる。


(足がある…)


今まで感じなかった重さに戸惑いを覚えると、抱えた彼女から息の吐く音と、吸う音が聞こえて来た。

その息に導かれるように彼女の顔を眺めていると、彼女はまだ眠っているようで、眼は閉じられたままだった。


「ひとまず、この場へ降りましょう」


側付きだった者が広場から呼びかけ、封印の台座から降りろと言う。

その言葉に従い広場へ降りると、かつて私の頭だったものが台座に残っているのが見えた。


(首が…)


かつて自分の頭だったもの。それもやがて砂の塵に変わると、風に乗って夜の空へと舞っていった。


「呆気ない」


そう呟き、側付きだった者を見ると、彼は空に舞い散る砂の粒を、黙ってただ見上げていた。

月の無い、新月の夜だ。星明りがチラチラと照らす、呆けるように空を見上げる側付きだった者が朧げに見える。


(何を思うか…思わないのか…)


私はいつまでも空を見上げる側付きだった者の姿を、彼の気が済むまで黙って待つ事にした。やがて、側付きだった者が大きく息を吐いた。


「これで終わりか?」


そう尋ねると、側付きだった者は小さく「はい」と答えながらも、まだ暗い闇の夜をずっと見上げていた。




*****




私は彼女を抱き、砂地の淵に止めている船に戻った。

船内に用意した客室のベッドに彼女を寝かせると、その額に唇を合わした。


「今はゆっくりと休みなさい…」


撫でた彼女の頬は柔らかく、眠る顔は穏やかだった。



翌朝の夜もまだ明けきらぬ頃。

側付きだった者が問うてきた。


「砂を超えて西に戻れば、貴方様は、もう完全に人間に堕ちます。覚悟はよろしいですね?」


まるで合図かのような言葉に、私はかつて誓った言葉を再び口にした。


「形は違えど、共に過ごせる日々をずっと重ねて行く」


その言葉に側付きだった者は大きく頷き、満足そうな笑みを携えた。


私達は彼女の眠る部屋を訪れた。

聞こえるのは穏やかな寝息。昨日より血の気のある頬の様子に私は安堵した。

やがて日の上る時間になり、私は彼女の唇に口を寄せた。


「帰っておいで」


まだ人の言葉に成り切れていない言葉で祈りを囁けば、彼女はピクリと眉をゆらし、やがて目を覚ました。側付きだった者がそっと私の肩を叩くので、私は彼の後ろへ下がり、額の布を深く被りなおし、彼女から顔を隠した。


まだ人に成らぬ…か。


暗闇の砂を超えて西の最果てに降りた時、私はまだ半霊だった。

そして頭部が戻った私が、完全に人間に馴染む為には、ここから再び砂の海を超えて、降りた地で月をまたぐ必要がある。

そう。次の新月まで、この異様な姿で過ごさねばならぬ。

だから私は顔を隠したのだ。


最果ての地へと帰る旅。嵐のような風を受け手、砂上の船は迷うことなく真っすぐに進む。

その度の途中、私は献身を持って彼女の世話を続けた。

それは当然の事であり必然でもあった。

彼女は口も聞けぬ、ただ布に包まれた顔を持つ男に、怯えているようだった。

けれど、布の隙間から除く私のギョロリとした眼と彼女の目が合った時、彼女はハッと息を飲んで、口をキュッと閉めた。

それはまるで私に対して耐えるような姿であった。


こうして幾日か過ぎた頃、彼女は側付きだった者にある質問をした。


「皇子様は、私の知っている方に似ておられます」


その言葉に私は肩を揺らした。


「やはり、そうでしたか」

「セリ…いえ、貴女には、かないませんね」


そんな会話の後、彼女は私が世話をする度に、柔らかな笑みを返すようになった。




*****




こうして数多の砂を超えて、私は西の国へ戻る事が出来た。

船から降り西の地へ踏み入れた彼女は、穏やかな笑みを浮かべ私に声をかけた。


「この地で…、この地なら、共に生きる事が出来るのですね」


そんな彼女の言葉に、私は静かに頷いた。


そして迎えた新月の夜。砂漠のオアシスと呼ばれる泉の前で、側付きだった者…いや、この国の皇子は見えぬ月に向かい祝詞をあげた。

それはまるで、異国のおとぎ話のように紡がれた、これからの私達の物語。

そして0時を超えて私は人間に成った。


彼女…いや、セリアは黙って私の変が人間に成るのを見守っていた。

こうして完全に人間へと堕ちた私。


無事に人間に堕ちた私は、相変わらず尊大な佇む、この国の皇子の前でひざを折り、頭を垂れた。

皇子の傍らのセリアは私の頭を覆う布を上げ、皇子は頭部に巻かれた布を外した。

やがて布が解かれ、新たな顔を表に出すと、皇子は顔を覆う布を外し、側付きだった者に似た顔で最後にこう尋ねた。


「貴方様…いえ、一人の人間の男よ、私と共に行きますか?」


にやりと尊大な笑みを持ちながら、側付きだった者の頃と変わらぬ物言いに、私は呆れ、ため息を零しながら、既に決まっていた意を告げた。


「私は一人の人間として、人間のセリアと共に生きるのだ」


皇子はその答えに黙って頷いた。

そしてセリアの方を向いて彼女に問うた。


「セリア。貴女もそれでよろしいか?」


かつて清浄の主で、人間の巫女だった、ただのセリア。

彼女は西の国の皇子の問いに、淀みなく答えた。


「私はこの方と共に生きます」




*****



セリアの答えに、皇子様は大変満足そうな笑みを携え、大きく頷きました。

そして、かつて自分の主だった、一人の人間の男に頭を下げ別れを告げます。


「さようなら。人間はいつの時代も勝手な生き物ですね」


皇子様が手を天へ向けると、その人型の姿は溶け、ドロドロとした沼のような憐れな姿へ自身を変えました。そして沼の中から二つの目玉がドプリと現れると、男の眼を射ぬきます。


「その姿…貴方様が次の主様となられたのでしょうか」


男を睨みつける二つの眼にセリアが尋ねます。

しかしその問いの答えは、セリアの隣に居る男が答えました。


「混沌だ、混沌の主だ」


その言葉にかつて自分の側付きだった、混沌の主の目玉はドプリと沼に沈み、また主である沼も泉に沈みました。


『行きなさい』


地の底から響く、尊大な混沌の主の言葉に二人は従います。

そして人間の男は混沌の主に誓いました。


「私達は、この地で、人の世で、人間として生きていく。

セリアと二人で生きていく」


こうして、この地に誓いをたてた二人。

二人が見上げた空は、小さな星灯りがチラチラと瞬くだけで、他に地を照らすものは有りませんでした。

それでも彼らは、この暗闇の中で、たった二人で居れる事に幸せを見出したのです。

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【短編】巡るらぬ時を真っすぐに、私は君と生きていく さんがつ @sangathucubicle

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