第33話

 男嫌いではあるが、茉莉も乙女である。


 接吻、所謂キスに対して、年相応の憧れや好奇心を抱くこともある。どんな感触で、どんな味で、どんな気持ちになるのか。少女漫画やドラマを見る限り、想像も出来ないほどのときめきが身体を襲い、自分が自分ではなくなって、なんとも不思議な状態になるように思えた。


 昔、仲良しの三人にも聞いたことがある。当時それを経験したことがあったのは瑠奈だけだったので、彼女の持論でしかないが、彼女曰く「飛ぶぞ」とのことだった。

 何が飛ぶのだろう。瑠奈の言葉を思い出した茉莉は、牧歌的なことを考えた。つい最近、空を飛んだことがあったが、きっとそういうことではないのだろう。


 物心がついてから初めて、同年代の異性と同じ時間を過ごした。状況が状況だっただけに、一般的な男女の時間とは随分違ってはいたが、それでも茉莉にとっては異性を意識せずにはいられない時間だった。


 キス、なんてそんな大それたことは考えてはいない。なんとなく、一緒にお喋りしたり登下校したり、もしそんなことがこの先あるとしたら、自分はどうな気分になるのだろう。茉莉の脳内に巡っていたのは、それぐらいのものだった。キスは、それよりもずっと先にある。そう簡単に、手を伸ばしていいものではないのだ。


 少しばかり幼い恋愛観。だからこそ茉莉は、田中と奏多が口づけをしたと聞いて、当惑してしまっていた。


 人命救助によるものだと言い聞かされても、それでも思考がぐるぐると回り続け、ショートしそうになっている。


 奏多先輩は、男が好きなの?


 巡った思考の着地点は、危うい場所になりそうだった。


「とりあえず、ここに留まってたら色々面倒なことになりそうだ。本田、坊ちゃんを担いで、田中とガキ連れてヘリに行ってろ。私は紀代子様に連絡入れてから追いかける」


 優里奈はポケットからスマホを取り出して、操作を始める。その動作を見た茉莉は、慌てて詰め寄り手を伸ばした。力の入っていない伸びた手は、優里奈の空いている方の手で簡単に払いのけられた。


「安心しろ。坊ちゃんが一緒にいることは伝えない。あんなにボロボロになってたんだ、何か事情があるんだろ? 私にとって、紀代子様と同じくらい坊ちゃんは大事な存在だからな。話ぐらいは聞きたいんだ」


 そう言いながら微笑んだ優里奈の顔は、茉莉を安堵させるには十分だった。大事な存在。それって、男として? なんて色ボケた想いが一瞬巡ったりもしたが、それよりも、安堵した事によって疲労が色濃くなったようだ。茉莉の身体はゆらゆらと揺れ始め、今にでも眠ってしまいそうなほどに瞼が閉じかかっている。


「だ、大丈夫か!?」


 大男本田が、ふらふらと揺れる茉莉に手を伸ばそうとした。伸びた手はまた、優里奈が制止する。今度は容赦のない、力を込めたはたき方だ。


「止めとけ、本田。こいつ、多分男にトラウマがある。公園で見た時、そんな感じしてからな」


 狼狽える本田を押しのけて、優里奈はそっと茉莉の側に近寄った。草原のような爽やかな香りが茉莉の鼻腔に飛び込んで、その瞬間、睡魔の勢力は何百倍にも膨れ上がった。懸命に抵抗する茉莉の意思は、多数に無勢、意味もなく睡魔に飲み込まれ、身体はその場で傾き始めた。


 優里奈の背中に、そっと茉莉の重心が乗る。優里奈は茉莉を負ぶり、片手で茉莉の臀部を支えながら、空いた手に再びスマホを持った。


「――はい、どうやらヘリの故障のようで。申し訳ございませんが、私たちは一度、屋敷の方へと帰ろうと思います」


 電話に出た紀代子にそう伝えると、紀代子は訝しむこともなく了承した。自分の主のことはよく分かっている、恐らく何かしら勘づいてはいるのだろう。それを表に出さない紀代子の優しさに、優里奈は電話越しに頭を下げた。


「よし、帰るぞ」

 

 電話を切って、優里奈は歩き始めた。背にのしかかる茉莉の重さが、喧嘩に明け暮れていた昔をふと思い出させる。

 

「しかし、総長。屋敷に二人をかくまうのは、中々難しいのでは? 紀代子様もほどなく帰って来られるでしょうし」


「誰が屋敷って言ったよ、本田。二人は私の家に送る。事情聴取してやらねえとな」


 本田は奏多を背負いながら、得心のいったような顔を見せた。優里奈の家ならば、主の監視が届くこともない。紀代子が、部下のプライベートにまで干渉してくるような人物でないことは、本田も知っている。


「お嬢さんが意識を失って少し出遅れましたが、私は一足先にヘリに向かっておくことに致しましょう。すぐに飛べる準備をしておきますので、ごゆるりとお越しくださいませ……」


 流暢に喋っていた田中が、途端口を止めてじーっと、優里奈の方へ視線を向ける。


「な、なんだよ」


「いやはや。そうして二人一緒にいると、まるで姉妹のようですな」


 優里奈の右足が舞い上がる。田中は身軽な身体で、ひょいっとその攻撃をかわし、その勢いのままヘリに向かって走り出した。


 姉妹、だと?

 優里奈の眉間に皺が寄る。


 もし、茉莉が妹になる世界線があるとしたらそれは、弟分である奏多と結婚して義理の妹になる世界線だろう。

 絶対認めたくなどないが、そうなることで奏多が幸せになるのかもしれない、という思考が過った瞬間、それもいいのかもな、なんてことを思った自分が、妙に腹立たしかった。

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