第32話
「坊ちゃん! 坊ちゃん!」
ほどなくして、優里奈は横たわる奏多を見つけた。予想以上の危険な状態に、優里奈も思わず血の気を失った。まだかすかに息をしているようだが、何度声をかけても反応がない。早急にことを運ばねば、万が一もあり得そうだ。
「田中、急げ!」
「急いでますって! 繊細なんですぞ、これ。もう少しお待ちくだされぇ」
田中が胸ポケットから取り出した二つの小瓶。その中にはそれぞれ、青色と赤色の液体が入っていた。田中は、青色の液体が入った小瓶に、赤色の液体を一滴ずつ慎重に入れている。
「それしかないからな、絶対に失敗すんなよ。失敗したら、蹴飛ばすだけじゃすまないからな」
「ううむ、それは楽しみなご褒美ではありますが、今はそんな悠長なことを言ってる場合ではないのですな。慎重に慎重に」
田中が取り出した小瓶は、昔、紀代子が優里奈に授けたものであった。なんでも、紀代子が弟、つまりは奏多の父親と一緒に研究していたものらしい。詳細は優里奈も教えられなかったが、使用方法だけは教えられていた。
青に赤を混ぜていくと、あるタイミングで透明になる。透明になった液体は、人体の代謝を活性化させて治癒能力を高める。それは、折れた骨をも数分で治せる効力を持っていると、紀代子は言った。そして、それ以外に予備はないとも。
受け取った優里奈は、考えた。何故自分なんぞに、こんな貴重をものを渡したのか。
憶測ではある。だがそれ以外に考えられなかった。彼女はきっと、この先自分に何かが起きた時、それを用いて助けるようにと、遠回しに告げたのだ。
何かが起きる。それとも、何かを起こす、つもりだったのか。
紀代子の真意は定かではないが、奏多を助けるためにこの液体を渡した、ということはないだろう。いくら魔法使いといえど、未来予知は出来やしない。
優里奈は額から汗を流しながら、勝手に液体を使用することを、心の中で紀代子に謝罪した。
「おおー! キタコレキタコレ、きましたぞー!」
「早くよこせ!」
優里奈は分捕るように田中から小瓶を受け取った。一秒でものんびりしてはいられない。
「えっと――」
のんびりしているわけではないのだが、優里奈の動きが止まった。液体は、体内に入れる必要がある。つまりは、飲んでもらわないといけないわけなのだが、奏多は未だ荒い呼吸でなんとか酸素を取り込んでいるような状態だ。こんな状態で口から液体を流し込んでも、咳き込んで吐き出すのは明白である。
「口移し、でございますな」
「――はあ!?」
「口を塞いで、無理矢理にでも飲み込ます以外にありますまい。坊ちゃんが吐き出したとて、総長の口の中に帰ってくるのみ。また、移してやればよいこと」
字面では少々気分を害するようでもあるが、確かに理には適っている。液体の量はわずか、吐き出されて効果がなくなればもう助からない。
優里奈は、顔を真っ赤にしながら逡巡していた。
「総長! このタイミングで、そんな乙女みたいな反応はいらぬですぞ。肝心なところで臆する貴方など、私は見たくない!」
「じゃあ、お前がやれ!」
「よしきた」
こうして田中は、寝転がる奏多の唇にそっと唇を重ね、液体を移したのであった。
液体を飲み込んだ奏多の身体は、一分もしない内に修復を開始して、折れた骨はもとに戻り、破れた皮膚も新らしく生成されていった。
真っ青だった奏多の顔は赤みがかった肌色になり、生気が感じられる。呼吸も荒々しさがなくなり、静かな寝息へと変わった。さっきまでかろうじて保たれていた意識が逆になくなったのは、体力を回復するためなのだろう。穏やかな寝顔を見るに、もう痛みもないようだ。
「あー、よかった。マジで焦った」
「ふうむ。同性との口づけというのも、悪くはないですな」
「……坊ちゃんには、黙っとくか」
二人が一息ついていると、遠くから声が聞こえてきた。大男本田、と、まだ疲れた顔を見せている少女、茉莉である。
ほどなくして、四人は合流する。
「助かったんだ、よかった、よかった――」
茉莉は涙を流しながら、その場に崩れ落ちた。膝を少し擦りむいたみたいだったが、そんなことは気にも留めない。優里奈は、奏多をこんな目に合わせたことを責めてやろうとも思っていたが、茉莉の態度を見ていると到底実行することは出来そうになかった。
茉莉と優里奈は、お互いに情報を交換した。茉莉は何のためにここに来て、どうしてこうなったのかを話した。本来なら優里奈は隠す相手ではあったのだが、状況が一変してしまっている。敵対するわけには、いかないだろう。
「魔法使いのおじさん、か。どうやら、その話はもっと深掘って聞く必要がありそうだな。先に、坊ちゃんを助けた方法を教えておいてやるよ」
そう言って、優里奈は誇張なく話した。
液体のこと。それと――田中が唇を重ねたこと。
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