第30話

 無数の黒い球体を退けた奏多の魔法は全く効かず、二人はまた全力で走り続ける羽目になった。二人ともとうに体力の限界は超えているだろうが、生命の危機となると、人間は凄まじい底力を発揮するようである。


「ど、どうすんの、これ。もう、さすがに、無理なんだけど――」


 乱れた呼吸の中、掠れた声で茉莉は言う。足を止めてしまえば命を失う、それは分かっているが、身体が意思についていかない。脳がどれだけ運動信号を発信しようと、筋肉がそれを受け取らなければ意味がないのだ。


 奏多は何度も考えた。だが、いい案が浮かばない。【流れる風ウィンドフロウ】よりも強力な魔法はあるにはあるが、今日の一日で魔法を使い過ぎている。疲弊しきったこの身体で放っても、威力はあまりでないだろう。


 何か、確実に状況を打破する手はないか。


 奏多は茉莉に視線を向けた。


 目を虚ろにしながら懸命に走る彼女。なんとしてでも、こいつだけは助けなくては。


「はあはあ、おい、そういえば……新堂、どこかに、はあ、飛ばされてたのか?」


「はあはあ、今、それ聞くこと!?」


「いいから、答えろ」


「なんなの、もう。そう、別の場所に連れてかれて、あのおじさんと、多分、奏多先輩の叔母さんに会った」


 やっぱり、叔母は来ていた。そこは予想通り。肝心なのは――。


「叔母さんは、元気そうだったか?」


「親戚の心配より、私の心配は!?」


「してるから聞いてんだよ」


「はあはあ、あーもう、意味分からん! 元気、元気! 超元気そうだったよ!」


「――よし」


 ならば。命を落とすほどの副作用ではないと分かれば、実行出来る。奏多にとって初めて使う魔法ではあるが、問題ない。熟練度は紀代子に遠く及ばなくとも、センスは歴代の中でも上位に位置する。なんとなく、で十分。


「新堂! 俺の腕に掴まれ!」


「――へ?」


「早くしろ!」


 茉莉は飛びつくようにして奏多の腕を掴んだ。瞬間、二人の動きは止まる。その隙を逃さず、両生類型の黒い化け物は、床を蹴り上げ二人がいた場所に飛び込んだ。


 床が軋み、壁が揺れた。化け物の重量は見た目通りのようで、下敷きにされてしまえば、身体の形を保つことも不可能だろう。


 だが、それはされてしまえば、の話だ。仮定の話は、今は必要ない。


 山岳地帯の中の、標高が低く平らな地面の上。そこに、二人はいた。地面に寝転がり、呼吸を整えるために深呼吸を繰り返す茉莉。ついさっきも体験した感覚だった。データ管理室から応接室へと転移された時と、同じ感覚。だから、奏多が魔法を使って場所を移動したのだということが、すぐに分かった。


 安堵した茉莉は、すぐさま寝転がって休息を取り始めたのである。


 しかし――。


「はあはあ、助かったー。もう、逃げれるなら早くやってよ。もったいぶっちゃってさぁ。どんだけ怖かったと思ってるの――ねえ、ちょっと聞いて――!?」


 身体を起こし、隣で一緒に寝転がっていた奏多に目を向けた。茉莉は、予想だにしていなかった凄惨な光景を目の当たりにして、思わず言葉を失ってしまった。


 奏多の右足は可動域を超えてねじ曲がり、両腕からはおびただしいほどの血液が流れだしている。よく見ればどうやら、腕の骨が皮膚を突き破っているようだった。


「先輩! ねえ、先輩!! 先輩!!」


 茉莉は、何度も叫んだ。奏多は、苦悶の表情を浮かべながら、荒々しい呼吸を繰り返す。茉莉の言葉に対して、何も応答はない。


 紀代子が空間転移させたのは、茉莉一人のみだった。二人を転移させるとなると、副作用はプラスではなく、倍加してしまうようだ。


「ど、どうしたらいいの……誰か、誰か! 誰か助けて!」


 自分のせいだ。自分が、魔法管理局に忍び込もうなどと言わなければ。自分が、紀代子の魔法にかからなければ。自分が、奏多に助けを求めなければ。彼は、こんな死ぬかもしれない状況に瀕することなどなかった。


 茉莉は心の中で自分を責めつつ、助けを求める言葉を叫び続けた。だが、ここは荒れ果てた山岳地帯である。人が住めるような場所でもなく、交易路に利用出来るような道もない。


 人がいなくて当たり前、の場所だった。


 茉莉の目からは、気付けば涙が流れ始めていた。目の前で、人が死ぬかもしれないという初めての経験に混乱してしまっている。しかもその対象が奏多となれば、目の前が真っ白になってしまってもおかしくはなかった。


 真っ白になって、そのまま気絶してしまえば、現状を考えなくてもすむ。楽になれる。そんな思考が脳裏を過る。


 だからこそ、茉莉は自分の顔をはたいた。どうすればいいか分からない、逃げたい、けれどそうすれば、奏多は確実に死に至る。


 今、彼を助けることが出来るのは。自分だけなのだ。


「――よし!」


 茉莉は靴下を脱ぎ始めた。そして脱いだ二枚の靴下をそれぞれ、奏多の両肩付近に巻き付け強く縛る。応急的な血止めだ。


「汚いけど、傷口には当てないようにしてるから許してね」


 呻き続ける奏多の頭に軽くを手を置いて、茉莉は立ち上がった。


「すぐに戻って来るから」


 茉莉の見据える方角には、巨大で真っ白な建物が見えている。

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