第4話

 男は右の人差し指と中指を立てて、くるくると宙に円を描くように二本の指を動かし始めた。目を閉じて何度かくるくると円を描いていると、じんわりと宙に円が浮かび上がってくる。やがてその円は光を放ち始めて、一つの光の球体を生み出した。


「大丈夫。俺は、魔法使いだから」


 男はそう言いながら、出来上がった球体を茉莉の身体に当て、ゆっくりと押し込んだ。光の球体は茉莉の身体に溶け込むように、その姿を消し始める。


「ホーリーライト。光の魔法だ。これで心が落ち着くはず」


 男の言ったことが事実であったことを証明するかのように、茉莉の身体の震えは止まり、ゆっくりと顔を上げて男の顔を見ることが出来るようになった。手を伸ばせば身体に触れることの出来る距離。こんな近い距離に男がいたことなんてきっと、父親とあのおじさん以外にはなかっただろう。


「うわあ、気持ち悪い」


「――ああ!?」


 茉莉の第一声に対して、男は大口を開けて叫んだ。男は叫んでしまったことを後悔しながら周囲を確認する。せっかくまいたのに、また見つかってしまっては元の木阿弥だ。


「気持ち悪いから早く離れたいんだけれど、でも、貴方は確かに言ったよね? 自分のこと、魔法使い、だって」


「――っ。ああ、言ったよ。お前だって見ただろ、さっきの光の珠。あれも魔法の一つだ。光魔法は、心を穏やかにさせる作用があるからな。気が動転してたお前に使わせてもらった」


「本物の、魔法……」


 魔法なんてものは、夢やおとぎ話の中でのものだ。現実にそんなものが、あるわけがない。

 誰だって、そう思っている。無論、茉莉とて例外ではない。

 だがしかし、実際に不思議な現象を目の当たりにしてしまうと、否定する方が難しくなってくる。見たことがなければそれを理由に何とでも言えるが、見てしまっていては、それを否定するための根拠が必要になってくる。茉莉はそれを創り出すための材料を持っていなかったし、むしろ、心の奥底では魔法の存在を肯定したがっている自分がいた。


 魔法があれば、魔法使いがいる。揶揄として使われる【魔法使い】ではなく、本物の【魔法使い】がいることになるのだ。


「貴方って、どう見ても三十歳超えてないよね?」


「高校三年生だぞ、んなわけあるかよ。てか、何だよその質問」


「ちなみに、童貞?」


「――!? はあ!? 何言ってやがっ、げほっ、ごほっ」


 男は俯いて、何度か咳き込んだ。茉莉は返答を待ったが、どうやら男は答える気はないらしい。

 茉莉は諦めて、別の問いを投げかけた。


「私さ、男のことを気持ち悪いって感じちゃって、まともに一緒にいることも出来ないはずなんだけど、今こうして貴方と一緒にいるんだよね。これも、さっきの魔法のせいなの?」


「ああ、そうだろうな。ホーリーライトの影響で、不快感が緩和されてるんだろ」


「ふーん。だから男が目の前にいるのに、妙に落ち着いた気分でいられるんだ」


 茉莉は男から少し距離を取って、彼の周囲をぐるぐると回り始めた。その様はまるで、男の生態を探っているかのようで、心が落ち着いてはいるものの、茉莉の意識の中で未だ警戒心は解かれてはいなかったことを如実に表している。


「容姿に優れているから、人気のないところに女の子を連れて行っても、中には喜ぶ子もいるかもしれない。でも当然、逆に私みたいに嫌がる女の子もいる。もしそうなった場合、さっきの魔法を使えば女の子の心を落ち着かせて、無かったことにしたり、はたまたそこから口説き落とすなんてことも出来るかもしれない」


「……そんなことしねぇよ。別に女に興味なんてないしな」


「……それはそれで大問題なのでは?」


「お前には関係ないだろ」


「大アリなんですけど? 私が無理矢理こんなところに連れてこられた理由、まだ知らないし。一応、すぐにでも逃げれるように距離を取らせてもらってるけれど、本気で貴方が私に襲い掛かって来たら、正直逃げ切れる自信はないよ」

 

 男は頭をがしがしと掻きながら、不服そうな表情を見せた。視線の先は茉莉がいる方向とは真逆で、彼の視界には体育館の薄汚れた壁しか映っていない。


「その……さっきは、悪い。咄嗟なことで驚いて、つい」


 不服そうな顔を崩さず、唇を尖らせて茉莉の方へ顔を向ける。自分に否があることを十分に理解しているがゆえに、茉莉の瞳を見ていられる時間は、限りなく短かった。


「お前を襲おうとか、そういうことで連れて来たわけじゃない。他の誰かに聞かれたら面倒だから、ここに連れて来たんだ。お前と二人で話がしたくてな」


「普通だったら告白だとか、そういうシチュエーションに繋がりそうだけれど、多分そうじゃないんだよね?」


「ああ。全然、そうじゃない。面と向かって、気持ち悪い、とか言ってくる女は、こっちから願い下げだしな」


「私も願ってはいないんだけど」


「まあ、そんなことはどうでもいい。話ってのは、魔法のことだ。お前から、魔力の波動が感じられて驚いた。お前、もしかして俺以外の魔法使いに会ったことがあるんじゃないか?」


「……え?」


 魔法使い。

 それは、茉莉のトラウマに深く結ばれた存在である。

 あの日出会った、自称魔法使いのおじさん。あのおじさんは経験がないまま三十歳を超え、性癖をこじらせた。自分に寄って来てくれる女性なんているはずもなくて、かといってこちらから迫って行ってもただ逃げられるだけ。ならいっそ、逃げられない相手を選べばいいじゃないか。

 そう思ったおじさんは、あの時一人で遊んでいた私に近づいて来た。自分の溜まったこれまでの鬱憤や欲を、あのいたいけな少女にぶちまけてやろうと、そう思って、私の身体に触れたのだ。


 茉莉はずっと、そういう風に思っていた。おじさんのことなど姿すらもぼやけてしまっているが、おじさんのそれまでの生涯や、当時の心境はこうだったのだと疑うこともなく決めつけていた。


 だがどうだろう。また一人、自称魔法使いが現れた。


 彼はあのおじさんとは違って、若いしそれに、実際に魔法を使ってみせた。彼はきっと、本当にファンタジーの世界の住人なのだろうと、そう思う。


 となれば。魔法使い、という存在が本当にいるのであれば、もしかしたらあの自称魔法使いのおじさんも、揶揄されるものではなく本物の魔法使いだったのかもしれない。


 それは、一縷の望みであった。当時のことがほとんど記憶から抜け落ちてしまっている以上、はっきりと断言することは出来ない。


 そう。自分とは違った、魔法使いと呼ばれる存在が断言しない限り。


「お前には、魔法がかけられてる。お前を守るための、シールドの役割を果たす魔法だ」


「本当に……あのおじさんが……」


「あのおじさん、ってのが誰のことかは知らねぇが、心当たりはあるようだな。断言してやる、そいつは俺と同じ、魔法使いだ。なんの意図があってかは知らんが、シールドとは別に、魔力を感知出来る奴が近づくと気付けるレベルの薄い魔力の膜まで、ご丁寧にお前の身体に張ってやがる」


 

 


 


 

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