第3話

 四人が外に出ると、食堂までの道のりに人の波が出来ていた。その波は何度もうねり、新たな人を飲み込んで更にその実態を大きくしている。


 明菜たちはなんとか自分たちもその波の中を泳ぎ切って目的地へ辿り着いて見せると意気込み、そして飛び込んだ。まだ地上の波であったのが救いか、かろうじて呼吸は出来る。だがやはり、波の動きに身体が捉われて思うように進むことが出来ない。


 茉莉は必死に明菜の手を掴みながら、先導してくれる友人を頼りに少しずつ歩を進めていた。しかしそれも束の間、一際大きなうねりが起きて、茉莉の命綱は断ち切られた。身体は波に飲み込まれ、自分の意思など関係なく右へ左へ、前へ後ろへ、ぐわんぐわんと頭を揺らしながら茉莉はなされるがままになっている。


 明菜たちの名を呼んでみても返答はない。彼女たちももしかしたら、自分と同じように自由が利かないのかもしれない。とにかく、どうにかしてこの波から抜け出さないと。


 噂のイケメン先輩を見るという目的は、もうどうでもよくなっていた。教室からすごい人の数が集まっていることは視認できていたが、その中までは確認しようがなかった。アイドルを追いかけている人たちなんかは、いつもこんな大波を乗りこなしているのだろうか。茉莉は、世の中の男がこんな現象を起こしていると思うと、頭が揺さぶられる以上に気持ち悪さが込み上げてきた。


 ああ、気持ち悪い。


 数分、身体を揺らしながらそんなことを思っていると、突然身体の揺れが止まったのを感じた。周囲の動きに抵抗すると疲労と気持ち悪さで吐いてしまいそうだったので、茉莉は途中から流れに身を任せていたのだが、どうやら自然と波の外に押し出されたようだ。


 やっと解放された。嘆息しながら顔を上げると、その先に一人の男が立っていた。金色の髪を揺らしながら佇むその男は、眉根に皺を寄せて見るからに不機嫌そうである。茉莉は波の外に押し出されてはいたが、奇跡的というべきなのか、前方へ向かって押し出されていたようだ。


 確かに、イケメンだ。男嫌いの茉莉でもそう思った。とはいっても、茉莉も容姿の優れた男を見れば格好いいとは普通に思う。思うが、その感情よりも気持ち悪さの方が勝ってしまうので、男を嫌いになってしまうのだ。


 そして今回も、いつもと同じようにイケメンだとは思ったが、上塗りをするように気持ち悪さが顔を出した。あの日のおじさんの姿がフラッシュバックして、女を性欲の捌け口としてしか見ていない男への忌避感が、身体全体を覆っていく。


 男全員がそうではないと、理解はしている。でも、理解していても脳にそう刷り込まれてしまっていて、本能が固定観念を創ってしまっているのだ。


 明菜には悪いけど、教室に戻ろう。


 茉莉は人波を大きく迂回して戻ろうと思い、踵を返そうとした。その時、何十人もの女子に囲まれ鬱陶しそうにしている噂のイケメンが、声を上げた。有象無象の黄色い声を押しのけるようにして、真っすぐに声を届けた。


「ちょっと待ってくれ!」


 後になって思えば、不思議な話だった。男が放った言葉が誰に向けたものなのかは、その言の中からは到底分からない。だというのに、茉莉は自分に向けられたものなのだと、はっきりと分かっていた。疑うこともなく、それが当然であるかのように、茉莉は男が声を発したと同時に振り向き、彼と目を合わせた。


 気持ち悪い、と思う。しかしそれと一緒に、どこか懐かしいような感じがした。身体の内側がほんのりと温かくなって、まるで守られているかのような安心感を覚える。


 まさか――恋?


 女子たちの話に毎度の如く出てくるあれが、これなのか。茉莉は期待した。こんな自分も、ついに恋をすることが出来たのか、と。


 期待した結果、結局は落胆する羽目になった。恋なのかどうかはさておき、女子たちを払いのけながら大股で近づいてくる男に対して茉莉は、恐怖を抱いた。息を切らし目を見開きながら近づいてくる容姿の優れた男が、過去の中の小汚いおじさんとダブって見える。


 恐い。


 男を気持ち悪いと思うようになってから、いざという時、男をダウンさせれるように身体を鍛えていた。その辺の貧弱な男なら余裕で倒すことが出来るとドヤって見せていたものだが、本当に、いざ、という場面が来ると、身体が硬直して動かなかった。


「ちょっと来い」


 男は茉莉の手を掴んで、無理矢理茉莉の身体を引っ張った。


 腕に痛みが走る。思わず叫びそうになった。でも、叫んだら更に何かされてしまわないだろうか。茉莉は先程の人波と同様に、流れに身を任せて自分の意思を捨て去った。


 男に連れて行かれる間、周囲の女子たちが何やら騒ぎ立てていたようだが、言葉として耳に届くことはなかった。自分がこれから何をされるのか。そして、あの時自分はおじさんに何をされたのか。頭の中はそればかりになっていた。


「ふぅ、なんとかまけたな。やっと話が出来る。なあ、おい……おい!」


 体育館の裏、男は自分を追ってくる女子たちを何とか振り切ってここに来ていた。力づくで連れて来た女子とようやく話が出来る状態になったと思った矢先、どうにもその女子の様子がおかしかった。俯いた状態で、小刻みに震えているのである。


「おい、どうした!? 大丈夫かよ、おい!?」


 男が大声を上げる度、茉莉の身体はびくついた。


 男は震えを止めようとしたのか、思わず茉莉の肩に手を置いて少しだけ力を込めた。すると、茉莉の口から小さく言葉が漏れ始める。嫌だ、嫌だ、と。湿って滲んだ声が、地面にぽたぽたと流れ落ちていった。


 男はその光景を見て、ようやく原因は自分にあるのだと分かった。思えば見ず知らずの男が無理矢理人気のないところに連れて来たのだ、何も感じない方がおかしい。


 男はすぐさま手を肩からどけて、どうすれば、と思案した。だが何も浮かばない。いや。浮かんではいるのだが、それをしてもいいものかどうか……。


「――ああ、くそ! 俺のせいか、俺のせいだよな。ああ、そうだよな。本当はただ聞きたいことがあっただけなのに、ああもう。いやでも、結局はばれることになってたか。なら、考えてる意味もねぇ」


 




 


 

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