先にいきます

中村ハル

先にいきます

「また、いる」

 肌を焼く陽射しが町にくっきりと濃い影を落とし、その黒さの中に外気の熱で溶け込むように、女が立っていた。ほっそりとしたワンピースの背中。髪の内側を赤く染めた背の高い後ろ姿に、紗江子は見覚えがあった。

「誰?」

 隣を歩いていた千恵が、今さっきまでの雑談の名残の笑いを口元に残したまま尋ねてくる。

「知らない。いつもいるの」

「どれ」

「ほら、通りの向こう。あの、髪の内側が赤い、背が高い人」

 ふーん、と紗江子の視線を辿って、首を傾げた。賑やかに人が行き交う雑然とした通りは、思い思いの色に髪を染めた若者がたくさん溢れている。

「カットモデルでも探してるんじゃない」

「違うよ、私が行くところに、いつもいるの」

「へえ。奇遇だね」

 分かりやすく興味を失って「ランチ何食べる」とスマホを弄りながら、千恵は紗江子の腕を引いた。首だけで女を振り向いていたせいで歩みが鈍っていた紗江子は、よたりとよろめき通行人にぶつかったが、まだ女が気になる様子でもう一度女が佇む陰に視線を投げた。スマホを取り出し、女に向けて掲げる。

「ねえ、写真撮るなら端っこ寄ろっか」

 千恵が唇だけで笑って、通行人を避けて建物の方へと歩いて行った。紗江子はスマホで女を捕らえながら、よたよたと千恵の隣へ寄って女を写真に収める。ぱしゃり、という無遠慮な音に、通り過ぎる人たちがちらりと視線を投げて寄越した。

「見てよ、ほら」

 突き出したスマホのカメラロールを覗き込んで、千恵は顎を摩る。

「ホントだ、いるねえ」

 スクロールした画面の数枚に、同じ女の背中が写っていた。内側から覗く赤い髪とすらりとした肢体は、いつも同じようなワンピースを纏っているからすぐに気付いた。

「地元だけなら行動範囲が被ってるのかとも思うけどさ」

 タップして表示された写真は、どれも全く別の場所だ。出勤途中のハナミズキを撮った道路の向こうに、カフェで友人を写したアフタヌーンティの記念の端っこに、夕陽を納めた景色の滲みの中に、女はひっそりと背中を向けて写り込んでいる。

「ちょっと、厭だね」

「かなり厭だよ」

「ストーカーとか。なんか、言ってたじゃん、真似されるって」

「それはまた別の人」

「なんだっけ、講座の『りんりんさん』。また最近もしつこいの?」

「そうなの、聞いてよ。この間も、私が新しい服を買ったって言ったら」

 紗江子は勢い込んで身を乗り出し、気に入りの服をお揃いにされたエピソードを千恵に披露した。

「そのピアスも可愛いから、真似されちゃったりして」

 紗江子の耳を飾った新しいピアスを指さして、千恵はスマホを取り出す。紗江子は髪をかき上げて写真に収まるようにポーズを撮った。かしゃ、っと控えめな音が紗江子を切り取った。


 仕事で疲れた肩を揉みながら、薄暗くなった住宅街を歩く。夜には人通りは少ないが治安のいい町を、紗江子は気に入っていた。

 重い足取りで角を曲がると、アパートはすぐそこだ。

 欠伸混じりに歩いていた肩に、誰かがぶつかって走り抜けていく。

「ちょっと」

 驚いて振り向いた視線の先に、遠離る男の姿があった。何かあったのかと、男が走り出てきた方を伺うが、いつも通りに静かな夜があるばかりで物騒な気配はない。安心して胸を撫で下ろすと同時に、今度は釈然としない怒りが湧いてくる。

「なんなのよ」

 いまさらぶつかられた肩をはたいて文句を呟きながら、アパートの入り口に目を向けて足が竦んだ。

 アパートの横、自動販売機の陰に。

 女が、いる。

 こちらに背中を向けて、すらりとした女は何をするでもなくじっと夜の中に立っていた。

 もしかしたら、スマホを見ているのかも知れない。

 さもなくば、誰かを待っているだけなのだろう。

 だが、自販機の明るすぎる光に浮かんだ背中にかかる髪は、赤いように見えた。

 紗江子は息を殺して、元来た道を戻ろうとして、踏みとどまった。

 何故、自分が逃げなければならないのか。

 先ほど男にぶつかられた怒りが再燃してくる。

 わざと大きな音を立てて一歩踏み出せば、アスファルトを叩いた靴音が思いの外大きくて、心臓がぎゅっと縮んだ。

 女がゆらりと揺らいだ気がした。紗江子はひゅっと息を吸い込むと、足元だけを見てアパートに駆け込んだ。

 ちょうど一階に止まっていたエレベータの開ボタンを叩いて、扉の隙間に身体をねじ込むと、閉まるのボタンと階数ボタンを両手で同時に何度も押す。

 扉の隙間から、今にも女の姿が見えるのではと焦ったが、アパートの入り口は静かに明るいままだった。

 六階に着いて扉が開いても、直ぐには箱から出られず、耳をそばだてた。足音を忍ばせてエレベータを降り、無人なのを確認してから今度は一目散に自分の部屋に走る。

 焦りすぎて覚束ない手元に苛つきながら鍵を開けて、漸く自室に入ると、膝から力が抜けた。大きな溜息が唇から漏れて、紗江子はしばらく玄関に蹲っていた。

 ひりついていた喉に渇きを覚えて、のろのろと立ち上がった紗江子の身体が、びくりと揺れる。肩から提げたピンクのバックから、鋭い電子音が響く。

 慌ててスマホを引きずり出すと、非通知の表示だ。手が震えてスマホが滑り落ちていく。固い床とスマホがぶつかる音と同時に、呼び出しは途絶えた。


『落ち着いて、紗江子』

 千恵からのLINEの返事が表示される。

 落ち着いているし、落ち着いていられるか。

 紗江子は苛立ちながら硝子面にひびの入ったスマホを睨んだ。

『追いかけてくるの。待ち伏せてるの』

 もう何度目だろう。あれから背中を向けた女は、紗江子が行く先々で待ち伏せるようになった。紗江子が気付いていなくても、女はどこかにいるらしい。友達が撮った写真の片隅にも、確かに女が立っていた。

 通勤電車の中でふと振り向いて女の背中を見つけた時には、叫びそうになった。

 未だ見ていないのは、会社の中と、アパートの中だけだ。

『でも、絶対に部屋はバレてる』

『どうして』

『手紙が入ってた。いつも見てるって書いてあった』

 一昨日食べたスイーツ、先週行った映画のタイトル、先月に買った下着の色、その間にあった、様々な事が、事細かにリストになって同封されていた。思い返せば、記憶の中のそのどの時にも、女の後ろ姿があった。

『やっぱりストーカー?』

 警察に相談した方がいいとか、盗聴器がないか調べて貰ったらとか、ありふれた長文が千恵から届いたのを読み飛ばす。

 そんなことしたって。

『そんなことしたって、まあ、警察は動いてくれないだろうけどw』

 心を読んだように千恵から追加でぽん、と届いた一文に、紗江子は悔し涙が溢れた。

『どうせ、他人事なんでしょ』

『そうじゃないけど。私じゃなくて、ちゃんとしたとこに相談しないことにはどうにもならないよ』

 突き放したような返事に、紗江子はスマホを投げつける。

 それから思い直して拾い上げ、講座のグループチャットに同様の相談を書き込んだ。数秒もたたずに既読の意味で使っているハートがぽんと立て続けに赤く染まり、すぐに数名から紗江子の身を案じる書き込みが投稿される。

 一番最初に丁寧に、紗江子の心身が大丈夫かと書き込んでくれたのは『りんりんさん』だ。

 日頃、千恵にあれこれと陰口を告げていた自分を恥じて、また涙が滲む。

『サエコさんはかっこいい女だから大丈夫! そんな変な女、ガツン、と強く言っていいんですよ!』

『ありがとう。そうよね、なにも、か弱い女でいる必要なんてないよね!』

『いつもみたいに、強気で突撃しちゃってください。応援してます!』

『やっぱりここにくると、元気出る』

『よかったです~』

 紗江子は背筋を伸ばすと、鏡に向かってにっこりと笑ってみた。

「そうよ。あんな女相手に、なんでこそこそしなきゃいけないの」

 明日は、気に入りの服ででかけよう。りんりんさんとお揃いなのが気に入らなかったけど、それが今は心強い。

 紗江子はクローゼットを開けて明日着る服を取り出し、もう一度鏡を見て微笑んだ。


 お気に入りの服が皺になるのも構わずに、紗江子は裾をぎゅっと握りしめた。心臓はばくばくと煩く打ちつけ、呼吸は荒い。扉に背中をつけて小さく呻いた。混乱した頭を紗江子は両手で抱え込む。

 アパートの階段に、あの女がいた。

あの女を追い払おうとしただけだ。だって、追いかけてくるから。

 ストーカーだと思ったのに、違った。

 あれは、守ってくれている人だった。

 それなのに、追い払ってしまった。

 だって、怖かったから。

 なぜいつも待ち伏せていたのか、どうやっていつも出かける先を知っていたのかわからなくて、怖かった。

 だから、殺してしまった。殺すつもりではなかった。

 エレベータがなかなか来なくて、非常階段で降りていたら、階段の途中にあの女が背中を向けて立っていた。りんりんさんに言われたことを思い出して、怒鳴り散らしたら、いなくなった。

 それなのに、次の日、まさかと思って階段を確認したら、またそこに立っていた。

 だから、紗江子は、何をしているのかと問いただしながら、後ろ向きの肩を小突いたのだ。

 女は無抵抗に前に倒れて、人形のように転げ落ちていった。

 自分が叫んだような気もするが、女は悲鳴を上げなかった。すぐ下の踊り場にうつ伏せに女が落ちて、腕が、脚が、腰が、首が、変な方向にぐにゃりと歪んで跳ね上がったのを見た。

 パニックに陥った紗江子は部屋に逃げ帰り、しばらく震え続けた。

 痛いくらいに静かな夜だったのに、アパートはいつものように穏やかなままで、騒ぎの一つも起きなかった。

 ようやく、救急車を呼ばなくては、と腰の抜けかけた身体で非常階段を見に行ったが、階段には誰も居らずゴミの一つも落ちてはいなくて、まるで初めから何事もなかったかのように、静まりかえっているだけだった。

 棒立ちになっていた紗江子の耳に、足音が聞こえた。

 重たい足音だった。

 がちがちと奥歯が鳴って、気が遠くなった。怖いのに、踊り場を曲がって足音の主が現れるのを見届けずにはいられなかった。

 階段をあがり、紗江子を見ていやらしく笑ったのは、いつかアパートの近くでぶつかった、あの男だった。

「今日は、あの気持ち悪い女、いないんだ」

 男は片手に、写真を持っていた。紗江子が部屋で着替えている写真。

「邪魔者もいないし、これの続きを、見せてくれるよねえ」

 にちゃりと開いた口の中で唾が糸を引くのを、紗江子はぼんやりと眺めていた。

 男が写真を見せつけながら、手を伸ばす。

 紗江子はじっと、写真を見ていた。

 だって、その写真の紗江子の部屋の片隅に、あの女の姿が写っていたから。

「逃げないって事は、いいんだよねえ」

 男の粘ついた指が、紗江子の手首に触れる。

 紗江子はびくりと、肩を揺らした。

 男の後ろに、あの女が背中を向けて、立っていたから。

 紗江子の視線に気付いて、男が振り返る。

 叫んだのは、どっちだったのかわからない。

 気がついたら、紗江子は部屋で蹲って、泣いていた。

 怖かったのがどっちかなんて、もう、どうでもよかった。

 女の首は、変な方向に捻れて歪んでいた。


 殺してしまった女が、まだ、追いかけてくる。

 あれは罪悪感がみせる幻覚か、それとも悪夢か、はたまた本人なのか。

 いずれにせよ、あの女はストーカーから、紗江子を守ってくれていたのだ。そして、今も守っているつもりで、まだ追ってくる。

 もう守る価値のない人物に成り果てた紗江子を、何から守ろうというのか追ってくる。

 紗江子を追い回していたあの男は、怯えきったのか捕まったのか、いなくなってしまった。

 それなのに、あの女はまだやってくる。紗江子に突き落とされて捻れた手足で。

 どうすればいいのか。

 どうすれば、あの女は追ってこなくなるのか。

 だが、助けを求めるには、罪を話さなければならない。

 話したら、捕まってしまう。

 いや、捕まるのはいい。

 だって、人を殺したのだから。

 女は相も変わらずにいく先々で、背中を見せて立っている。

 だが、手も足も首も指も、おかしな方向に歪んでいるのだ。生きている訳がない。

 紗江子が恐れているのは、捕まって収監された後、逃げ場もないのに女が追いかけてくることだ。

 逃げられない、でも、逃げたい。

 いつまで、どこまで追いかけてくるのか。

 逃げられない。それならいっそ、逃げ続けた方がいい。

 そう思って、紗江子はあちこちと出歩いた。一カ所にいるのは恐ろしい。あの男が持っていた写真を見る限り、どうやら紗江子が気付かぬだけで、家の中にも立つのだ。部屋にいるのが恐ろしかった。

 だが、どうして、警察は捕まえにこないのか。紗江子は人を殺したのだ。

 捕まらないのは、死体がないからではないのか。

 なぜ、死体がなくなったのか。踊り場に、放置したではないか。

 あの男が動かしたのか。私を脅そうと、それで強請ろうと、何処かに死体を隠したのだ。

 なぜ、警察は、女の死体を見つけないのだ。

 人が一人、死んだというのに。

 紗江子は苛々と爪を噛む。

 そして、ふと思いつく。にっこりと笑った。

 見つけられないのは、あれが動いたからではないか。死んだあの女が、動いたからだ。

「そうよ、そうに違いない。死んだ後で動いたのよ、なあんだ」

 大声で紗江子は笑った。

 皆が変な目で見ているのは、死体が後を追ってきているからではないか。

 紗江子は振り返る。

 周りの人々の視線が、慌てて剥がれていく。

 紗江子を避けて割れた人波の向こうに、見慣れた背中が見えた。

 奇妙な方向に曲がったままの首は、赤い髪に彩られている。

 どうすれば終われる。

 どうすれば、追われずにすむ。

 どうすれば、私の人生は、追われずに終われるのか。

 もうやめにしたい。

 それなのに、終わらせようとすると、追ってきているあれが、私を助ける。

「助けて」

 紗江子の掠れた呟きに、人々は目を反らした。

 背中を向けている女だけが、応えるようにゆらりと揺れた。

 助けを求めようとしても、罪を白状しようとしても、あれが紗江子を守ろうとしてことごとく邪魔をした。

 行く先々で、人が消える。

「もう、やめて」

 叫ぼうとして、紗江子は声を呑んだ。

 そんなことをしたら、周りからおかしな人だと思われてしまう。思われてもいい。

 でも、あれは紗江子のことをそう思われたくないらしい。誰かが眉を顰めたら、どうしよう。また、屍が積み上がる。叫べない。でも叫びたい。叫んでしまいそうだ。

 いつの間にか紗江子の後ろに気配があって、歪んだ指が喉にかかった。

 紗江子は口を薄く開く。ぐう、っと音が漏れた。

 声が出せぬように、喉が潰される。害そうとしているのではない。助けようとしているのだ。紗江子がおかしな人だと思われないように、紗江子が叫ばぬように、手伝ってくれている。折れているであろう指が紗江子の喉に突き刺さり、女の指がまた折れる。枯れ枝を踏んだみたいに、乾いた音が響いた。

 助けて。

 私が、なにをしたというの。

 私は、あなたに、なにをしてしまったの。

 あれはそもそも人だったのか。それともはじめから、人などではなかったのか。

 紗江子の肩に、背後からことりと丸い頭蓋骨がもたれかかる。

 そうだ。

 紗江子は思い出す。

 あの日。

 夜の十字路で。

 紗江子は背中を向けて道の真ん中に突っ立っていた女に、ぶつかられた。

 足音が聞こえていたはずなのに、女は避けようともしなかった。

 だから、ぶつかってやったのだ。

 女が紗江子を、後ろから抱きしめる。もう、背中を向けてはいないのだろう。胸の柔らかな膨らみが、紗江子の背中に押し付けられる。

「先にいきます」

 耳朶に、夜よりも冷たい息がかかった。

 あの日も、女は、紗江子にそう言わなかっただろうか。

 紗江子にぶつかられた女はたたらを踏むように一歩押し出され、背を向けたまま呟いたのだ。

『先にいきます』

 早く行けよ。

 紗江子は十字路で舌打ちをした。

 行き先が同じだったから、女の後を追うような形になった。

 道連れの気まずさを持て余して紗江子が遠回りをしようと角を曲がると、女は少しだけ振り向いた。

『おわれる』

 あの「おわれる」は「終われる」だったのだろうか。

 女の重さを背中に感じて、うっすらと、紗江子は思った。

 私が追いかけたから、私を追いかけたから、何かが「終われた」のだろうか。追いつかれた私は、どうなってしまうのだろう。

 てんでばらばらに向いた指が、紗江子の頬を愛おしむように撫でた。

 女の唇が、紗江子の耳朶を喰む。冷たくて、柔らかくて、心地よかった。

「おわれた」

 ふっと、背中から女の気配が消えた。

 顔を上げると、紗江子の前を、すらりと背の高い女が歩いていた。軽やかに赤い髪とワンピースの裾を靡かせて、人混みの中に溶けていった。

 立ち尽くす紗江子に、誰かがぶつかった。

 紗江子はたたらを踏んで蹌踉めく。

 唇が自然に開いた。

「先にいきます」

 潰れた声でそう言った。

 紗江子にぶつかった人は、可愛らしい声で「ごめんなさい」と謝った後で、顔を覗き込んでにっこりと微笑む。

「お先にどうぞ」

 道を譲られたら、先に行くしか、ないではないか。

 紗江子は茫然とする。

 先にいったら、追えないではないか。

 追えなければ、私は。

 ぼんやりと虚空を見詰める紗江子を残して、人々は動いていく。

 やがて大勢の人波の中に、紗江子は呑まれて見えなくなった。

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